それもまた運命か

やっぱりたまに、、、なぜ男に生まれて来なかったんだろう、と恨むことがあります。

私の実家は商売をしており、第一子に跡取りの男の子を望んでいました。
生まれてきたのは私、女子であります。

そのことをプレッシャーに感じてしまった母は、数回だけ出たお乳が出なくなりました。母がどれほどにプレッシャーに思ったのかは知りませんが、私の3歳年下には(学年では4学年下に)弟が生まれ、オヤマ家は跡取りが出来たと安堵し、我が家の人気は弟に集中しました。そして、第3子にも男の子が生まれ、大人たちは大変に安堵しました。

私は、第一子らしく周囲からは大切にかわいがられ、何不自由なく育ちましたから、なにも恨むこともないのだが、胎児の時から「男の子であってくれ」という周囲の期待がどこかに刻印されてしまったかもしれません。

女性は「仕事か結婚か」の二者択一しかないと思った時代に、周囲の予想を裏切り、私は仕事を選択してしまいました。

仕事を始めてからは女性であるというだけで、いろいろな問題を抱えます。
けれど逆に女だからと許されてきたこともあります。

プラスマイナスするとチャラか、もしかしたら優遇頂いたことの方が多かったかもしれません。

けれど、けれど、けれど、
やっぱり、やっぱり、やっぱり、
なぜ男に生まれなかったのだろうかと思う事態は時々やって来ます。

私の曾祖母という人は4姉妹の次女でした。
嫁に行くべきところを、なぜだかオヤマ姓を名乗り、男まさりであったと伝説にあります。
その人もまた「男でありたい」と思ったのでしょうね。

その人の娘(祖父の姉)という人も嫁いだ家を繁盛させた男まさりの人でしたから、そういう血が私にも流れているのか、それとも胎児の時からの「男であって欲しい」という願いが刻印されてしまうのか。

明治時代の先祖のことを思ってみますと、少し大げさですけど当人にとってハンディとなることを背負って生まれてきたことが、なにかの礎になっているとしたら、それもまた運命ということでしょうか。

休日は小太郎と…

新中野の「AMBIENT(アンビエント)」さんで、伸び切った髪を男の子(子?)のように短くカットし、白髪をキチっと染めて頂いた。最近、土日はあれこれと忙しく、平日の夜は遅いから、なかなか美容院に行けないでいた。白髪が目立つと一気にふけこんじゃいますよね。グッスン。

その後は小太郎とくつろいで。
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「芋きん」ありがとうございます!

昨日の「雪っこ」での気仙沼の先輩との会の興奮がさめません。いやーいや、非常にすごいパワーでした。良き日の気仙沼のエネルギーがそのまま、やって来たかのような。

昨日、「学T専科」さんからおみやげに頂いた「満願堂」の「芋きん」を頂きました。美味しいです。
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「学T専科」さんは、冬期用の長袖のTシャツもご用意しています。5枚からオーダー出来るので、家族でおそろいTシャツなんて時にもいいですよね。素材はヘビータイプも選べるので、大切に長く着たい方にもお勧め。是非、ご覧ください。

千駄ヶ谷「雪っこ」にて気仙沼の先輩方と…

千駄ヶ谷の「雪っこ」は気仙沼出身の方のお店です。

地下鉄・副都心線「北参道」で降り、2番出口を出て、最初の信号を右側に渡るとすぐのところに「雪っこ」はありました。
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地下の階段を降ります。
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お店に入りますと、オオオ!気仙沼の先輩方がいらしてました。今日は私ごときをまぜて頂き、ありがとうございます。

ぬぁんと東京では珍しい「ほや」
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美味しいお刺身
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「もうかの星っこ」
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マンボウ! そして写真には見えませんが、この下に牡蠣も!
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そして「どんこ汁」ですよ。どんこ汁を千駄ヶ谷で食べるとは思いませんでしたー。もちろん(というか)メニューにはありませんけどね(^ー^)
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気仙沼を盛り上げるにはどうしたらいいか?
ああだ、こうだー!と勝手に盛り上がる我々であります。

「ふるさと納税」は、気仙沼の地元は(地元の役所は、かな?)「力を入れてないのではないか?」との意見が多数出ました。実体は存じませんが、例えば、南三陸町では地元を離れた人に郵送で納税を促すなどの努力をした結果、気仙沼市とは桁違いの金額が集まったとか。

