祖父の命日

本日、11月5日は祖父の命日です。
昭和44年に亡くなりまして、もう何年でしょうか。

30年以上もの長い年月、毎月5日は、祖父の「月命日」をしていました。
祖母は元気な間は、毎月5日にお墓参りを欠かさなかった。
私達・家族にとって、11/5というのは、大切な日でございます。

そんな本日、
お世話になった方が独立をされて、新しく事務所を構えています。
遅くなりましたが、お祝いに行って参りました。
とてもステキな空間で、事務所もこのようにデザインすると、実に居心地が良いのですね。仕事も快適に進みそうです。うちの会社も見直したくなりました。

膝の痛みも乗り越えて

先週まで、実は膝に痛みをかかえていました。
「えちご・くびき野ウルトラマラソン」の後に膝に故障が出ちゃったのです。

週の半ば、風邪がひどくなる前に弟のところ「おやま治療院(現在はおやま調整院)」で診てもらったら、膝の痛みはウソのように消えました。

西洋医学ではないから、なんか摩訶不思議なんです。

でも、実はあまり私は宣伝しないでおります。
なぜなら、弟の治療は、痛むところをただ優しくなでるように触っているだけで、
「これが治療なの?」と思う方が多いと思うのです。

中にはだまされたと思う方がいるかも。

弟は、最初は師匠の教え通りにバキバキと骨をならすような治療をしていました。
その後、勉強を重ねて、色々な試行錯誤を経て、今のスタイルにたどり着いたとうわけで。

私は弟のおかげで、このように元気にマラソンを続けています。
1シーズンにフルマラソンを4つほど。ウルトラマラソンにも挑戦して、速くは走れないけれど、ゆっくり長く走っています。
ダンナも、膝の痛みを克服して元気にしているのは弟の治療のおかげでしょう。

てっちゃん、本当にありがとね。
おかげさまで、あの故障の痛みは全くありませんでした。

ただ、、、転んでしまって、そちらのスリ傷は痛みましたけどね。ハハハ(ーー;
「おやま治療院(現在はおやま調整院)」は、JR東神奈川駅近く。

「第2回 気仙沼を元気にする会」を開催しました

「第2回 気仙沼を元気にする会」です!

11時から恵比寿ガーデンプレイスの「銀座ライオン」を貸し切って行います。
スタッフは9時半に集合して準備を始めました。
(皆さん、もっと早くからいらしてくださって、ありがとうございます)

このように準備をしております。

今日はホヤぼーやも来ております!

関東気仙沼高校同窓会・会長は鼎が浦高校のフェンシングOG。
フェンシングを知ってる方だからこそ出来る千田選手へのインタビュー。

千田選手からホヤぼーやに銀メダルをかけて頂いて、ホヤぼーやも「ゆるキャラグランプリ2012」頑張れ〜!

2次会は恵比寿ガーデンプレイスのお向かい「MLB cafe Tokyo」で行いました。
そこでサプライズがありまして、
お店の方のお取り計らいで、気仙沼のムービーを作ってくださいました。
しかも!BGMは、KABOちゃんの曲ですぞ。
すばらしい演出で感動でした。ありがとうございます!

気仙沼サポートビューロー(KSB)定例会

「気仙沼サポートビューロー(KSB)」の定例会が飯田橋のルノアールの会議室で行われました。

10/27(土)に「第2回 気仙沼を元気にする会」を開催するので、その打ち合わせなど。
それから、気仙沼に関する情報交換、ここがいつも気合いが入ります。

「ゆるキャラグランプリ2012」でホヤぼーやも頑張ってますよー!

気仙沼のさんまが旨すぎる!

実家の工場が復活しました。
その節は大変、ご心配をおかけしました。
そして2年ぶりのサンマが届きました。

これがですね、本当に美味しい!
ダンナも、「これまで食べていたサンマと全然違う!」と目をパチクリ。

グリルではなくて魚焼き器で焼いて、焦げ目がついてないけど、中はふっくら美味しい。

気仙沼・羽田神社のお山がけ

今年も、気仙沼市羽田神社では「お山がけ」が行われたそうです。

「お山がけ」は、数え年、七歳の男の子(小学校に入る前の年にあたります)が、羽田神社の奥の院に参拝するという行事です。この奥の院が、急な坂道を上って行きますので、何といいますか「男になる」的な、気仙沼らしい風習です。

