第1回 KSB復興フォーラム

気仙沼サポートビューローが企画したKSB復興フォーラムの第1回が、飯田橋のルノアール会議室で行われました。

第1回 KSB復興フォーラム
「海と生きる」 ― 気仙沼市復興計画の概要

講師は、気仙沼市震災復興市民委員会委員の武山氏。
「気仙沼市復興計画の概要と市民委員会における議論の経緯」

市民委員は気仙沼内外の若手で構成されたグループで、気仙沼の皆さんは自身が被災された中、そして、東京からは何度も気仙沼に通って、勉強しながら計画をまとめたそうです。

それが形になって、明日、気仙沼市で配布されるそうです。
小学生にもわかるようにと配慮がなされた資料です。わかりやすい!

その資料を私たちにも配布いただきまして「18出来たプロジェクト」について、説明頂きました。
とてもわかりやすく説明いただいて、気仙沼市と災復興市民委員会が向かおうとしている方向が見えたように思います。

ただ、とても大きな問題については「国や県との調整」があったり、財政をどうするかなどの難題を抱えていて、明確には出来ない部分も多いようです。

つまり「まだ方向性も見えない」部分も、そういう状態であるということが見えたという感じでしょうか。

また、市の職員の不足で、一人で大きな仕事を抱えていらっしゃることもわかりました。

プロジェクトによっては関東地方からも応援出来るかもしれません。
拝見しますと「福祉」の面では核となる人材が不足していて盛り込めていないようです。プロジェクトは18に限定するわけではなく、足りないものは追加していくそうです。

我々も、なにがしかのお手伝いが出来るといいのですが。
その窓口的な役割も必要ですよね。

二次会で入った「白木屋」さんには「復興」のメニューがあって、気仙沼「男山」のお酒もありました。

もちろん、みんなで飲みましょう(^ー^)v。

パンは気仙沼「くら」

同級生が震災前に気仙沼に帰ったのです。
東京をひきあげて。

「で、どうするの?仕事あるの?」
「パン屋をするんだ」
「へぇー!」

修行して帰ったと思えば、あの大震災。
それでもめげずに、パン屋をやっていますよ!
同級生のリョウちゃんに車で連れて行ってもらいました。

こちらがパン屋さん「くら」(気仙沼市田谷前182-1)

手作りの看板。

この緑の建物がパン工房。

なんと、さらにフランスパンを焼くための釜をこれから作る計画があるんだって。
同級生が頑張っている姿を見ると、私の方が元気いただきます。

私たちも51歳になりました。
仕事がなくて困っている同級生はたくさんいます。
一歩一歩、前に進みたいですね。

AUGM気仙沼のキックオフ飲み会

大胆にもですね、AUGM気仙沼を開催しようなんと考えているのです。
AUGM(Apple User Group Meetingの略)は、全国各地で展開されいて、熱いアップルファンが集います。

気仙沼にも古くからのMacユーザがいます。
私の同級生もそう。
そして、ここにきて、iPhoneやiPadユーザが増えているのではないかと想像しています。

キックオフは震災後に気仙沼にオープンした「魚民」で行いました。

初めて会う方も、Macの話とかしていると、古くからの知り合いのような錯覚を覚えるから不思議です。楽しいイベントにしたいですね。

魚町ッつぁもどっぺす!

10日には、「魚町(さかなま)ッつぁもどっぺす!」というイベントがありました。

昭和時代、南町、八日町、魚町あたりは、「まち」と呼ばれていました。
それ以外のお住まいの方々が「まっつぁ行ぐ」というと、よそ行きの服を着ておめかしして、買い物に行く、食事に行くという意味です。

規模は全然違うけれど、たとえば「銀座に行く」みたいな、そんなイメージを思ってください。
それをうまいこと表現したイベント名。

さだまさしさんが歌ってくださいます。
事前に応募して抽選の方が行けるそうですが、魚町の住人には招待券が届いていて、母もイソイソと「魚町」に繰り出したわけでございます。

ご近所さんと再会を喜び、「まだ戻って来たい」と同じ境遇の皆さんと心行くまで話した母。

こちらは数少ない残った建物。ご近所の「藤田屋」さん。

残った方も大変。
避難生活を送る皆様も大変。

でも、また「魚町ッつぁ、戻りたい」です!

