Apple新製品いろいろ

Safari(ブラウザソフト)出ましたね~。使ってみた。

ベータ版ながら、美しいインターフェースに仕上がっている。使ってみると、サクサクっと表示される感じが良い。製品版が待ち遠しい。

新しいPowerBook G4。私が今使っているのは2年前のSF Expoで発表になった初代型。そろそろ次の機種を使いたいな~(ボソ)。でも、3kgはちょっと重いかしらん? デカイのかしらん?

ボニート物語 —7

小さい会社で社員を採用するのは、大変なことだ。私が採用される側だったら、やっぱり小さなところにはリスクがあるので、遠慮したいだろうなぁ(^-^)。それでも知り合いを通じるなどして社員が入ってくれた。1人から2人になり、そうするうちに3人になり、4人、5人と、、、ある年、順調に仕事が増え、社員やアルバイトが増えた。

10年営業してみると、そういう調子のいい年もあるし、サッパリうまくまわらない年もある。今はそういう「波」というものを少しは感じることが出来るが、当時は有頂天になり、あっという間にスタッフは9名に増えた。

仕事の内容も変化し、「こういう仕事があるけどヤル?」というお話には、二つ返事で「やります!」と答えた。

しかし、ある時スタッフから「実はこういう仕事はやりたくないんです」という相談がきっかけで、「ボニートがやるべき仕事は何だろうか?」と考えるようになった。私はその答え探しをしているようなものだ。

なにはともあれ、スタッフが「夢」を語れる会社にしたいと願っている。

ボニート物語 —6

たった一人で創ってしまった「菩丹絃(ボニート)」に社員を入れたのは会社設立から4年目、平成8年の春のこと。

女性が経営する会社(しかも、たった一人の会社)に入ってくれる人はない。いろいろと声をかけ、従姉妹の友人という女性に来てもらった。従姉妹とよく似た感じの穏やかそうなその人は、不安もいろいろあっただろうが、兎にも角にもボニートに入ってくれた。 私と彼女の2人でのスタートが今日のボニートの基礎を創った。

私は社員を採用したことで、経営ということを考えるようになったと思う。一人で会社を創った時は、ただ登記したに過ぎず、経営などは考えていなかったと、振り返るとそう思う。

会社のルールを作る。従業員が働きやすい環境を考える。会社の在り方を考える。ボーっとしているように見えるかもしれないが、実はいろいろと考えごとをしていたわけだ(^-^)

私と従業員の考え方にはズレがある。年齢も立場も社会経験も違うから、それは当然の事だ。そのズレを確認しあいながら、納得できる妥協点を見つけて次に向かう作業は、私には案外と合ってることに気づいた。

ボニートの歴史の中で特筆すべきは彼女が入社してくれたことだ。それがなかったら、今日のボニートはなかった。

社員第一号の女性はその後ボニートを辞め、幸せな家庭を築いていている。

ボニート物語 —5

「菩丹絃(ボニート)」は「音楽制作業」として設立した。音楽制作の仕事のあても少しはあったし、ニーズもあるはずだと信じた。しかし「菩丹絃」を設立した平成4年は、バブルがはじけ、日本中に暗い空気が漂っていた。広告費は削減されてしまった。

「菩丹絃」の収入源はMacのメンテナンス業務になった。当時主流だったNEC98はスタンドアローンで使う。そこに出現したMacはネットワーク化に対応し、プリンターを共用し、社内メールを簡単に使える画期的なものだった。それを大手企業が導入したので、導入の際のインストラクター業務とよろず相談がメイン業務になった。

それでも目白の事務所には、しこたま金をつぎこんだ音楽機材一式を置いて夢を見ていた。昔の機材は大きくて場所を取る。それが次第に邪魔になり、西池袋に移転する時に、とうとう音楽制作業をメイン業務にすることは諦め、機材のほとんどを売り払った。

あれだけ金をかけた機材類は、二束三文になった。最初に買ったフェンダー・ローズ・ステージ、YAMAHAのDX7(初代)、KORG M1などの名機を次々にワゴン車に積まれた時には、思わず、目頭が熱くなったことを覚えている。ワゴン車の後ろを呆然と見送りながら、「ボニートをちゃんとした会社にするゾ」、などと誓った。

