第4回 KSB復興フォーラム

第4回 KSB復興フォーラム「東洋一の魚市場 ふたたび ~水産業にみる気仙沼の強み〜」を開催しました。
(KSB=気仙沼サポートビューロー)

今回は、気仙沼漁協の佐藤亮輔組合長にお越しいただきました。

あの大震災の数日後に魚市場に関係する皆さんを集めて話したのは、
「6月に魚市場を再開する!」というもの。

佐藤組合長は、「その言葉は確かに私が話した言葉ではあるけれど、そこに居たみんなが言わせた言葉でもあったろうと思う」と述べています。

その話の直後に場内は「一瞬明るくなって、そしてまた暗くなった」と話されました。
その言葉はズシリと響きました。
「いったいどうやって再開出来るというのだ」という思い。

6月というのはかつおが始まる季節。
気仙沼は震災前、かつおの水揚げ日本一を誇ります。
その「日本一のかつおの水揚げ」になんとしても間に合わせなければならない。
そのためにはどうするか。

その時に「自分の仕事だけ復旧したらどうかと提案した」そうです。
出来ることだけをやる。
氷屋さんは氷を手配することだけに注力する。
「餅は餅屋ですから」と。
そういうことであれば出来るかもしれないと皆さんの意識が前向きになりました。

かつをを水揚げするために必要なものは「まずは電気と水と氷」。
その3つをどうにかしなければいけない。

「電気がない、水がない」これは市役所にお願いに行った。
しかも気仙沼は70~80cmの地盤沈下をしている。
とにかく魚市場のかさ上げを優先してもらうよう、これも市役所にお願いした。

市役所は「魚市場だけを優先するわけにはいかない」と言っていたが、
「これは気仙沼のためなのだ」と粘り強く交渉をされたそうです。

造船業の方も造船場を失っています。
従来のような修理は出来ません。そこで造船場に上げずに修理するという工夫をされました。

氷も資材も、とにかく自分が出来ることだけを早急にしよう。
そうして、奇跡の「6月の魚市場再開」が実現したのであります。

その背景にはこんなお話も。
5月頃に東京で会議がありました。
気仙沼を基地にしているかつお船の方々が集まった会議です。
そちらに佐藤組合長が列席しました。

かつお船の皆さんは気仙沼を心配され、今年は水揚げをしないでおきましょうという話をする予定だったようです。

しかし、気仙沼が魚市場再開に向けて頑張っている状況を伝え、またかつお船の皆さんも「それなら」ということで気仙沼に水揚げをしてくださった。そういう協力なくしてはかなわかっただろうと思います。そのおかげで、今年は16年連続日本一になりました。

ところで「かつおのお話」と佐藤組合長が話します。
「なぜ、気仙沼に皆さんが水揚げするかご存知ですか」

「かつお」というのは、色の変化が早いのです。
一日遅れると、黒い色が強くなってしまう。
銚子、八戸に水揚げしている間に色が黒くなってしまうのです。

かつおは、まずは北上し、それから戻ってきます。
その時に気仙沼沖を通ります。一番近い気仙沼港に水揚げするというのが理にかなっているのです。

ちなみに1600年代から、良港であったという資料が今も唐桑の小館(鈴木家)に残っています。
江戸に魚を運んだ記録です。
もっとも、当時は「生」は無理ですから、塩漬け、粕漬け、干したり、鰹節にするなどの工夫がありました。

「三陸沖は良き漁場と言われるが、どうしてかわかりますか?」と佐藤組合長。
「親潮と黒潮がまじるところと習いましたか?」ハイ、そう習いました。
「なぜ、親潮と黒潮がまじるといいのですか?」ハテ?

