亡き祖母の誕生日、生きていれば95歳か…

本日、祖母の誕生日。
大正3年(1914年)生まれだから、生きていれば95歳か。

不思議なことに亡くなってからの方が、生きていた時以上に祖母を想う。

私は良くも悪くも、祖母の影響をおおいに受けた。
「女はかくあるべきだ」という祖母の想い。
それに反抗しまくった私。

祖母は70歳を過ぎて胃がんの手術を受けた。
もちろん、その当時は本人に癌であることは伏せており、そのため疑心暗鬼に陥った祖母が何度も、
「リー子ちゃん、私は癌かい?」と聞いた。
そのたび私は(家族の誰もが)「違うよ」と答えた。
祖母は何度も家族は呼んでは、
「私は癌ではないか?」と聞いた。

なぜなら祖母の手術は緊急を要したため、普段では行われないであろう年末に、むりやりスケジューリングされて執り行われたからだ。祖母でなくても疑ってかかるのは当然であろう。

祖母は懲りずに誰かと2人きりになると、
「おばあちゃんは何を聞いても驚かない」とか、
「早くおじいちゃんのそばに行きたい」とか、
いろいろな言葉で、相手の本心を探ろうとした。

私たちは「絶対に!どんなことがあったも!秘密を守る」ことを決めており、胃潰瘍を繰り返した。たまたま祖母は若い頃に胃潰瘍の手術をしており、それもありかなと思う状況はあった。最後には祖母も「癌ではない」と悟った。幸い祖母の癌が再発することはなかった。

その手術の後、見舞いに行くたびに
「どこか痛い?」と聞くと、
「どこも痛くない」と言った。

後年、私自身が骨折して手術を受けた際に、やっぱり痛いことを知った。
どんなに小さな手術であっても身体にメスを入れられるわけですから、なにかしらの痛みはある。ましてお腹を大きく切った痛みはどれほどあったのだろうか?それでも「どこも痛くない」と言い、痛そうな顔一つ見せない祖母に、当時の女の強さをみた。

祖母には100歳までは生きて欲しかった。
祖母は顔だちが美しく、いつも和服をキチっと着こなした自慢のばあちゃんでもありました。「さかなや」の「あねはん(おかみさん)」として、かくあるべきと頑張ったのだろう。

おばあちゃん、ハッピーバースディ!
そちらはいかがですか?

読書:編集者という病い

「編集者という病い」見城徹・著。
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だいぶ前に買って積んであった。
読み始めたら、グイグイ引き込まれて、読みながら元気になる本。

ところで「編集」という仕事って何だろう?って思いますよね。
以前、同級生の、詩人でエッセイストで小説家の友人・白石公子ちゃんと話をしていた時に「編集者」とのやりとりがチラリと、本当にちょっとだけ出て来たことがあります。たいした話をしたわけではないけれど、その時に「本というのは、作家一人の仕事ではない、良き作家には良き編集者がいる!」と感覚的に思いました。とはいえ、それで編集者の仕事を理解したわけもなく、いまだに私の中では謎な職業だったので、書店でこの本を見た時におもわず買った次第です。

それに帯には「顰蹙(ひんしゅく)は鐘を出してでも買え!!」ですからね、おもわず手にとっちゃいますよ、これは。

見城氏は「幻冬社」の創業者。
廣済堂書店から角川書店に移り、次から次へとヒットを飛ばす見城氏。

そして、「幻冬社」を創立する際には、「失敗する」と全員から言われたが、それを成功に導いた。その内側を、この本を読んで知る。

対談のページに、小松氏が

同世代の作家と一緒に語り合って、「また書きたい」と思うことはなかったですか。
なかったな。彼らと会うごとに、彼らの作品を読むごとに、分かってきてしまうんですよ。彼らの書くものには、書かなければ救われない「何か」がある。上手くても下手でも、強い祈りが込められ、膿んだ傷の感触がある。癒すことのできない痛みがあるから、表現をする。僕にはそれがなかった。だったら僕は、書くことより、ほとんど無名のこいつらをプロデュースしたほうが面白い。そう思ったんです。

見城氏は、「この人」と思ったら、とことん付き合う。尾崎豊と出会ってからは彼の事務所の設立に(会社員という立場であるにも関わらず)奔走する。坂本龍一と毎晩のように飲み歩き、アカデミー賞受賞の時には、その場でともに喜びを分かち合う。村上龍と一緒に1週間泊まり込みのテニスを何度もする。そこまでやるか、と思うほどのことをする。

パワフルな行動の裏には繊細な、こわれてしまいそうな繊細な内面もある。

小さいことにくよくよするな!なんてウソだ。小さなことをくよくよせずに、大きなことをプロデュースできるわけがない。小さな約束も守れない奴に大きなことができるわけがない。

ここまでするか、という想いと、ここまですれば何か出来る!という元気のようなモノに満ちあふれた本。パワーをお裾分けして頂いた気分。