気仙沼ももっと頑張ろうと千駄ヶ谷にて叫ぶ我々でございます。

なんですかね、気仙沼を愛する人達がこんなにたくさんいるのは不思議です! しかも、先輩方のパワーがすごいの。

ところで、話をしていくと不思議なご縁で結ばれている気がしてなりません。千葉さんは、私の母の実家が(戦後すぐに)太田に居た頃に隣合わせに住んでいらしたということですし、戦時中は祖父が戦地に行ったため、祖母と幼かった母が柏崎の叔父の家に身を寄せていた時代をご存知の方がいらしたり。どこかで皆が結ばれているという不思議さ。

気仙沼出身の皆様、こんでは、おだったことは出来ませんね。
なにしろ、月例で集まろうという話になりました。
第2月曜日を定例として、こちらに集まることになりましたので、ひとつよろしくお願いいたします。

いやぁーーー、それにしても楽しかった!!!

「雪っこ」は土日がお休みです。お越しの際にはご注意くださいませ。

今年も申し込んでしまった…サロマ

ウールトーラの父がいる!
ウールトーラの母がいる!
そーーーして、タロウがここにーーーいるぅ。

何を考えているのか・私は今年もウルトラマラソン・サロマに申し込んでしまいました。ひゃ・ひゃ・100kmでごじゃるぅーーー。バカァ。

昨年は60kmの関門にあと4分足りずに無念のリタイア。
今年は昨年越えをして、なんとか100kmのゴールを切りたい。

距離も長いが時間制限があり、各所の関門をクリアしないといけない。
80kmまでは、歩いていては間に合わない。

ふー(ーー;)。
とにかく、北海道の一番良い季節6月を堪能する旅に参ります。
今月から5月までは走り込みの季節となりまする。
出場される皆様、がんばりましょう。

アトミクラブ練習会:皇居(15回目)

アトミクラブの皇居練習会。
タイムごとにグループに分かれて走る。
私が入れるグループは(私が遅すぎるために)ない。

そこで、皆さんよりも1時間早い9時から走り始めました。

おおよそ12時過ぎに走り終えて着替えをした後は、神田のうなぎ屋さんに向います。9時から走れば、30kmを走っても12時半には皆さんと一緒に行けるというもの。

一人で30kmを走るのは難しいが、皆さんと一緒の時は距離を伸ばしたい。

昨日の「マラソン完走クラブ」の筋肉痛があるものの、身体は思ったほどには重くないか? でも、それなりに身体は疲れている。今日はLSDと割り切っていくことに。ゆっくりでいいから30kmを完走するゾ!

本日は快晴だが、風が強くて寒い。
一人で走っていると、スタートに向うMさんが通り、飴をひとつ手渡ししてくださいました。
その飴をなめていると元気が出ます。
こんな小さな飴に、すごいパワーがありますのぅ。
大会の時に持って行こうー。Mさん、ありがとうございます。

日曜の午前中というのに、皇居は大勢の人が走っています。
小さな大会に出ているような賑わい。
東京マラソンも近いですし。

10時を過ぎると、アトミクラブのトップの人達が、静かな足音でヒタヒタとやってきて、あっという間に抜き去っていきました。次のグループも軽やかに走っていきます。そして次のグループも、その次のグループも。速い。

本日の私の結果は、

1周目:31:58
2周目:31:22
3周目:31:26
4周目:31:06
5周目:31:42
6周目:30:28
——————–
合計:3:08:05

昨年末は3:06:17で走ったので2分ほど遅いが、LSDと割り切って力を抜いて走りましたので、こんなものでしょうか?

最近は、最後の周に遅くならないようにと思って走っています。
余力を残し、それを明日につなげたい。

走る間じゅう「うなぎ、鰻、ウナギー」と思っていました(笑)
それのために走ったといってもイイと思うわけで(笑)

Macで音楽クラブ例会・2009_2月例会

Macで音楽クラブ定例会

副会長のSさんがいつもプロジェクタを持ってきてくださいます。それにワイヤレスでMacを接続するという製品を持ってきてくださいました。

ネットでUSから購入したそうです。
よく見つけ出しましたねー。すごいです。

そして、、、オオ!これはすばらしい。
Macでバッチリ使えます。
しかも、アプリケーションを一つ入れるだけというシンプルさ。

1つの画面に4台のPCを表示出来ます。

さっそく、新旧のGrageBandを表示して、変更点などを比較してみました!
Sさん、ありがとうございます!