ロシアのアムール川の水が氷になって流れ出し北海道沖でとけます。
それが親潮にのって三陸沖に流れて来ますが、それには植物性プランクトンが多く含まれます。

また黒潮には、動物性プランクトンが多く含まれます。

それが混じり合うというのは世界的にみても非常に珍しい漁場となっています。
そのことで三陸は自然の恩恵を受けてきたのです。

なるほど〜。

江戸時代に伊達政宗がスペイン人探検家「セバスチャン・ビスカイノ」に港の調査を命じたところ気仙沼を見て、「われ 最良の港を発見す」という言葉を残しているそうです(スペイン語です)。その写しを佐藤組合長は大事に持っているそうです。

さて、現在、ノルウェーなど北欧では漁業の再生が成功したと言われていますが、はたしてそうなのでしょうか、と警鐘をならされています。

外国の漁は「まき網」といって、大きな船でダダーっと漁をします。
効率はいいのだが稚魚までも捕ってしまうので、そのうち魚がいなくなってしまうのではないかと心配されています。

それでも、漁獲量を制限して、休みを増やして、収入は同じとしたことで漁業の再生が可能になっています。

現在の日本は「とりたいだけとる」という方式だが、これを制限していかなければならないでしょう。
「割当」にすることで、「良いものだけを捕る」ということになるはず。
早急に手を打たなければなりません。

また、魚を適正価格で販売していかなければ漁業は破綻します。

「魚を知らない人は食べない
魚を知ってもらう努力をしている」

「魚を食べてもらいたい
そういう思いで仕事をしている」

「簡単な方法で魚を好きになってもらうことを
魚を手軽においしく食べてもらうためにPRしていきたい」
「今は骨なしの魚を普及している」

しかしながら・・・

「ご年配の皆さんなら、子供の頃に喉に骨がささった経験はおありでしょう。
そういう経験の中から、骨を上手にとりわけて食べることが出来たし、このくらいの骨ならどうってことないということもわかる。」

それに

「吉次」という魚は、本当に値段も高いが、味も良い。
その「吉次」の中でも最も美味しいのは骨と肉の間なんです。
だから、骨のない「吉次」を食べるなんてことは、どうなんでしょう?(笑)

この後は質疑応答でさまざまな質問が出ました。
貴重なお話ありがとうございました。

あの大震災の後に6月に魚市場を再開するという目標を聞いた時、多くの方は「無理だよー」と思ったと思います。私もそうです。でも、それを実行するには多くの方の協力が必要で、皆さんをそのように導いたリーダーシップはすごいものがあると感じました。

気仙沼はきっと復興する!と思います。
気仙沼は「海と生きる」というキャッチコピーを掲げました。
その言葉のもとに皆が前を向いて歩いている時に、国や県が成すべきことは何でしょう。
政治家の皆さんにもよくよく考えて頂きたいと思うのです。

あがらいでバー!

今年最後の「あがらいでバー!」が代々木・魚がしにて開催されました。
「あがらいでバー!」は気仙沼ゆかりの人達の集まりです。

気仙沼弁の「あがらいん」は、「どうぞ、家にいらしてください」という意味。

今回は出身者だけではなく、ボランティアで行ってくださった方々も参加してくださり、この会のひろがりを見せています。

本日のゲストは、気仙沼出身・日本マイクロソフトに勤務する齋藤玲紀さん。
気仙沼市震災復興市民委員会」のメンバーでもあります。

レイキさんの楽しいお話は皆を惹き付けます。
仙台で過ごした大学生までは呑気に学生生活を楽しんでいらしたようですが、その後、結婚してお子さんが出来て、東京で勤務することになって。意識が大きく変わったようです。

外資系企業ですから英語習得も大変だったと思います。
TOEICの点数をあげて、出張では外国の人と意見を出し合わなければならない。
レイキさんはそれをおもしろおかしく聞かせてくれますが、並大抵の努力ではなかったと思います。

いつも仙台から参加してくださっているやまちゃんは、もうすぐ誕生日。
サプライズで、気仙沼「コヤマ菓子店」からケーキをご用意しました。
見てください、このケーキ!すばらしいです。

やまちゃんそっくりの絵をデコレイトしてくださって、味もサイコー!
東京にも送ってくださるんですね。すばらしい!

