気仙沼・羽田神社のお山がけ

今年も、気仙沼市羽田神社では「お山がけ」が行われたそうです。

「お山がけ」は、数え年、七歳の男の子(小学校に入る前の年にあたります)が、羽田神社の奥の院に参拝するという行事です。この奥の院が、急な坂道を上って行きますので、何といいますか「男になる」的な、気仙沼らしい風習です。

私は女子なので上ることが許されず、それゆえ、その急な道のりの詳細はわからないのです。
弟達が行くのを羨ましく見ていたものです。

男の子に付き添いの男性が付きます。
この男性には、父親が付いていってはいけないのです。
甘えてしまうから?理由はわかりませんが、とにかく父親ではダメなのです。

父親以外の親戚が付いていきます。
叔父さんに当る人が担当することが多いのですが、最近は叔父さんがいないケースもあり、その場合は親戚で上れそうな人を探して付いて行ってもらいます。

甥っこのヨシキの時には、嫁側のおじいちゃんが付いていってくださいました。
子供の方はスイスイ上がるけれど、おじいちゃんは大変〜、なんて話もあるようです。

横浜に住む弟の息子も「お山がけ」をさせたいと、父親(私の弟)が連れて行き、気仙沼に住む弟が叔父さんとして付いて行ったというわけでして。

この時期には雨が多いため、たしか弟の時には雨が降っていたと思います。
もしくは雨上がりで、ツルツルすべって難儀したという話も聞きます。

詳細は、「羽田のお山がけ」をご覧ください。

今年も元気に「お山がけ」が行われ、7歳の男子が立派な男になっていったのでしょう。
「お山がけ」の後には、男の子は「よくやった」「がんばったなぁ」と、たいそう褒められ、ちょっと大人な気分☆
そして、家族や親戚とともに食事をして労をねぎらうといったもの。

これ、女子は禁止なんですよねー。
でもまぁ、男子だけの、こういったものがあるのもまた良いのかな。

こういった行事はずっと残しておきたいものですね。

ゆるキャラグランプリ2012

「ゆるキャラグランプリ2012」に気仙沼のゆるキャラ「ホヤぼーや」がエントリーしました。

みんなで盛り上げましょう!と、
メール、Facebook、ツイッター、色々な情報が届きました。

どれどれ、私も投票を。
こちらは、メールアドレスごとに、1日1票を投じることが出来ます。

ぜひ、ホヤぼーやにも一票をどうぞ、宜しくお願いします!
出来れば、毎日、一票、お願いいたしま〜す!

第3回KSBフォーラム「津波のまちに生きて」

KSB(気仙沼サポートビューロー)では、
第3回KSBフォーラム「津波のまちに生きて ~歴史・民俗からみる気仙沼とその復興」を開催いたしました。

場所は、飯田橋の「東京しごとセンター」の会議室。
時間は、19時〜21時。
会費は、1,000円(学生500円)

本日の講師にお招きしましたのは、川島秀一先生。
震災前までは、気仙沼の「リアスアーク美術館」の副館長を務められていました。
今年の春からは気仙沼を離れて、神奈川大学日本常民文化研究所研究員を務められています。

「三陸の歴史を知らずして、真の復興はない」と明快に話されます。

川島先生のお宅は、私の実家から近いところにありました。魚町。
先生のお宅は跡形もなくなり、お母様であった京子先生(私達の高校の恩師です)は、津波の犠牲になってしまいました。

「この地に住む者は、いつも津波を意識している」
特に魚町は、気仙沼の中でも、海に面している土地ですから、これまでも津波による小さな被害はしょっちゅうありました。

「いざという時の準備というのか、そういうことはしているんですね」と話されます。

「写真はネガを、紙の資料は全て複製をとって仕事場にも置いていた」そうで、そのおかげで資料は無事だったそうです。

しかしながら、録音テープは全て流されてしまい、惜しい事をしたと話されていました。

冒頭に、とあるお宅の写真が映し出されました。

そのお宅は、只越にあって、津波対策のために1階部分は駐車場のようでした。震災前のものです。高床式とでもいいますか、2階以上に人が暮らしていたのですが、次の写真に言葉を失いました。
同じアングルから撮った写真は、2階に上がる階段を残しただけで、全て流されてしまっている。

