昭和の歌を口ずさみながら…

事務所のラジオから山口百恵の「としごろ」が流れた。一緒に口ずさんだ。
良き昭和の時代。気仙沼は元気だった。私も若かった。グスン。

キーチ君のmixi で「イコーレ気仙沼」が閉店した事を知った。
時の流れとはいえ、切ない。

「イコーレ気仙沼」は、1966年にオープンした「丸光(まるみつ)」デパートが前身である。気仙沼に最初にエスカレータが登場したのは「丸光」だ。私が小学校1年生に入学する年に祖父とエスカレータに乗って、私の「鉛筆けずり」を買いに行った。

私の祖父は、その時代に、すでに珍しくなった「和服」を通した人で、エスカレータに下駄で乗った。その途端に、足を取られた祖父がひっくり返ってしまった。

先に「初めてのエスカレータ」にチョコンと乗った私は、すぐ後ろでドテっという音と「イデデ」という祖父の声、係の人があわててやってきて、エスカレータが停まった事が鮮やかに蘇る。祖父は明治生まれには珍しく身長が180cmほどある大男で、そのうえ和服だから、ただ居るだけで目立つ人だ。エスカレータのまわりは多くの人が集まって注目を浴びた。その時買った「鉛筆けずり」は、まだ実家で母が使っている。

そんな「丸光デパート」は、高度成長とともに潤った。屋上には子供の遊び場があり、乗り物には子供達が列をなした。とにかく日曜日には大勢の人が繰り出した。

ところが、郊外に大型スーパー・ジャスコが出来て、その巨大駐車場に若い人達がいってしまい、旧市街地はスッカリなりを潜めた。

私の家は「丸光」に5分とかからぬところにあるから、それでも、何かと買い物に行った。「丸光」は「ビブレ」と名前を変え、「ビブレ」が撤退する時には従業員らがお金を出し合い、「イコーレ」として再スタートしたがままならず、帰省するたびに「がんばってください」となにがしかの買い物をしたが、その度に縮小されていくのが痛々しかった。

キーチ君が言うように「ノスタルジーでは語れない」そこには現実がある。旧市街地には年寄りばかりが残った。年寄りは車の運転が出来なくなる。足が弱る。近くの店で買い物をしたいと、口をそろえて言う。それでも購買力が足りない。60歳以上がいなくなったら、本格的なゴーストタウンになってしまうのだろうか? 若者が住まなくなってしまった原因を探し出し、改善していくほかはないのだ。

仮に気仙沼の旧市街地だけが、このようなシャッター通りであるならば、気仙沼の問題とも言えようが、日本全国でこのような事態になっているということは、もっと大きな考えでもって、地域を再生しなければならぬ。

私の家の2階から眺める気仙沼湾は、穏やかでキラキラしている。
その2階の応接間の椅子に座り、海を眺めた祖父を思い出す。
このきらめきをもう一度、なんとかならないだろうか?>全国に住む気仙沼出身の皆さま。