読書:プリンシプルのない日本

「プリンシプルのない日本」白洲次郎・著。
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先月、先々月と白洲正子の本を読み、今回はご主人の本を。
全体にこの人は文句ばかり言ってる(笑)

特に政治に対して、そうして、補助金にむらがる人達に。「プリンシプル(原理原則)を持て」と思っているから、流されていくことに腹が立つのだろう。

この文章を書いている当時は、自らを「百姓」と呼ぶように農業に従事し、そのかたわらで、このように文芸春秋に執筆している。

この人の先見性というのか、時代をとらえる見方が鋭い。
第二次世界大戦が始まる時には、この戦争で日本が負けることを予測し、日本人は最後まで抵抗し続け、その結果、深刻な食料難に陥りるだろうと、さっさと鶴川村に土地を買い、農業を始める。慣れない農作業は大変だったろうが、そういう事はいっさい書いてない。農業を楽しんでいるようでもある。

こういう人がどうして政治家として表舞台に出なかったのか、不思議でならない。それでも要所要所に引っぱりだされては、そのたびに、逸話を残している。

例えば、憲法制定の際、

原文に天皇は国民のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人に(この方は少々上方弁であったが)「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私がそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。余談になるが、後日学識高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開していおられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかった事を付け加えておく。

なんとも、本当とも冗談ともつかぬ、いや、本当のことだろうエピソードがおもしろい。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて…..」と、その言葉は妙に当てはまっていると、私は内心思っている。

その憲法がアメリカから押し付けられた点はよくないとしながらも、押し付けられようなどうであろうが、「いいものはいい」と言う点はドキリとする。

しかしながら、第67条、第68条、の「国会議員」の部分は「衆議院議員」と改めるべきだと主張している。

極端なことを考えると、参議院議員ばかりで内閣を構成したらどうんなことになるか。六年間の居座りは間違いなく、この間御気に召す衆議院が出てくるまで、何度でも解散をやられてそれこそ大変なことになりそうだ。

この本の冒頭は、白洲さんの友人・今日出海(こん・ひでみ)さんが書いた「育ちのいい野蛮人」という文書で始まる。あとがきには、辻井喬さん(=堤清二さん)がその言葉について、こう書いている。

さすがに白洲次郎を活写していていあますところがない。

東北電力の役員に就任して、東北を視察している時の話、

会社の人間が本当に昼夜の別なく献身的に建設に打ち込んでいる姿は、なんだか涙の出るような気持になる。土建業者の人々も実によく働いている。囚人が随分沢山働いているが、皆な予想外のほがらかな表情をしていた。囚人のとる日当の一部でもよいから積み立てておいて、満期の時に国家から支給するという様なことは出来ないものか等と考えた。

この短い文書に当時の現場の様子がわかるし、そして文句ばかり多い文章の中に、心の優しい人がらが出ている部分だと思う。

昨日の終戦記念日は、「はたして安倍総理は靖国神社に首相が行くのか・行かないのか」が注目された。これを白洲氏が見たら、何と思うだろうか?