弟の家の跡地

母と朝の散歩をしています。
魚市場前から内ノ脇辺り。
この辺りの被害は大きくて、母は一人では来れないのです。
そこで私をうながして「くんちゃんの家も行ってみよう」と、弟の家の跡地に向かいました。

実家がある魚町以上に、この地に来ると、胸がしめつけられます。
それは、弟の家が建ててから、まだわずかに4〜5年しか経っていないからでしょう。

弟と嫁がアパート暮らしをしてセッセと貯金して、やっと子供達にも部屋が出来て、2階には子供用ですけど卓球台を置いて、帰るたびに家族で卓球に白熱した思い出、それらすべてが、津波ではなくて火災で消えてしまったのです。

火災はすべてを燃え尽くして、何一つ残らなかった。

家にあがるまえに、このように階段をこしらえて津波対策をしていました。
階段の手前は駐車場で、3〜4台停めることが出来ます。

さらに玄関に入る手前にも階段を付けて、家を津波から守っていました。
その対策がよくて、津波の被害はあったものの、なんとか住めるね、と話していたようです。

311の数日後の火災で、そのあたり一帯がすべて焼けました。
お隣さんも、お向かいさんも。

頑丈に作った土台がむき出しに残っています。
ここを見ると、涙をこらえるのが大変です。
それでも、一歩、前に進もうね。

気仙沼のクリスタルビル

弟が命からがら逃げ込んで助けていただいた「クリスタルビル」は、取り壊しを待ってジっとたたずんでいます。
弟を助けてくださってありがとうございました。

その壁面には長い間のご愛顧を感謝する言葉が記されていました。
辺り一面の建物が取り壊しが進んでいて、ここも、あと少しするとなくなっていくのですね。

新しいマルキの工場

朝、母のラジオ体操が終わるのを待って、一緒に散歩に参りました。
「どっち方面に行く?」とたずねると、「工場の方」とな。
やっぱり、家業が気になるんですね。

マルキ小山平八商店の、魚市場前工場を建てていると社長である叔父から聞いていました。

オ!ありました、ありました。
辺り一面が、そのままの状況なので、すぐにわかります。

近くに行ってみましょう!
オオ!

さらに近くに参りました!
オオオオオオ!

ここまで来るのに、皆さんがどれだけの苦労をしてきたのでしょう。
従業員の皆さんも、経営者側も、みんなみんな、辛い辛い時を過ごしていますが、こうして形になってくると嬉しいですね。

それにしても、、、です。
国も、県も、市も、あまりに対応が遅すぎて、みんな自分でやっているのです。かさ上げも下水処理も。これで行くゾという決断は、本当に本当に胃が痛むような決意。

何かは決まっているのかもしれないけれど、それは被災地には何も見えない。
こういう時には、国のリーダーシップがどれだけ必要かということを感じる日々でございます。

気仙沼「くりこ」

「第61回 気仙沼みなと祭り」のラストのはまらいんや踊りを見ています。

今日は母の誕生日でもあり、家族で祝いましょう!
甥っこ達は食べ盛りですから、よし!「くりこに行こう!」

大人気「気仙沼ホルモン」もどうぞ。
気仙沼ホルモンは、キャベツの千切りにウスターソースを付けて、これと一緒にホルモンを食べるのです。

気仙沼ホルモンのお肉にはニンニクなどで下味がしてあります。

くりこさんは、私の一番下の弟の同級生のお店でもあります。
すごいたくさん食べましたのに、リーズナブルでお財布にもやさしい!
お勧めのお店です。

大はまらいんや踊り2012

「第61回 気仙沼みなと祭り」の歳後は「はまらいんや踊り」です!

今年は田中前の「大通り」を会場に、いくつも団体が練り歩きます。
「はまらいんや」という踊りは、一応、基本となるものはあるものの、皆さんが、自由な振り付けで踊るのもまた楽しいのです。

Re:US(リアス)の皆さんは、そろいの半天もバッチリ決まって、踊りも決まってすばらしいですね!

気仙沼中学校の部には、甥っこが出ます。
来た、来た!
オオーイ!ともちゃーーーーーーーーん、と4人が叫びます。
トモちゃんが気づきました。照れくさそうです。

トモちゃんは次男でして、お兄ちゃんは生まれた時から脚光をあびて育ちましたが、次男は注目される機会が少ないらしく、こういう時は多いに照れるそうです。それを知っていて、なおかつ、「トモちゃーーーーーん!」

母校「気仙沼高校」のダンス班。
さすが!決まってますね!

そして、来た来た!
同級生の母娘!
イヨッ!

写真は撮れなかったけれど、「わけすたづ(若い人達)」というグループは、おだづなよTシャツを着て踊ってくださいました。
ありがとうございました!

