今日も少し走りました。ゆっくり。もうね速く走れない。
今日も「孝(タカ)」さんに行きましょう。鍋屋横丁店じゃ。
少し走りました。ゆっくり、ゆっくり。
あら、「孝(鍋屋横丁店)」さんは貸切で入れない。どうしよう? そうだ、「孝」さんの本店に行ってみますか。
今日も走るのはやめました。明日から頑張ろう。「あじいち」さんに行きましょう。
今月2日にダンナと訪れた「銀座ライオン 大手町店ファーストスクエア店」に気仙沼の先輩らと伺った。
次の「気仙沼を元気にする会」の会場に良いと思いまして。席に着くや他のスペースを見せて頂いた。地下鉄大手町駅から地下を通るから天気が悪くても助かります。
金華さばの炙りしめさば。宮城県石巻市よりと書いてありました。
美味しいです!
そして大手町から地下鉄で帰りました。
「つくばマラソン」フルの部に出場です!
今年はダンナは不参加につき一人で参ります。新中野駅6:07発の電車に乗って四ツ谷でJRに乗り換えて秋葉原。秋葉原からつくばエクスプレスに乗ってつくばへ。昨年と同じ、一つ電車を見送り、7時ちょうどの快速に乗る。
つくば駅から歩きます。歩きながらコンビニで買ったおにぎりを食べ、パンを食べ、水を飲みながら進みます。
今日は晴天。青空が気持ち良い。
ゼッケン番号は「17028」。タートルマラソンの参加Tシャツを着ています。
会場に到着すると荷物預けに荷物を預けて、トイレの列に並び、そうそう、今年も女子専用のトイレがあって嬉しい。様式トイレです。
そして、9時10分スタートの列に並びます。今年は4つに別れています。「A,B」、「C,D」、「E,F」、「G,H」で、私はFだから第3スタート。
Fの中間あたりで待機。そして、列が少しずつ前に詰めていきます。
前回の「水戸黄門漫遊マラソン」のタイムは悪かった。今日は4時間30分を切りたい。頑張ろう〜。本日、ここに立てたことに感謝します。そして、スタート!
最初はゆっくり入ります。大きな集団がゆっくりと進み出す。そのうちに皆さん、早いなぁ〜。ドンドン追い越され、追い越され。いいのです。前半に飛ばすと後が大変になる。
距離表示は適切にあります。見やすくて助かる。あらら、タイムが上がらない。うーーーん、、、。
給水と給食は、さすが「つくば!」です。飲み物の量が適切。飲み干せる量。給食のサイズも適切。これは嬉しい。バナナ、きゅうり、みかん、食べた、食べた。そして飴は二箇所で頂き、食べた。お汁粉は今年も飲んだ。美味しい。
コースはなだらか。ちゃんと練習をしている方は良い記録が出るでしょうなぁ〜。折り返しの選手を見る箇所がある。今年はあまり知ってる人が出てないし、とにかく私は遅くなっていて、誰にも出会えないまま淡々と走る。
つけているGPS時計の表示がおかしい。途中からきちんと計測されていない。ガク。遅いことだけはわかる。
40kmを過ぎて、立て続けに抜かれる。女性には15人くらいに抜かれたのではないだろうか。トホホのホ。
そして、ゴーーール。ゴールはどんなタイムであっても嬉しいものです。帰ってくることが出来ました。
記録証のタイムを参考に記します。
スタートまで:2:15
5km:34:40
10km:34:28
15km:34:42
20km:34:22
(中間タイムは、2:28:05)
25km:36:00
30km:36:30
35km:36:55
40km:35:42
ラスト:16:09
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合計:5:01:43(スタートからのグロスタイムです)
参加賞は家に届いているネックウォーマー。リバーシブルで使える。
女子更衣室のテントは、とても大きくて着替えしやすかったのは助かる!
マラソン完走クラブでご一緒する方々が秋葉原で打ち上げをするそうで「行きます!」と連絡。
秋葉原の「さくら水産」さん。遅くなりましたぁ〜。
明日は「つくばマラソン」に出場するので、今夜は禁酒です。
そうだ、やよい軒に行きましょう。久しぶりです。「すき焼き定食」じゃ。
弟が経営している「おやま調整院」に行き、身体のメンテナンス。明日はつくばマラソンを走るのじゃ。そして、2時間歩いて帰宅。ちょっと長く歩きすぎたか?
「第6回 KSB復興フォーラム」です!
KSB(気仙沼サポートピューロー)が主催しています。今回のゲストは生島淳さん!
