さよならボニート・ボーリング大会

先週・金曜日、最後の「ボニート・ボーリング大会」を開催した。いつもは忘年会に開催するのだが、昨年の忘年会は新制テレパス忘年会となったので、今年度は「さよなら大会」となった。

優勝は、ハンディ委員長・O君。
真の優勝者(ハンディなし)は、S君(不動の5連覇!)。

私? 私は、ハンディをいっぱいもらって(そんなにいらんと言ったが、ゲームがつまらなくなるとかでつけてくれた)3位。ハンディ委員長の采配がうまい。いい勝負だった。

優勝者一覧
1998年度 オヤマ
1999年度 S
2000年度 K
2001年度 Y
2002年度 O

ボニート物語 —16

この頃「合併発表」が多い。「合併」と「リストラ」が対になって発表されることが多いため、なにか暗いイメージがある。

「合併することになった。ボニートはなくなる。」と伝えると、「経営的に厳しいのか?」とやんわり聞いてくれる方が多い。

そうではない。経営的に厳しくなって合併するのではない。合併によってプラス効果があるから合併する。すでに業務提携による案件は始まっているし、なによりもスタッフがやる気を起こしているのは嬉しい限りだ。

これまでのボニートに足りなかった「開発部門」と「Webデザイン」を「合併」によって補えることで、ボニートがやりたくても出来なかった分野に進出することが出来る。

1月も残るところあとわずかになった。ボニートをご贔屓にしてくださった皆様、ありがとうございます。2月からはテレパスとして精進しますので、どうぞ、よろしくお願いいたします。

ボニート物語 —15

「合併しませんか?」という私の問いかけに秋山氏は驚いて、一瞬、凍り付き、その後で「一晩、考えさせて欲しい」と言った。

その翌日、私達は、むしろ合併によるデメリットをあげてみることにした。メリットはいくらでも出てくる。しかしながら、デメリットはいくら考えても出なかった。あまりにデメリットが見えないから怖いぐらいだ。何か大きく見落としていることはないだろうか?

互いの決算書を見て実態を見極めた。合併に関する書物を読み、この2社における合併が可能かどうかを調べた。合併を切り出した私から、テレパスを残しボニートは解散することと、秋山氏を代表とすることの2点を提示した。「合併」の話を切り出してから数日後、ボニートとテレパスの2社の合併を決定した。

その後、秋山氏が代表を務めるもう一つの会社「ティルダ」についての話し合いが行われた。株式会社ティルダは、株式会社レイズの代表取締役・中江氏と、テレパス株式会社の代表取締役・秋山氏の2人が代表を務める会社で、Webデザインを主たる業務としている。

設立当初は渋谷に事務所を構えていたが、諸事情があって、今はテレパス事務所の一部に机を並べていた。これを機にレイズかテレパスのいずれかに統合されるのがいいのではないかという話し合いがなされ、最終的には、秋山、中江、私の3人が集まって、テレパス・ティルダ・ボニートの3社の合併が決まった。

ボニート物語 —14

ボニートがやろうとしていることと、テレパスのビジネスモデルは非常に似ていた。

この数年間、秋山氏と私は頻繁に会うことがなくなっていたし、たまに会ってもお互いの仕事については話さずにいたから、同じ方向を向いて仕事をしていることに気づいていなかった。

「yosou.jp」の暗唱に乗り上げた部分を「うちがやりましょう」と秋山さんが言ってくれた。テレパスとの共同作業の始まりである。ボニートにないものをテレパスは持っているし、その逆も言えた。それぞれの仕事の幅が広がりそうでワクワクした。

「yosou.jp」を進めるうちに、お互いの利点を活かしつつ協力体制をとる「業務提携」を決めた。しかしながら、いざ「業務提携」の運用を考えると、やりにくい点はある。あくまでも別会社だという意識がある。仕事の進め方が違う。どちらかの会社に出向いての打合せは時間ばかりかかって進みが遅い。

ある晩、私が切り出した。「合併しませんか?」

ボニート物語 —13

会社を変革するにあたり、新しい企画を社内公募した。わずかだが予算をつけるから何か考えてくれということだ。

新しい事を考え出すエネルギーはおもしろい作用がある。私もくだらない企画をいくつか発表しては「つまんね~」と言われながらも、ない知恵を絞った。「こういうのはどうか?」と発表する時の皆の瞳が輝いている。

たとえ良い企画でもボニート内で実行出来なければ意味はない(外注するほどの予算はないから内策は必須条件である)。「それもいいんだけど、現時点では無理だね」というのもあった。

いくつかの案件の中から採用したのが「yosou.jp」サイトである。

ギャンブル好きの社員が予想をするための独自理論を形にしてみようと考え出した。当初の予定は「Macのソフト開発」だったが、皆で考えるうちにサイトでの公開(案)が持ち上がり、それもいいなと思ったので方向転換をした。

私はギャンブルとは無縁の人間なので「Goサインを出すとは思わなかった」と、後になってそういう話を聞いた。私は「皆がそんな事を考えるのか」と逆に驚いたりした。

「yosou.jp」は何度も挫折しそうになりながら、どうにか公開前まで辿り着き、公開まで秒読みかと思われた最後の最後に来て、いよいよ行き詰まってしまった。 

ここまで来たのに、このまま終わらせてはいけない。絶対に最終形まで持っていくゾ。藁をもすがる思いで、秋山氏にメールした。

「こういうことをしたいのだが相談に乗ってもらえないか?」

ボニート物語 —12

西新宿はボニートのクライアントに近い。仕事上なにかと楽だし、パソコンとその周辺機器を買うにあたっては、量販店が林立するので便利だ。地下鉄・大江戸線が開通し、交通の便はさらに良くなり、申し分ない。

ボニートの事業については、毎年悩みながらもなんとかやって来れた。しかし、待てよ。このまま「パソコンメンテナンス業」1本でいいのだろうか? パソコンは年々、使いやすくなっている。これまでのやり方で、次の10年を乗り越えられるだろうか? 答えはNOだ。

平成14年(2002年)1月、ボニートは開発をメイン業務にするべく一新することを社員通達した。通達を出す前の年、平成13年(2001年)秋から具体案を考え、変革には2002年から2004年までの3カ年を当てることにした。私自身が勉強しなければならないことが山ほどある。何をどうすればいいのか手探りで出口が見つからない。私は、とにかくC言語の勉強を開始した。変革に向けて、とにかく一歩を踏み出した瞬間である。

ボニートは平成14年(2002年)6月1日、創立10周年を迎えた。