あの津波が、どれだけ想定外だったか。

しかしながら先生は「歴史を知ることで、これを防ぐことが出来たはずなんだ」と力説されます。

スライドでは、気仙沼の地図が映し出されました。
その地図を使って、江戸時代中期に埋め立てられた場所を指し示してくださいました。

気仙沼は「自然の良港」などと言われるが、実は「緻密に計算された人工の良港である」と言います。
気仙沼が良い港といえる2つの条件は、
・風をよける港
・風を待つ港

気仙沼には「室根おろし」といって、風が吹き、それが船を押し出してもいるそうです。

江戸時代の人の知恵がなし得た技。
先生は、たまたま工事の際に立ち会い、その深く掘ったところから、江戸時代の埋め立ての技術を見る機会があったそうです。その技術力の高さ、仕事の丁寧さには驚かれたそうです。

数ある地震や津波によって被害を受けていたのは、昭和・平成に埋め立てたエースポート辺りであり、江戸時代の埋め立ては、時間をかけてシッカリと作業したのでしょうか、しっかりしたものであることに、什器の乏しい時代の丁寧な仕事がわかります。

今回の大津波は、気仙沼の、江戸中期の埋め立てたところ全てを飲み込んでしまいました。

特に被害がひどかった内ノ脇地区は、昭和の始めの頃までは「海苔の養殖場」、鹿折地区は「塩田」があったそうです。

先生のお宅があった辺りは、江戸時代には何もなかった土地。

昭和の「埋め立て工事」は、発展の象徴だったと先生は言います。
私も覚えています。
家から見える港町地区は、ドンドン埋め立てて拡張していました。
そこに広い道路が出来て、広がっていく様を見るのは嬉しいものでした。

気仙沼にも「防潮堤」を作る話が上がり、反対意見も多いのです。
このお話を聞いていると、果たして「防潮堤」を作るというよりも、根本的に「住んではいけない地域」として、高台への移転を急ぐべきではないかと思います。

気仙沼は4回の大津波にあっています。
・明治29年
・昭和8年
・昭和35年
・平成23年

120年に4回の大津波は「津波が多い」と言える土地です。

そしてまた、津波の他にも「大火災」が町を焼きつくしました。
大正4年、昭和4年の大火。
昭和4年の大火後の魚町の写真を見せて頂きました。

私の祖先が暮らした辺りも、何一つなかった。
今回以上ではないかと言えるほどの「火災での壊滅的な被害」
そんな中から立ち上がって今日があるのが気仙沼なんですね。

その大火の後、岩手県から気仙大工が来て「あっという間に作った」というほど、当時は財力もあったようです。

昭和6年に高村光太郎が気仙沼に来ますが、そこがあまりにも(復興のために)騒々しいので(東北のひなびた静かなところを目指していた光太郎は)幻滅して一泊もしないで、気仙沼を後にしたほどだそうです。

それにしても、埋め立てたところが、ことごとく被害を受ける様に先生は「すべてを否定されたような感じ」と言いました。
私も同じ印象を持っています。

気仙沼、そして三陸地方には、たくさんの記念碑が立っています。
明治の碑は漢文で難しく、村人が読んでいるようには見えない碑であるのに対して、昭和の碑は標語になっていて、誰にでもわかりやすいものになっているのが特徴です。

また、明治は供養費が多く、昭和は記念碑が多いのですが、昭和では朝日新聞が寄付を募り、そのお金を利用して建ててくださったことにもよるようです。

岩手県では「ここまで津波がきたよ」という場所に建てているが、宮城県はそういうきまりはないようです。

「津波石」というのが残っています。
あえて残そうとしたことにもよるそうですが、これは三陸に限ったことではなく、沖縄、宮古島、いらぶ島などには有名な場所があるそうです。

海で暮らす人達に共通するのは、津波さえもが「海からの贈り物」という考え方もあるということ。

例えば、大漁と津波の関わりということがあり、
津波の前年:いわしが大漁
後:いかが大漁

そういうことから「いわしで殺され、いかで生かされた」などといった言い伝えもあるとか。

また、三陸地方では、「水死者、魚介類を同時に拝んでいる」という点も興味深いそうです。
気仙沼では「早稲(地名)の踊り」の中に「かつお釣り」という踊りがある。
かつおの供養と、来年の祈願をする踊りだそうです。

