KSB(気仙沼サポートビューロー)では、
第3回KSBフォーラム「津波のまちに生きて ~歴史・民俗からみる気仙沼とその復興」を開催いたしました。
場所は、飯田橋の「東京しごとセンター」の会議室。
時間は、19時〜21時。
会費は、1,000円(学生500円)
本日の講師にお招きしましたのは、川島秀一先生。
震災前までは、気仙沼の「リアスアーク美術館」の副館長を務められていました。
今年の春からは気仙沼を離れて、神奈川大学日本常民文化研究所研究員を務められています。
「三陸の歴史を知らずして、真の復興はない」と明快に話されます。
川島先生のお宅は、私の実家から近いところにありました。魚町。
先生のお宅は跡形もなくなり、お母様であった京子先生(私達の高校の恩師です)は、津波の犠牲になってしまいました。
「この地に住む者は、いつも津波を意識している」
特に魚町は、気仙沼の中でも、海に面している土地ですから、これまでも津波による小さな被害はしょっちゅうありました。
「いざという時の準備というのか、そういうことはしているんですね」と話されます。
「写真はネガを、紙の資料は全て複製をとって仕事場にも置いていた」そうで、そのおかげで資料は無事だったそうです。
しかしながら、録音テープは全て流されてしまい、惜しい事をしたと話されていました。
そのお宅は、只越にあって、津波対策のために1階部分は駐車場のようでした。震災前のものです。高床式とでもいいますか、2階以上に人が暮らしていたのですが、次の写真に言葉を失いました。
同じアングルから撮った写真は、2階に上がる階段を残しただけで、全て流されてしまっている。
あの津波が、どれだけ想定外だったか。
しかしながら先生は「歴史を知ることで、これを防ぐことが出来たはずなんだ」と力説されます。
スライドでは、気仙沼の地図が映し出されました。
その地図を使って、江戸時代中期に埋め立てられた場所を指し示してくださいました。
気仙沼は「自然の良港」などと言われるが、実は「緻密に計算された人工の良港である」と言います。
気仙沼が良い港といえる2つの条件は、
・風をよける港
・風を待つ港
気仙沼には「室根おろし」といって、風が吹き、それが船を押し出してもいるそうです。
江戸時代の人の知恵がなし得た技。
先生は、たまたま工事の際に立ち会い、その深く掘ったところから、江戸時代の埋め立ての技術を見る機会があったそうです。その技術力の高さ、仕事の丁寧さには驚かれたそうです。
数ある地震や津波によって被害を受けていたのは、昭和・平成に埋め立てたエースポート辺りであり、江戸時代の埋め立ては、時間をかけてシッカリと作業したのでしょうか、しっかりしたものであることに、什器の乏しい時代の丁寧な仕事がわかります。
今回の大津波は、気仙沼の、江戸中期の埋め立てたところ全てを飲み込んでしまいました。
特に被害がひどかった内ノ脇地区は、昭和の始めの頃までは「海苔の養殖場」、鹿折地区は「塩田」があったそうです。
先生のお宅があった辺りは、江戸時代には何もなかった土地。
昭和の「埋め立て工事」は、発展の象徴だったと先生は言います。
私も覚えています。
家から見える港町地区は、ドンドン埋め立てて拡張していました。
そこに広い道路が出来て、広がっていく様を見るのは嬉しいものでした。
気仙沼にも「防潮堤」を作る話が上がり、反対意見も多いのです。
このお話を聞いていると、果たして「防潮堤」を作るというよりも、根本的に「住んではいけない地域」として、高台への移転を急ぐべきではないかと思います。
気仙沼は4回の大津波にあっています。
・明治29年
・昭和8年
・昭和35年
・平成23年
120年に4回の大津波は「津波が多い」と言える土地です。
そしてまた、津波の他にも「大火災」が町を焼きつくしました。
大正4年、昭和4年の大火。
昭和4年の大火後の魚町の写真を見せて頂きました。
私の祖先が暮らした辺りも、何一つなかった。
今回以上ではないかと言えるほどの「火災での壊滅的な被害」
そんな中から立ち上がって今日があるのが気仙沼なんですね。
その大火の後、岩手県から気仙大工が来て「あっという間に作った」というほど、当時は財力もあったようです。
昭和6年に高村光太郎が気仙沼に来ますが、そこがあまりにも(復興のために)騒々しいので(東北のひなびた静かなところを目指していた光太郎は)幻滅して一泊もしないで、気仙沼を後にしたほどだそうです。
それにしても、埋め立てたところが、ことごとく被害を受ける様に先生は「すべてを否定されたような感じ」と言いました。
私も同じ印象を持っています。
気仙沼、そして三陸地方には、たくさんの記念碑が立っています。
明治の碑は漢文で難しく、村人が読んでいるようには見えない碑であるのに対して、昭和の碑は標語になっていて、誰にでもわかりやすいものになっているのが特徴です。
また、明治は供養費が多く、昭和は記念碑が多いのですが、昭和では朝日新聞が寄付を募り、そのお金を利用して建ててくださったことにもよるようです。
岩手県では「ここまで津波がきたよ」という場所に建てているが、宮城県はそういうきまりはないようです。
「津波石」というのが残っています。
あえて残そうとしたことにもよるそうですが、これは三陸に限ったことではなく、沖縄、宮古島、いらぶ島などには有名な場所があるそうです。
海で暮らす人達に共通するのは、津波さえもが「海からの贈り物」という考え方もあるということ。
例えば、大漁と津波の関わりということがあり、
津波の前年:いわしが大漁
後:いかが大漁
そういうことから「いわしで殺され、いかで生かされた」などといった言い伝えもあるとか。
また、三陸地方では、「水死者、魚介類を同時に拝んでいる」という点も興味深いそうです。
気仙沼では「早稲(地名)の踊り」の中に「かつお釣り」という踊りがある。
かつおの供養と、来年の祈願をする踊りだそうです。
そうやって、海に暮らす人達は、海からも恩恵を受け、そうして海によって被害ももたらされ、その中で折り合いを付けて生きているのだなと改めて思いました。
気仙沼の人達にも、川島先生のお話を聞いて頂く機会を持てたら、、、と思った次第です。
川島先生、貴重なお話をありがとうございました。