私は女子なので上ることが許されず、それゆえ、その急な道のりの詳細はわからないのです。
弟達が行くのを羨ましく見ていたものです。

男の子に付き添いの男性が付きます。
この男性には、父親が付いていってはいけないのです。
甘えてしまうから?理由はわかりませんが、とにかく父親ではダメなのです。

父親以外の親戚が付いていきます。
叔父さんに当る人が担当することが多いのですが、最近は叔父さんがいないケースもあり、その場合は親戚で上れそうな人を探して付いて行ってもらいます。

甥っこのヨシキの時には、嫁側のおじいちゃんが付いていってくださいました。
子供の方はスイスイ上がるけれど、おじいちゃんは大変〜、なんて話もあるようです。

横浜に住む弟の息子も「お山がけ」をさせたいと、父親(私の弟)が連れて行き、気仙沼に住む弟が叔父さんとして付いて行ったというわけでして。

この時期には雨が多いため、たしか弟の時には雨が降っていたと思います。
もしくは雨上がりで、ツルツルすべって難儀したという話も聞きます。

詳細は、「羽田のお山がけ」をご覧ください。

今年も元気に「お山がけ」が行われ、7歳の男子が立派な男になっていったのでしょう。
「お山がけ」の後には、男の子は「よくやった」「がんばったなぁ」と、たいそう褒められ、ちょっと大人な気分☆
そして、家族や親戚とともに食事をして労をねぎらうといったもの。

これ、女子は禁止なんですよねー。
でもまぁ、男子だけの、こういったものがあるのもまた良いのかな。

こういった行事はずっと残しておきたいものですね。

ゆるキャラグランプリ2012

「ゆるキャラグランプリ2012」に気仙沼のゆるキャラ「ホヤぼーや」がエントリーしました。

みんなで盛り上げましょう!と、
メール、Facebook、ツイッター、色々な情報が届きました。

どれどれ、私も投票を。
こちらは、メールアドレスごとに、1日1票を投じることが出来ます。

ぜひ、ホヤぼーやにも一票をどうぞ、宜しくお願いします!
出来れば、毎日、一票、お願いいたしま〜す!

第3回KSBフォーラム「津波のまちに生きて」

KSB(気仙沼サポートビューロー)では、
第3回KSBフォーラム「津波のまちに生きて ~歴史・民俗からみる気仙沼とその復興」を開催いたしました。

場所は、飯田橋の「東京しごとセンター」の会議室。
時間は、19時〜21時。
会費は、1,000円(学生500円)

本日の講師にお招きしましたのは、川島秀一先生。
震災前までは、気仙沼の「リアスアーク美術館」の副館長を務められていました。
今年の春からは気仙沼を離れて、神奈川大学日本常民文化研究所研究員を務められています。

「三陸の歴史を知らずして、真の復興はない」と明快に話されます。

川島先生のお宅は、私の実家から近いところにありました。魚町。
先生のお宅は跡形もなくなり、お母様であった京子先生(私達の高校の恩師です)は、津波の犠牲になってしまいました。

「この地に住む者は、いつも津波を意識している」
特に魚町は、気仙沼の中でも、海に面している土地ですから、これまでも津波による小さな被害はしょっちゅうありました。

「いざという時の準備というのか、そういうことはしているんですね」と話されます。

「写真はネガを、紙の資料は全て複製をとって仕事場にも置いていた」そうで、そのおかげで資料は無事だったそうです。

しかしながら、録音テープは全て流されてしまい、惜しい事をしたと話されていました。

冒頭に、とあるお宅の写真が映し出されました。

そのお宅は、只越にあって、津波対策のために1階部分は駐車場のようでした。震災前のものです。高床式とでもいいますか、2階以上に人が暮らしていたのですが、次の写真に言葉を失いました。
同じアングルから撮った写真は、2階に上がる階段を残しただけで、全て流されてしまっている。

あの津波が、どれだけ想定外だったか。

しかしながら先生は「歴史を知ることで、これを防ぐことが出来たはずなんだ」と力説されます。

スライドでは、気仙沼の地図が映し出されました。
その地図を使って、江戸時代中期に埋め立てられた場所を指し示してくださいました。

気仙沼は「自然の良港」などと言われるが、実は「緻密に計算された人工の良港である」と言います。
気仙沼が良い港といえる2つの条件は、
・風をよける港
・風を待つ港

気仙沼には「室根おろし」といって、風が吹き、それが船を押し出してもいるそうです。

江戸時代の人の知恵がなし得た技。
先生は、たまたま工事の際に立ち会い、その深く掘ったところから、江戸時代の埋め立ての技術を見る機会があったそうです。その技術力の高さ、仕事の丁寧さには驚かれたそうです。