そうやって、海に暮らす人達は、海からも恩恵を受け、そうして海によって被害ももたらされ、その中で折り合いを付けて生きているのだなと改めて思いました。

気仙沼の人達にも、川島先生のお話を聞いて頂く機会を持てたら、、、と思った次第です。

川島先生、貴重なお話をありがとうございました。

おかげさまでマルキの工場が稼働しました

「三陸新報に掲載されてますよ」と連絡をいただきました。
オオオ!とうとう。

実家の家業であります「マルキ小山平八商店」の潮見町工場が稼働しましたという記事が載ってました。

8月に帰った時に、急ピッチで工事が進められていた工場です。

これからですね。
正念場はこれから。
お客様、そして従業員の皆様、ありがとうございます。
そして、これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

気仙沼サポートビューロー(KSB)定例会

「気仙沼サポートビューロー(KSB)」の定例会が飯田橋のルノアールの会議室で行われました。

今日は会議室1号室と2号室をぶち抜きで予約してました。
参加人数が増えていて、2部屋必要になってきましたね!

ふるさと気仙沼を離れて住む私達が気仙沼に寄せる思いを書いて、定期的にPDFファイルとして送っています。あの大震災の前から続けています。

そろそろ、まとめる時期ですね!
気仙沼に住んでいなくても「気仙沼サポーター」が、こんなに大勢、しかも熱い気持ちを持ってます!
微力ですが、何かの力になればと思っております。

いつも最後に「気仙沼情報」を交換し合っていますが、時間を忘れるほど、皆さんがお持ちの情報をやりとりしいました。皆さんの情報力もまたすごいわ!

佐藤真海選手は9位!

ロンドンパラリンピックが行われていますが、オリンピックと比較すると、あまりTVなどで報道されていないので、チェックが大変ですよね。

そんな中、気仙沼出身の佐藤真海選手が走り幅跳びに出場しました。

このような大きなステージで自己ベストを更新!
これまでの4m50cmを大幅更新して、4m70cmを跳びました!
すごいです!

そうして、ベスト8には残れなかったものの、堂々の第9位でした。
真海選手、おめでとうございます。

ご本人のツイッターを読みますと、悔しかったのでしょうか、涙があふれて止まらなかったとありますが、私は立派な記録だと思います。

昨年は実家が被災して、練習どころではなかったのに、ここまで持ってこれて、すごいことです、ホント。

私達に勇気をありがとうございます!
私も、もう少し、頑張りますよー!

ゴーヘイ!気仙沼の会

皆様、最近の被災地の様子はTVなどでご覧になりますか?
現在、どのような状況にあるか、ご存知でしょうか?

被災地の復旧、復興はまだまだ全然・・・。
1年5ヶ月以上も経ちましたのに、いまも「住宅」「雇用」さまざまな問題は山積し、そして、住民の皆様は遅々として進まない状況に疲れています。

復旧・復興をはばむ事柄は様々で、とにかく色々な問題があるようです。
そのような中にあって、支援をしようと考える企業の方が集まる会が、東京都内で開催されました。

「ゴーヘイ!気仙沼の会」という名前。

「ゴーヘイ」って、どういう意味かといいますと、「Go ahead!」の気仙沼弁で、最初は漁業をする船で使われてから、一般にも広まった言葉です。

ゴーヘイ!「前へ進め!」

気仙沼市からは気仙沼市長さんをはじめとして、市の職員の方々もいらしての「雇用」に関する説明がありました。
懇親会では、さまざまな企業の取り組みについて話して頂きました。

「被災地はたくさんあるというのに、なぜ気仙沼?」とか、
「1年以上も経ったのに、企業として支援する必要性はあるのか?」とか

様々な事情がある中でも、被災地に思いを寄せてくださり、
そして、被災地もまた、いつまでも無償でということではなく、お互いにWin-Winの関係になることが出来ますように、模索しているところです。

三菱UFJリサーチ&コンサルティングさんの中と、気仙沼市役所の中に事務局があるようです。
ご興味がある方は、このブログのお問い合わせからでも結構ですので、ご連絡くださいませ。

こちらは市長さんによるデモ。
市長さんはデモの冒頭には必ず、あの震災で犠牲になった方の数と、いまだに行方がわからない方の人数を示されています。

そのことを、私達はずっとずっと、忘れてはいけない。
決して、忘れてはいけない。末代までも語り継ぎましょう。

竹仙にて、気仙沼のお話など

気仙沼大島ランフェスタに参加してくださった、同級生の部下さん達との飲み会が神田でありました。

神田の「竹仙さん
おかみさんは登米出身だそうです!