マラソン完走クラブ(26回目):駒沢公園ランニングクリニック

マラソン完走クラブの練習会に参加した。

今日の練習会には、なんと90名もの人が集まったそうです。すごいですねー。

練習場所は駒沢公園。
ここにはジョギングのコースがあって、朝の9時には大勢の人がランしています。この近くにお住まいの方はうらやましいです。高級住宅街でごじゃる。

アップをして準備運動。
その後はペース走から始まりました。
私はキロ6分のグループで走ります。

それから5つぐらいのグループに分かれて、ジョグとジョグの間に「動き作り」を取り入れての練習。一つ一つは、それほどハードという気はしなかったが、徐々にジワジワと身体にきいてくる。今(夜の23時過ぎですが)すでに筋肉痛が始まっています。いい練習を考えつくものです。

最後に「流し」を何本か行いました。私は足が遅いので必死で、一生懸命走りましたから、身体全体を使っています。

それと「腕振り」は何回も行いました。
私が普段思っていたよりも「速く」そして、練習の時は「大きく」腕を振ります。これで腕の筋肉痛に。

今日もいいメニューをありがとうございました。

すき焼きは家族団らんの味がする

昭和30年代、我が家は大所帯でした。

祖父母、両親、父の弟達と妹達、住み込みで働いてくださる方々、お手伝いさんが魚町と太田の2軒の家を使って住んでおりました。どちらも、さほど広くはないので、文字通りに川になって寝ていた記憶があります。

祖父は「さかなや」のだなはん育ちですから(注:気仙沼で「さかなや」と言うのは、町の魚屋さんの事ではなく、漁船のオーナーであったり、加工や卸売業などの経営者のことを言います)、食事は下々とは一緒にはとりません。

祖父母だけ別室で頂きます(なんだか時代がかっていますが、祖父は明治生まれですから、そういうものかと思っていました)。

昭和44年に祖父が亡くなった後も、祖母が私たちと同じ食卓を囲むことはありません。

祖父が亡くなる少し前から、父の弟や住み込みの皆さんが相次いで結婚して家を出ましたので、我が家は家族だけになりました。

それでも祖母は、私たちとは食卓を囲むことはありませんでした。

「あねはん(おかみさん)」としての習慣がしみついていたのか、せずねーわらすだぢ(うるさい子ら)と一緒では落ち着かないと思ったのか。

祖父母のお膳は5品か7品か、それとも9品か…、奇数と決まっていました。
ご飯とみそ汁と漬け物で3品、それにメインのおかずに小鉢が付くと5品。
デザートに果物などを付けると6品になるので、あと一つ小鉢を付けて7品にすることが多いのです。その1品が難しいと母がいつも悩みます。

そんな祖母ですが「すき焼き」の日は皆と一緒に一つの鍋をつつきます(後に、ホットプレートを入手してからは、これに鉄板焼きも加わりました)。

父の帰りが早い日はすき焼きでした。
父の帰りが早い日は年にいくらもなくて、クリスマスか、たまたま飲み会がキャンセルになったか….、そんな程度でした。

「すき焼き」には家族全員がそろいますから、幼い弟達は、大はしゃぎです。
「僕、お肉食べるー」と言ってるそばから、父がしずって(からかって)肉を箸でグイと寄せたりしては、祖母にしかられます。

それが楽しくて、またはしゃぎます。
父が「卵もう一つ」と言うと、弟らが「僕もー」と言います。
何というか、みんな嬉しくて、そしてガツガツ食べました。
祖母も観念してか、目を細めて見ていました。

昨日、ランチに入ったお店に「すき焼き定食」がありました。
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すき焼きを頂くのは、いつ以来でしょうか。
その鍋をつつきながら、家族で頂いた「すき焼き」を思い出しました。

昭和の時代は、きっと苦しい事も多かったのでしょうけれど、なんだか楽しい事ばかり思い出します。