お墓参り

「第61回 気仙沼みなと祭り」のパレードの途中ではありますが、弟が仕事が終わったというので、車に乗せてもらってお墓掃除に参りました。

菩提寺は宝鏡寺。
弟夫婦と母と私の4人で、セッセとお掃除。

昨日のうちに買っておいたお花を持って。
お花は、紫市場の「塚本さん」と、母のアパートの近くの「なかよしさん」で購入しました。

私の実家の先祖代々の墓、そして、叔父さんやご本家にも参り、そしてそして、今は気仙沼には住んでいないという親戚のところもまわります。

祖母が生きていたころは、山を3つも4つも参りましたっけ。
それには及びませんけれど、こちらは誰それのお墓、そして、こちらは誰さんのお墓と、母がいちいち解説してくれるので、やっぱり、あちこち参りました。

祖母の台詞を祖母の代わりに申します。
「これっさ、これっさ、まぶりの神にならはらせ」
(どうぞ、私達を見守ってくださいね)

第61回 気仙沼みなと祭りのパレード

「第61回 気仙沼みなと祭り」のパレードがあります!

あの大震災があって、昨年はお祭りは中止。
2年ぶりのパレードです1

・・・と、その直前に、母の友人が仙台からいらっしゃるというので、いったん本町のアパートに引き返し、再び、田中前に移動、なんてことをしていましたら、フェンシングで銀メダルをとった千田選手のパレードは終了してしまったとか。誠に残念。

本来であれば、母も参加するはずだった「婦人会」による「気仙沼音頭」
そろいの浴衣が流されてしまったと母は連絡も取らずにいたようですが、今年はTシャツ参加の方もいらっしゃいましました。
母も来年は出るかな?
(見ていると、祭りの血が騒ぐようです)

自衛隊の皆さんには、沿道から「ありがとう」の声が多くかかりました。
あの時のはたらきは、被災地はずっと、ずっと忘れません。語り継いでいくことでしょう。
ありがとうございます!

気仙沼商会さんは地元のキャラクター「ほやぼーや」で登場。
現社長は、同級生の弟さん。がんばってますのー。

アメリカからも参加くださいました。
動きが「ビシッ」と決まっていてカッコいいです!

地元の「気仙沼市民吹奏楽団」も良かったですよー。

コヤマ山荘の「バナナジュース」

気仙沼には、震災前に「コヤマ山荘」という喫茶店がありました。
「バナナジュース」は、ちょっちした伝説というのか、皆さんの思い出がいっぱい!

なぜって、昔々、女子高だった母校(鼎が浦高校)の、数少ない「許可された喫茶店」だったコヤマ山荘。
女子高生のみならず、それを狙ってか?男子校生も通うわけで、そこで一番人気がバナナジュース!

今日は一日限りの「コヤマ山荘」がお目見え。
母と頼むは、やっぱり「バナナジュースお願いします!」

オー、これこれ。
「美味しいね」と母そして娘。

母と2人でも、よく行きましたね。コーヒーも美味しかったね。
あの2階の窓から、下を行き交う車の波を、なにげなく見ているという、あの風景を思い出します。

バナナジュースを飲んでましたら、気楽会の皆さんが大勢いらしてました。
気楽会さん、元気ありますのー。
本当に良い仲間ですね。まぶしいですゾ!

気仙沼のあさひ鮨

「第61回 気仙沼みなと祭り」の花火大会の途中、母と「あさひ鮨」さんに入りました。
「あさひ鮨」さんは南町にある仮設店舗「紫市場」の中にあります。

花火が終わってからは混みましょうから、花火が終わるちょっと前に。
ラッキーなことにカウンターに2人分だけ、偶然に空いていて、座らせて頂きました。

特上のお寿司。美味しすぎます!

震災前に南町にあったお店にも、家族で参りました。
店主の村上さん、お元気でお寿司をにぎってらっしゃいます。
気仙沼にお越しの際には、どうぞ、足をお運びくだしませ。

壁にかかっていた「絵」は、村上さんが書かれていて、震災にあっても絵も助かって良かったですね。

第61回 気仙沼みなと祭り

「第61回 気仙沼みなと祭り」初日の夜は、花火大会と海上うんづら、そして、灯籠流し。

母は「浴衣を来て行く!」とな。
被災地は「楽しみ」もない状態が続いてますから、母なりの、精一杯のおしゃれをして行きたいのでしょうね。

海上うんづらは、地元の青年会の皆さんが盛り上げてくださいます。
これは船の上に、このような飾り付けをして、そして、太鼓と笛が賑やかに盛り上げてくださいます。

震災後に、よくぞ、ここまで頑張りましたね。
涙をこらえるのに必死になりながら、拍手!

花火大会は、私の実家の前がメイン会場なんです。
今日も、私の実家跡地には、警備員さんが立っていました。

生まれてこのかた、気仙沼みなと祭りに「行く」のではなく、皆さんが「いらっしゃる」状態だったから、今夜のように「行く」という行為が初めてであることに、歩いていて気づきました。

人が多くて、歩くこともままならず、なかなかに大変でございます。
これまで、自宅にて、冷やしたビールやスイカをふるまったり、椅子を出して座って頂いたりとしていましたが、そういうことは遠方からお越しの方にとっては、ありがたいことだったのでしょうね。

なんてことを思いながら、花火を見ていました。

灯籠流し。
私の父や、祖父母、母方の叔父達の名前の灯籠も作りました。
母と一緒に手をあわせます。
何とも言葉に出来ぬ思い。

「海と生きる」
これは気仙沼市が震災後に打ち出したキャッチコピー。
私は、そして気仙沼の人はみな、海とともに生きてきたのだなぁ〜とつくづく思いました。
あんなに大変な大震災が起きてもなお、この地を離れることが出来ないのでございます。