自宅跡地(2012年3月)

会社はお休みを頂いて、気仙沼におります。
やっぱり、また自宅跡地に足が向きます。
震災後、早い時期に取壊されて、こんなになってからほぼ1年が経ちました。

「こんなに狭かったかな?」なんて眺めて、ここが玄関で、こっちに入って、トイレがあって、、、なんて考えていたら、とうとう、悲しみがこらえられなくなってしまった。

この1年「絶対に泣かない!」と決めていました。
でも、今日はとうとう涙がポロリ。

台所があった場所、ジッと地面を見ていたら、すり鉢のカケラがありました。
母が大事にしていたすり鉢。
母は、いろいろなものをすりおろして料理してました。

これで、ずんだも作ったね。ゴマもすったし、いろんなものをすった。
このすり鉢に、母の嫁としての人生がしみ込まれています。

近くにあった青い陶器のかけらは、いつも使っていた小鉢。
それを手にとったら、もうね、たまらない気持ちになりました。

私たちは後世の人のために、どのような町を作るべきなんだろう?

魚町に数軒だけ残ったお宅に人が住んでいます。
夜はさぞ暗いでしょう。

それでも、海のそばがいい。あんなになっても海が好きと。
もちろん、そう思えない人もいます。
それでも、ここが良いと思う人もいる。

魚町。
こんな状態になっても、我がふるさと。
私も、ここに戻って来たいと思う一人なのであります。

3.11から1年が経ちました

昨年のあの日の前に戻れたら、、、
そう思って暮らした1年でした。
もう戻れないことはわかっているのに。

母のアパートの、目の前の大川には白鳥がいます。
そのおだやかで優しい日常。

あの大地震の時刻、目の前の道路に車が停車して、中から人が降りて、みなで黙祷する体勢です。
母とダンナと私の3人も立ち上がり、静かに黙祷をしました。

追悼のイベントが色々あるだろうに、なんだろうか、3人とも人の中に出ていく気分になれなくて、コタツに入って、あの日の事を話して、もう何度も繰り返し話している内容をまた繰り返して、、、。

「母と家族が無事だった」ことを心の底から感謝した。

夜は、弟と甥も交えて食事を。
(もう一人の甥と嫁は、剣道の試合で遠征しています)
またまた、あの日の事を話して、どれくらい繰り返して話すのだろうか、でも話さずにはいられない。

22時過ぎ、深夜バスで帰るダンナを気仙沼駅に見送りに行くと、空に「光プロジェクト」の光の柱が3本。
「あった!あった!」と私。

本町橋のたもとからも光が見えて、魚町から見たらどんなでしたろうね?
ダンナを駅で見送って、本町橋に帰るまで何度も上を見て、光プロジェクトの柱が優しい光を放っています。
写真は撮らずに私の心に焼き付けた。ありがとう。

気仙沼ランありがとうございました

私が勝手に企画した「気仙沼追悼ラン&ウォーク2012」には、たくさんの方のお力があって無事に終了することが出来ました。いくら感謝しても足りないほど、本当にありがとうございました。

気仙沼モーニング倶楽部 有志の皆様
EnjoyRunning 有志の皆様
内藤新宿300RC 有志の皆様
マラソン完走クラブ タンバさん
札幌のハシさん、八戸のイチナミさん

大鍋屋旅館さん
たいわ食堂さん
居酒屋ぴんぽんさん
喫茶マンボさん
南町紫市場さん

Re.us気仙沼の皆さん
撮影班をしてくださった畠山さん
同級生の皆さん(キーチ君、スダ、むらくみ、五典君、大和田タッケ)

千葉さん、三島先輩、アキヒロ君、塚本君、角星の奥さん、魚町の皆さん、沿道で声援いただいた皆様

そして、今回は参加出来なかったけど、メールやFacebook、ツイッターで激励してくださった皆様

本当にありがとうございました。

飲んだ後のラーメンは「喫茶マンボ」

かなり食べましたのに、「ラーメン食べよう!」って(^ー^)。
まぁ、今日はみんな走ってますから〜。

飲んだ後は「喫茶マンボ」のラーメンですな。
南町紫市場内のお店に移動。

細麺であっさり醤油味のラーメンは飲んだ後には最高っス!
そして、やっぱりここはパフェが美味しいのです。
なんつったって、本当は喫茶店ですから(^ー^)

ということで、こちら。