これは「コヤマ歌詞店」の「キャラクターケーキ」といって、私の甥っこが小さい頃の誕生日に嫁が発注したのは「ウルトラマンケーキ」で、その見事な出来映えに驚き、そしてそれを見た甥が大変に喜んでいたことを覚えています。

そうして、もう一つのサプライズはこちら。
先日、誕生日を迎えたTKはプロレスが好き。
そこで、これこれ(^ー^)。

日頃から鍛え抜いていますね!

今日も楽しい「あがらいでバー!」ありがとうございました。
来年もどうぞ、宜しくお願いいたします。

父の気仙沼弁

祖母と父が亡くなってから、随分経ちます。
それでも、2人とはしょっちゅう会話しています。
頭の中で(^ー^)。

父は、車を運転して、大槌町山田町に行ってました。
取引先があったのだろうと思います。
私も車に乗せてもらって何度かドライブしたことを覚えています。

父は大槌町(おうつち)のことを「おーづづ」と言ってました。
「今日、おーづづサ、行がねっけ」
(今日は大槌町に行きましょう)

「やまたも寄って来っから」
(山田町にも寄りますね)

不思議なことに、気仙沼弁って、ただ濁点を付ければ良いというものでもなく、
山田って「やまだ」って読むのが普通ですけど、
父は「た」と濁らないのです。
「やまた」と言ってました。

「おーづづ と やまた」私の中ではいつも2つはセットです。

山田町も大槌町も、あの大震災で大変な被害が出ました。
父が通った道路や建物はあるのだろうか?
そんな事をふっと思ったりする本日でございます。

ホヤぼーやは26位、東北で一番!

「ゆるキャラグランプリ2012」にエントリーしていた気仙沼のゆるキャラ「海の子 ホヤぼーや」は26位と大健闘しました。

東北で一番でした。それはすごいことです。
震災後に、ホヤぼーやで癒された方は大勢いたと思います。

ホヤぼーや、頑張ったね〜。ウルウル。

気仙沼のお酒

先日、気仙沼に帰った際に、「すがとよ」さんにて、会社に日本酒のおみやげを買いました。
今日は全社Meetingがあったので、ミーティングの後で皆さんに飲んで頂くことに。

まずは「福宿(ふくやどり)」
角星さんのお酒で、あの大震災でお店はメチャクチャになってしまった中、奇跡的にこの「福宿」が1本だけ残ったというお酒です。そうして、それを見た社長さんが再起を誓うことになったわけでして、奇跡のお酒と思っております。

いまは男山さんからも発売されていますが、今回は角星さんのものを買って参りました。
社員から「美味しい!」と大評判!
あっという間に空になりました。結構、みんな、飲むなぁ(^ー^)。

次は、新しいお酒「恋文」というお酒です。
こちらも「男山」さんと「角星」さんから同じ名前で出ています。
飲み比べてみましょう。

角星さんの方はパッケージのイメージとは異なり辛口でした。
男山さんの方は、蒼天伝のような味わいがありました。

やはり、これは2つとも買って飲み比べですね☆
どちらの会社もネットで販売しています。
今みてみると、この新しい商品はまだネットでの注文は出来ないようですが、お問い合わせをしてみてはいかがでしょうか。

角星
気仙沼 男山本店

読書:気仙沼

「気仙沼」高村光太郎・著。

Kindle買ったら読もうと思っていたのが、この本。
Kindleで「0円」です。

9月に行われた「第3回気仙沼フォーラム」で川島先生から、この本の話を聞いていて、読みたいと思っていたのです。それが0円ですから。

高村光太郎は、昭和6年8月に三陸地方を訪れている。
その際に、気仙沼にも立ち寄った。

気仙沼は昭和4年に大火があり、魚町、南町、八日町などの旧市街地を焼きつくした。川島先生から見せていただいた当時の写真は、まるで、今回の大震災跡のようでした。いや、もっとひどい状態だったかもしれない。