数ある地震や津波によって被害を受けていたのは、昭和・平成に埋め立てたエースポート辺りであり、江戸時代の埋め立ては、時間をかけてシッカリと作業したのでしょうか、しっかりしたものであることに、什器の乏しい時代の丁寧な仕事がわかります。

今回の大津波は、気仙沼の、江戸中期の埋め立てたところ全てを飲み込んでしまいました。

特に被害がひどかった内ノ脇地区は、昭和の始めの頃までは「海苔の養殖場」、鹿折地区は「塩田」があったそうです。

先生のお宅があった辺りは、江戸時代には何もなかった土地。

昭和の「埋め立て工事」は、発展の象徴だったと先生は言います。
私も覚えています。
家から見える港町地区は、ドンドン埋め立てて拡張していました。
そこに広い道路が出来て、広がっていく様を見るのは嬉しいものでした。

気仙沼にも「防潮堤」を作る話が上がり、反対意見も多いのです。
このお話を聞いていると、果たして「防潮堤」を作るというよりも、根本的に「住んではいけない地域」として、高台への移転を急ぐべきではないかと思います。

気仙沼は4回の大津波にあっています。
・明治29年
・昭和8年
・昭和35年
・平成23年

120年に4回の大津波は「津波が多い」と言える土地です。

そしてまた、津波の他にも「大火災」が町を焼きつくしました。
大正4年、昭和4年の大火。
昭和4年の大火後の魚町の写真を見せて頂きました。

私の祖先が暮らした辺りも、何一つなかった。
今回以上ではないかと言えるほどの「火災での壊滅的な被害」
そんな中から立ち上がって今日があるのが気仙沼なんですね。

その大火の後、岩手県から気仙大工が来て「あっという間に作った」というほど、当時は財力もあったようです。

昭和6年に高村光太郎が気仙沼に来ますが、そこがあまりにも(復興のために)騒々しいので(東北のひなびた静かなところを目指していた光太郎は)幻滅して一泊もしないで、気仙沼を後にしたほどだそうです。

それにしても、埋め立てたところが、ことごとく被害を受ける様に先生は「すべてを否定されたような感じ」と言いました。
私も同じ印象を持っています。

気仙沼、そして三陸地方には、たくさんの記念碑が立っています。
明治の碑は漢文で難しく、村人が読んでいるようには見えない碑であるのに対して、昭和の碑は標語になっていて、誰にでもわかりやすいものになっているのが特徴です。

また、明治は供養費が多く、昭和は記念碑が多いのですが、昭和では朝日新聞が寄付を募り、そのお金を利用して建ててくださったことにもよるようです。

岩手県では「ここまで津波がきたよ」という場所に建てているが、宮城県はそういうきまりはないようです。

「津波石」というのが残っています。
あえて残そうとしたことにもよるそうですが、これは三陸に限ったことではなく、沖縄、宮古島、いらぶ島などには有名な場所があるそうです。

海で暮らす人達に共通するのは、津波さえもが「海からの贈り物」という考え方もあるということ。

例えば、大漁と津波の関わりということがあり、
津波の前年:いわしが大漁
後:いかが大漁

そういうことから「いわしで殺され、いかで生かされた」などといった言い伝えもあるとか。

また、三陸地方では、「水死者、魚介類を同時に拝んでいる」という点も興味深いそうです。
気仙沼では「早稲(地名)の踊り」の中に「かつお釣り」という踊りがある。
かつおの供養と、来年の祈願をする踊りだそうです。

そうやって、海に暮らす人達は、海からも恩恵を受け、そうして海によって被害ももたらされ、その中で折り合いを付けて生きているのだなと改めて思いました。

気仙沼の人達にも、川島先生のお話を聞いて頂く機会を持てたら、、、と思った次第です。

川島先生、貴重なお話をありがとうございました。

おかげさまでマルキの工場が稼働しました

「三陸新報に掲載されてますよ」と連絡をいただきました。
オオオ!とうとう。

実家の家業であります「マルキ小山平八商店」の潮見町工場が稼働しましたという記事が載ってました。

8月に帰った時に、急ピッチで工事が進められていた工場です。

これからですね。
正念場はこれから。
お客様、そして従業員の皆様、ありがとうございます。
そして、これからもどうぞ宜しくお願いいたします。