忘れ物をしちゃって、高校帰りの甥に持ってきてもらいました。
松岩のアパートにいるので、気仙沼高校には自転車通学しているそうです。
花粉対策メガネをかけて登場した甥でございます。ありがとね!
同級生が震災前に気仙沼に帰ったのです。
東京をひきあげて。
「で、どうするの?仕事あるの?」
「パン屋をするんだ」
「へぇー!」
修行して帰ったと思えば、あの大震災。
それでもめげずに、パン屋をやっていますよ!
同級生のリョウちゃんに車で連れて行ってもらいました。
なんと、さらにフランスパンを焼くための釜をこれから作る計画があるんだって。
同級生が頑張っている姿を見ると、私の方が元気いただきます。
私たちも51歳になりました。
仕事がなくて困っている同級生はたくさんいます。
一歩一歩、前に進みたいですね。
10日には、「魚町(さかなま)ッつぁもどっぺす!」というイベントがありました。
昭和時代、南町、八日町、魚町あたりは、「まち」と呼ばれていました。
それ以外のお住まいの方々が「まっつぁ行ぐ」というと、よそ行きの服を着ておめかしして、買い物に行く、食事に行くという意味です。
規模は全然違うけれど、たとえば「銀座に行く」みたいな、そんなイメージを思ってください。
それをうまいこと表現したイベント名。
さだまさしさんが歌ってくださいます。
事前に応募して抽選の方が行けるそうですが、魚町の住人には招待券が届いていて、母もイソイソと「魚町」に繰り出したわけでございます。
ご近所さんと再会を喜び、「まだ戻って来たい」と同じ境遇の皆さんと心行くまで話した母。
残った方も大変。
避難生活を送る皆様も大変。
でも、また「魚町ッつぁ、戻りたい」です!
会社はお休みを頂いて、気仙沼におります。
やっぱり、また自宅跡地に足が向きます。
震災後、早い時期に取壊されて、こんなになってからほぼ1年が経ちました。
「こんなに狭かったかな?」なんて眺めて、ここが玄関で、こっちに入って、トイレがあって、、、なんて考えていたら、とうとう、悲しみがこらえられなくなってしまった。
この1年「絶対に泣かない!」と決めていました。
でも、今日はとうとう涙がポロリ。
台所があった場所、ジッと地面を見ていたら、すり鉢のカケラがありました。
母が大事にしていたすり鉢。
母は、いろいろなものをすりおろして料理してました。
これで、ずんだも作ったね。ゴマもすったし、いろんなものをすった。
このすり鉢に、母の嫁としての人生がしみ込まれています。
近くにあった青い陶器のかけらは、いつも使っていた小鉢。
それを手にとったら、もうね、たまらない気持ちになりました。
私たちは後世の人のために、どのような町を作るべきなんだろう?
魚町に数軒だけ残ったお宅に人が住んでいます。
夜はさぞ暗いでしょう。
それでも、海のそばがいい。あんなになっても海が好きと。
もちろん、そう思えない人もいます。
それでも、ここが良いと思う人もいる。
魚町。
こんな状態になっても、我がふるさと。
私も、ここに戻って来たいと思う一人なのであります。