昭和6年に高村光太郎がいらした時は、まさに復興の最中。

本の冒頭は、
「女川から気仙沼へ行く気で午後三時の船に乗る。」

当日、気仙沼に入るには船を利用することが多かったようだ。
そして、「岩井崎から奥深い気仙沼湾にはひる。」とある。
「午後七半。」

その印象は、
「船から見た気仙沼町の花やかな灯火に驚き、上陸して更にその遺憾なく近代的なお為着せを着てゐる街の東京ぶりに驚く。」とある。

「夜になれば鼎座に浪花節(なにはぶし)があり、シネマがあり、公娼が居なくて御蒲焼があり、銀座裏まがひのカフエ街には尖端カフエ世界、銀の星、丸善がある。」

高村光太郎は「柳田國男先生の「雪国の春」といふ書物をかねて愛読して」いて、「気仙沼あたりに来ればもうそろそろ「金のベココ」式な日本の、私等の細胞の中にしか今は無いような何かしらがまだ生きてゐるかも知れないなどと思つてゐた。」

その期待とはうらはらに、気仙沼は賑やかしい街だったようである。
何かの読み物を読んだ時にも、明治から大正にかけて、三陸地方は豊かであったという記載があった。

これを読むと、たしかにそうであったらしい。

高村光太郎は、そのあまりにも賑やかな気仙沼には、おそらくは1泊程度しかいなかったようでさる。そうして「釜石行きの船に乗る。」で終わっている。

いまは気仙沼市に合併した唐桑は、それまで「唐桑町」という別の町であった。
その唐桑に、いまも高村光太郎の文学碑が残る。
「黒潮は親潮をうつ 親潮はさ霧をたてゝ 船にせまれり」

高村光太郎は唐桑で下船しているのではなく、御崎を船で通りすぎる際に読んだ歌が石碑となって残っている。

ネットでよくよく検索すると、この「気仙沼」は、昭和6年夏、「時事新報」の委嘱により、三陸地方を約ひと月取材し、同年秋に連載された紀行文「三陸廻り」の中の一つ。

こちらのサイトで全文を読むことが出来ます。
高村光太郎「三陸廻り」

さらにネット検索をすると、気仙沼在住の画家佐藤淳平さんという方のページに「現在的視点その解説」があって興味深い。併せてご覧下さい。

さらにさらにネット検索してみますと、佐藤淳平さんは、私と同じ魚町2丁目の方のようです。たぶん、1〜2分程度のご近所さんであった可能生があります。プロフィールに「森産婦人科」で誕生とありまして、私も同じ病院にて誕生しており、あれ?っと思った次第です。間違えていたらごめんなさい。

気仙沼サポートビューロー(KSB)定例会

「気仙沼サポートビューロー(KSB)」の定例会が飯田橋のルノアールの会議室で行われました。

10/27(土)に「第2回 気仙沼を元気にする会」を開催しました。
その反省点などを話しつつ、来年に向けての活動内容や会員増員についての話が出ました。

来年もさらに飛躍するべく、それでも、皆さんが仕事をかかえながらの参加になりますので、その折り合いが難しいのですが、出来ることを継続するということを続けていきたいと思います。

気仙沼は音楽の街

今日の夜は家族で食事をします!
気仙沼に帰ったというのに、家族はほったらかしで、いつも申し訳ございません。

あぁぁ、でも、、、
復興 屋台村 気仙沼横丁」では、友人、知人らがライブをしています。

しかも、この寒いのに外です(^ー^)。
ちょこっと見ていきましょう。

ちょうど、「きりぎりす」さんがライブをしていました。
同級生がギターを弾いて、千葉出身で最近、気仙沼に移り住んだイトウ君がカフォンを叩いています。
いいね、いいね(^ー^)。

その後は、ランプシェードです。
気仙沼のJazzメン。
こちらにゲスト出演しているサックスさんが、実にすばらしい!!!
これは驚きました。気仙沼でこんなにすばらしい演奏を聴くとは。

最後までいたかったのですが、家族から電話。
「あんだ、どごさ、いんの?(どこにいるのですか?)」
「復興横丁」
「エエエ! 早ぐ、帰ってだいん」とな。

はーい。後ろ髪引かれながら、ライブ会場をあとにしたのでございます。

そうして、家族と食事。
甥たちは、ますます頼もしくなりました。
もうすぐ、(やっと当たった)仮設に引っ越しをするそうです。
バラバラになっていた家族が、やっと一緒になれるのかな?