私の中学の同級生、タカハマ君の部下さん達が、気仙沼のボランティアに行ってくださって、その縁で気仙沼大島ランフェスタにも参加してくださって、ありがたいですね〜。

これまで走ってたわけではないんですよ。
初めての10kmだって言ってました。

あの大島の坂道はさぞや、きつかったでしょうね。
ありがたいです。

このお店は偶然に知ったそうで、やっぱり「宮城!」でいきましょう!

私達は「気仙沼」なんです!
と伝えると、
「なんだべ!」あははは。
それから方言全開でございます。

気仙沼と登米は、ほとんど同じ方言ですからー!

おもしろいメニューが多くて、あれもこれも食べてみたい。

白えび。

ワニ、って、あのワニですか?
そう、そのワニです。エーーーー!

カンガルーって、あのカンガルーですか?
そう、そのカンガルーです。エーーーーーーーーーー!

驚きの連続です。
一度、足をお運びくださいまし。

仙台城というのが正しいのだろうか?青葉城

弟も今日は仕事が休み。
息子達の部活も休み。

珍しく、休みが一致しまして、「どこかに行こう!」
一番行きたがっているのは弟本人ですけど(^ー^)。
中学生と高校生の息子が父ちゃんにつき合ってくれるなんて、いい家族ですよ、ホント。

私は夕方の新幹線で東京に戻らなくてはいけません。
それで、仙台の「仙台市博物館」で「インカ帝国展」をしているから行ってみようということになりました。

弟が運転してくれて、家族の夏休み。
ところが・・・博物館は月曜日はお休み。
あれ〜〜〜、今日は月曜でしたっけ?
(休みボケでございます)

そうそう、この博物館の前を、「仙台ハーフマラソン」で走りました。
ここは良いところですね〜。
まわりにも大きな建物がいくつもあって、何だろう?と思ってましたら、それは東北大のキャンパスでした。こういうところで学んでいるのですか。なかなか良いキャンパスです。

それはそうと、「せっかくだから、青葉城も行こう」と言うと、なんと!高校生と中学生の子供達は「行ったことがない」とな。

エ?
修学旅行で行かないの?

私は小学校6年生の修学旅行が、仙台・松島でした。
甥っ子たちの修学旅行は福島の方まで行くそうで、逆に仙台・松島には行ったことがないとな。へぇー、そういうものでしたか。

ドレドレ、行ってみますか。
ところで、私以下、全員、何十年前に来たっきり(^ー^)。
しかも、バスで連れて来て頂いたので、どうやって行くかわからない(^^;

「博物館の駐車場に車を置いて歩いていく?」とか言ってましたが、博物館の警備員さんに道を教わって車で移動。予想以上に遠いというか、坂道を上がるというか、こりゃ、歩いていたら母なんか熱中症になっちゃったんじゃないの?(^ー^)。

車を駐車場に停めると、まずは「宮城縣護國神社」がありました。
以前からあったようですが、立ち寄るのは初めてです。
仙台らしく、七夕の飾り付け。

中には、靖国神社のように戦没者の写真が、市町村ごとに分けられてありました。
「気仙沼市」の方も多くいらっしゃいます。
そして、戦艦大和の模型なども展示してありました。

私達の青葉城の思い出といえば、伊達政宗像の前で記念写真を撮ったことぐらいですが、その像は今もありました。
しかし、その前には、記念写真用の階段上の椅子というか、そういったものがありません。
みんな、どこで記念写真を撮るのだろう?
記念写真撮らないのかしらん?

伊達政宗そして「仙台城」(青葉城ではなくて仙台城と呼んでました、仙台城の方が正しいのか!)のCGを見せてくれるところもあって、なかなか見応えもありました。

子供達にも良い歴史の勉強になったかな?
母は、孫といる時が幸せそうに見えます(^ー^)。

良い夏休みをありがとね!