ボニート物語 —4

「どうして会社を創ったのか?」と聞かれることが多い。「どこにも入れなかったから」と答えている。「Macと出会ったから」と答えることもある。

その2つは確かに後押しにはなったが、もしも、まともな会社に就職したとしても、もしもMacと出会わなかったとしても、私は会社を創っていたのではないかと思う。

私の実家は何代か続いた商家で、事業を起こすことを考えるのは、皆さんが高校を出た後は大学に行こうかなと考えることと同じくらい、ごく自然のことだ(ただし、女性は、「商家の嫁になる」ということだったが)。

そういう環境で育つと、仕事するなら、いずれは起業しようという意識が私のDNAに染みこんでいるようだ。企業家などと、たいそうなことではなく、商人として物事を考えていることに気づいた。

折良く、平成2年の法改正(平成3年4月1日施行)により、有限会社は一人役員(社員)での設立が可能になったことと、Macを使って何か出来るかもしれないという大ざっぱな見通しで会社設立に踏み切った。

今にして思えば、なんとも世間知らずな話ではある。

ボニート物語 —3

「菩丹絃」は、京王線/千歳烏山駅下車・徒歩10分のところ、世田谷区給田4丁目でスタートした。私の自宅(いわゆるワンルームマンション)で登記した。

その後、目白に移転し(この後で社名をボニートと変更)、西池袋に移転し、そして西新宿に移転した。西新宿が一番長くて5年ほどになる。

目白移転の時に事務所と自宅を分けた。事務所に借りた建物は山手線沿いにあるから、そこを電車で通る時、窓越しにそれを見ては、当時を懐かしく思う。

事務所にお金をかけられなかったので、安さで選んだその建物は線路沿いでうるさかったし、半地下なため、日が当たらなくて年中、暗かった。2年目の更新をせずに西池袋に移転した。

目白の事務所と西池袋の事務所は徒歩8分くらいだったので、台車で往復しながら引っ越しをした。冬だったけれど、汗だくで移動したことを覚えている。たいした荷物がなかったし、目白は道幅が狭くて車が入りにくい場所だった。

西池袋の事務所は池袋駅・徒歩2分と便利だった。駅から10分ほど歩けば、同じ値段で少し広いところが借りられたが、狭くても駅に近いところという希望で選んだ。部屋の間取りが三角で、それでもいいかと思ったが、やっぱり使いにくい。人が増えると同時に移転した。

今いるスタッフの半分は、西池袋の事務所で面接をした。

ボニート物語 —2

「BONITO」は、魚の「かつお」という意味で付けた。名前を付けることは案外と難しい。最終的には自分が納得すればいいのかもしれない。

実家は代々、魚問屋を営んでいる。育った町は魚町(さかなまち)。そして、私は魚座生まれ。魚にちなんだ名前にしよう。

和英辞典を調べて、いくつか候補をあげ、その中から「bonito」を選んだ。鰹は、戦国時代には、戦の前に食べる縁起のいい魚であることもわかったし、江戸っ子には「初鰹」として重宝された。地元・気仙沼のかつおの水揚げ量は日本一だし、これでいっか。

後になって、bonitoはスペイン語で「美しい」という意味を持つことを知った。ただし、男性に対して美しいはbonitoで、女性に対して美しい・かわいいはbonita(ボニータ)を使うらしい。

ボニートは、よくボニータと間違えられた。

yosou.jp について

「競艇は知らない」という方も多いかもしれない。かく言う私も知らなかった(^^; 私は、競馬もパチンコも麻雀もしないし、宝くじも買わない。

そういう人が代表を務めるボニートがなぜ、競艇予想を始めるにいたったか、と話し出すと長くなるので、それはまた後日ということで、案外と競艇の予想はおもしろい。

まず6号艇の中から、1着、2着を当てるのだから、競馬と比べて当たる確率は高くなる。

また、「競艇オフィシャルWEB」が充実していて、出走表や選手情報がいち早くアップされる。競艇場まで行かなくても、ネット上で情報を集めて予想するのもおもしろい。レース状況をストーリーミング中継するのも早かった。つまり、インターネット向け、パソコン向けなのだ。

さらに、「らくらく投票システム」を使うことで、iモードやインターネットから(100円単位)で投票できる。

謹賀新年

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。昨年の「MOSA湘南セミナー」と「アップルユーザグループ懇親会」でデモを見た「LIFE with PhotoCinema」を使ってフォトシネマを作ってみた。正月だからいいかなと思い、音もつけたままでアップした。

けど、ローカルで見るのと違って、読み込みに時間がかかるので、あっという間に削除した(開かなくてイライラした方、申し訳ないっス)。写真の数を制御するとか、サーバを速い回線上に置くとか、ちょっと考えようっと。

「LIFE with PhotoCinema」楽しいよぉ~ん♪