まだまだ、大変な状況でございます。
皆様、お身体に気をつけて。

気仙沼で「第9回ひとめぐりツアー」に参加

気仙沼の若者達達の「気楽会」が主催する気楽会の観光案内課「第9回ひとめぐりツアー」に参加しました。

気仙沼市内を歩きながら見てまわり、途中で被災した方々の「その時の様子」を聞かせていただくという企画です。
このツアーはボランティアなんですよ。すばらしい企画です。
歩いてまわるので交通費もかかりません。

11時に気仙沼市役所前に集合。
参加者の自己紹介などをしていると、そこに忙しそうな市長さんが通りかかりました。
日曜日なのに大変ですね。
私たちを見つけると、挨拶をしてくださいました。ありがとうございます。

市役所前を出発して八日町、通りの壁に写真がたくさん展示してあります。
この仕掛人でもある斎藤さんが説明をしてくださいました。

フランスのストリートアーティスト「JR」さんは巨大な写真を壁や屋根に貼りつける手法によるグラフィティ作品を制作するアーティスト。その方の支援で、今、町中にこのような展示があって、目を引きます。

南町を通り、河原田を抜けて「コヤマ菓子店」の跡地です。
気楽会の代表の小山さんのお店でした。

ここを始めて訪れた参加者は「何もない状態」に、それほどの違和感はないと思いますが、毎年恒例の夏祭の賑わい写真を見せてもらったら、そのあまりの変貌ぶりに絶句されていました。

小山さんは、河北新報ビルに逃げ込んだそうです。そちらには70名ほどの人が詰めていたとか。しかも、ほとんどがお年寄りで、若い人は5名ほどしかいなかったそうです。

半分パニックになりかかっているお年寄りを3つの班に分けて、部屋に入っていただき、波が引くのを待ってから、命綱を付けるなどして高台に逃げたそうですが、お年寄りの皆さんが全員無事だったのは本当に良かったですね。

小山さんいわく「こんな若輩者に、ご年配の方が従ってくださったのは、日頃のコミュニケーションだったと思います」と。この地域は普段からお祭り開催など、協力体制が出来ていたので、あのような状況の中、暴走する人もなく一致団結出来たのであろうと分析していました。

それから魚市場方面に歩きます。
こちらにも、さまざまな写真が貼られていて目をひきます。
中でも特に目を引くのは「磯屋水産」の安藤さん。
ついつい写真に見入っておりましたら、ジャカジャーン、そこに安藤さんご本人が登場。これにはヤンヤの拍手です。

安藤さん。黄色い長靴がおしゃれです。
左後ろに安藤さんの写真が見えますか?

安藤さんもお話をしてくださいました。
驚きましたのは、安藤さんは「日頃から防災を考えていた」そうで、「水や非常食はいつも会社に用意していた」のだそうです。

それは山内ヒロヤスさんが書いた「砂の城」という本を読み、またヒロヤスさんと懇意にしている中で、「三陸にはいつ津波が来てもおかしくない」という備えが普段から出来ていたのだそうです。

家族、従業員の逃げる先も皆の合意がきちんととれていて、同じ経営者として大変に尊敬します。私もすぐに見直しをしなければならないと強く思いました。安藤さん、すばらしいお話ありがとうございました。
それから海沿いを魚町方面に向かって歩きます。
ちょうど良い時間になりまして「気仙沼プラザホテル」の「海舟」さんにて昼食です。

参加者は、「4色丼」とか海の幸を頂きます。
スタッフさんはラーメンとか(^ー^)。海の幸以外を注文されてました。
こちらが4色丼。

Joeさんが頼んだ「さんまのお刺身」も頂きました。ありがとうございました。

「気仙沼プラザホテル」のある高台から「五十鈴神社(おしめさん)」の赤い欄干を見ながら下ります。
魚町を通る時に「ここが私の実家の跡地」と話しますと、東京からいらした友人達は「エー、こんなに海のそば!」と驚かれていました。
この何もないところが跡地。

