昭和30年代、我が家は大所帯でした。
祖父母、両親、父の弟達と妹達、住み込みで働いてくださる方々、お手伝いさんが魚町と太田の2軒の家を使って住んでおりました。どちらも、さほど広くはないので、文字通りに川になって寝ていた記憶があります。
祖父は「さかなや」のだなはん育ちですから(注:気仙沼で「さかなや」と言うのは、町の魚屋さんの事ではなく、漁船のオーナーであったり、加工や卸売業などの経営者のことを言います)、食事は下々とは一緒にはとりません。
祖父母だけ別室で頂きます(なんだか時代がかっていますが、祖父は明治生まれですから、そういうものかと思っていました)。
昭和44年に祖父が亡くなった後も、祖母が私たちと同じ食卓を囲むことはありません。
祖父が亡くなる少し前から、父の弟や住み込みの皆さんが相次いで結婚して家を出ましたので、我が家は家族だけになりました。
それでも祖母は、私たちとは食卓を囲むことはありませんでした。
「あねはん(おかみさん)」としての習慣がしみついていたのか、せずねーわらすだぢ(うるさい子ら)と一緒では落ち着かないと思ったのか。
祖父母のお膳は5品か7品か、それとも9品か…、奇数と決まっていました。
ご飯とみそ汁と漬け物で3品、それにメインのおかずに小鉢が付くと5品。
デザートに果物などを付けると6品になるので、あと一つ小鉢を付けて7品にすることが多いのです。その1品が難しいと母がいつも悩みます。
そんな祖母ですが「すき焼き」の日は皆と一緒に一つの鍋をつつきます(後に、ホットプレートを入手してからは、これに鉄板焼きも加わりました)。
父の帰りが早い日はすき焼きでした。
父の帰りが早い日は年にいくらもなくて、クリスマスか、たまたま飲み会がキャンセルになったか….、そんな程度でした。
「すき焼き」には家族全員がそろいますから、幼い弟達は、大はしゃぎです。
「僕、お肉食べるー」と言ってるそばから、父がしずって(からかって)肉を箸でグイと寄せたりしては、祖母にしかられます。
それが楽しくて、またはしゃぎます。
父が「卵もう一つ」と言うと、弟らが「僕もー」と言います。
何というか、みんな嬉しくて、そしてガツガツ食べました。
祖母も観念してか、目を細めて見ていました。
昨日、ランチに入ったお店に「すき焼き定食」がありました。
すき焼きを頂くのは、いつ以来でしょうか。
その鍋をつつきながら、家族で頂いた「すき焼き」を思い出しました。
昭和の時代は、きっと苦しい事も多かったのでしょうけれど、なんだか楽しい事ばかり思い出します。