おしめさんの裏を通って、鹿折に向かいます。
ここには「かもめ通り商店街」がありました。今は何もありません。

その一角に「すがとよ酒店」さんがありました。今はプレハブを建てて、写真を展示しています。

そちらには「第2回恋文大賞」で「あなたへ」を書いて大賞をとられたお母さんと次男さんが迎えてくださいました。

今日は肌寒いので、お母さんが皆さんにコーヒーをふるまってくださいました。
それが暖かくて、暖かくて、ありがとうございます。
お店の跡地に立って、お父さんが見つかった辺りを指差して教えていただきました。あんなに近くにいらしたのですね。何ヶ月も見つからなくて、そうしていよいよ、ある建物が撤去される時に、そこに見つかったそうです。何とも言えない気持ちになりました。

それから鹿折にあがった「大型船」に参ります。
何度、ここを訪れても、胸がしめつけられる思いです。
この大型船はどうするのか、まだ結論は出ていないようです。
だいぶ錆び付いて来ましたね。

船主は、皆さんにご迷惑をかけてしまったこの姿を一日でも早く撤去して欲しいそうです。
ここに家があった方々も、もう船を見たくないと思います。
けれど、ここまで船が、しかも、これだけ大きな船が打ち上がってしまったのだということを記憶として残すためにも、市長さんは大型船を残そうという気持ちもあるようです。しかしながら、維持費もかかるらしく、市の財政を考えると、難しい問題です。

他にメモリアルになるような何かが出来ないものでしょうか。

鹿折から線路の上を歩いて、太田に抜けます。
この線路は大船渡線のものでした。いまは使われていない線路。
震災の直後は、ここを大勢の人が歩いて行き来していたそうです。

すがとよ酒店さんは太田に、仮の店舗をかまえています。
そちらにも立ち寄りまして、お土産にお酒を買って郵送して頂く手続きをしました。

こちらは新製品だそうです。
気仙沼に2つある造り酒屋が同じ名前の「恋文」で商品化したそうです。
会社におみやげに買いました。どんな味がするのでしょう。

ツアーの最後は八日町の「マルト齊藤茶舗」さんです。
あの大震災で2階まで水が押し寄せたそうですが、奇跡的に建物が残りました。
この辺りには、こういった古い建物が多かったのですが、残ったのは本当にわずかです。

暖かい「お汁粉とお茶」を頂きました。
今回、実費としてかかったのは、途中の昼食代と、こちらのお茶代(300円)だけです。

皆さんが動いてくださったのは、全部、ボランティア。
内容はとても濃いものでした。

皆で感想を言い合いました。
このツアーは12月から3月までは(寒すぎるので)いったんお休みで、4月から再開するそうです。
来年はまた新しい企画も考えているそうです。

気仙沼にお立ち寄りの際には、ぜひ、ご参加くださいませ。
皆様、本当にありがとうございました。

このバッジは、オリジナルの参加賞バッジです。かわいい!

Macで音楽クラブの皆さんと気仙沼めぐり

AUGM気仙沼には、Macで音楽クラブの皆さんが大勢いらしてくださいました。
ほとんどの方が、はじめての気仙沼です。

今は何もなくなってしまったけれど市内を、ポールの車に乗せて頂いて、一緒にご案内しました。

ストウさんが持っているのは、地元で有名な「クリームサンド」です。
私達には、なじみの味です。これを食べて大きくなりました(^ー^)。

このクリスタルビレッジヨシダ(通称ヨシダビル」のおかげで弟が助かりました。
まわりは何もなくなってしまったけれど、このビルだけが、まだ残っています。
壁面には「長い間本当にありがとうございました。」という文字。
あの震災がなければ、今も営業していたでしょうに。

Macで音楽クラブの皆さんは、これから東京に車で帰ります。
長い道中、どうぞ、お気をつけて。