気仙沼市港町のご出身です。一番上のお兄様は、生島ヒロシさん。2番目のお姉様はあの大震災で亡くなってしまいました。3番目のお兄様は、生島企画の社長の生島隆さん。そして、淳さん。
今回は、いつもスッカリ頼っているお二人がいない。そして、さっそくに失敗が発覚、、、。頂戴したお名前が名簿にない。しかも3人も。ヒェ〜。お店の方に話すと「大丈夫ですよ」と優しく言っていただき、狭いながらも全員入りまして、スタートです。皆様、申し訳ないです。
最初に私から生島淳さんの紹介です。次のように紹介をしました。
生島家は気仙沼市港町で「伊勢浜食堂」を経営されていました。お父さんのお父さん、つまりお祖父さんの佐藤忠左右さんは島根県隠岐に生まれ、養子に出されて熊本・五高から京都帝国大学に進み、逓信省を喧嘩したとか何かで辞め、宮城県の英語の先生になりました。
その三男に生まれたのが駿(しゅん)さん。淳さんのお父様。幼少時を気仙沼で過ごしてから一家で横浜に住み、高校は横浜寿商業のご出身。その後、戦争に出て、モートロック諸島から復員する。幼少時の思い出の場所、気仙沼を訪ね、父の教え子だった方の会社で働くようになる。
「伊勢浜食堂」は、三重県出身の生島はつゑさんが女ひとりで切り盛りしていた。「伊勢浜食堂」という店の名前は、三重県出身のはつゑさんが伊勢の人が船で気仙沼に入港したら、うちに寄ってもらいたい・・・ということでつけた名前。
はつゑさんには、娘がひとりいた。名を美知子という。そして、二人は結婚する。
昭和25年に長男、28年に長女、31年に二男を生み、そして42年に淳さんが生まれる。
しかしながら、お父様は昭和51年に53歳の若さで他界。淳さんはまだ9歳くらいだったか。淳さんは、気仙沼小学校、気仙沼中学校、気仙沼高校に進む。
高校卒業の少し前、昭和61年1月に祖母のはつゑさんが亡くなり、2ヶ月と少し、母とふたり暮らしを経験する。
そして、早稲田大学に進み博報堂に入社する。
その後、スポーツライターとして独立する。
書籍は多数。箱根駅伝などスポーツを書いたもののほか、歌舞伎に関する本「中村勘三郎物語」もある。
そして、「気仙沼に消えた姉を追って」は感動を覚えます。
・・・と、このように紹介をしました。
生島淳さんはお店の方が入って調理する場所にて話してくださいました。
最初に、おじいさんは気仙沼中学や佐沼中学でも教えていたんです、と話されました。そして「三陸沿岸に流れた人も多い」と。「旅の人」というのは、よそから流れた人という意味で気仙沼では使っている。
そして、「本当は気仙沼が嫌だった」と述べた。その理由は映画館がないこと。南映という映画館がなくなった後は見たい映画があると仙台まで行った。文信堂は良い書店だった(皆、うなずきます)。
育った家は残ったが姉の家(内ノ脇)はなくなった。家に帰ってゴロゴロ出来ないことの辛さをあの大震災で気づいたと。ゴロゴロ出来る家があるのかないのか。
今も三陸新報をとっている。紙版で1日遅れで届く。訃報欄を見ては香典を送るということをしている。今は学校の統廃合が問題になっているようだ。大島小学校と浦島小学校が鹿折小学校に統合にされるとか。気仙沼中学校は2クラスになっているらしい(私の時代は11クラスあったのに)。
仮設住宅があると部活が出来ない問題がある。バスケも頑張ってるし、野球も頑張っている。そこで数年前から、市民会館で若者高校生に講演をしてる。
支援で困った話もあった。アーティストは「この時間にして欲しい」とか要望もある。なかなか難しい。
気仙沼のスポーツが盛り上がるといいですね。フェンシングの強い子が気仙沼高校に行かず仙台の高校に行ったりという状況。気仙沼高校は部活が多すぎらしい。中国、韓国は部活がない。もっと子供の時にエリート選手が決まってしまう。日本は好きなスポーツが出来るのは良いが全国大会には、なかなか行けない。
千田健一さんは幻のモスクワオリンピック代表選手だった。先生の奥さんのことはあまり話されないが鼎が浦高校で教えていたこともあったとか。菅原選手もオリンピックに出場している。才能ある人は集めた方が良いが様々な難しい問題もある。
花巻東高校からは大谷翔平選手が出た。気仙沼からは金村選手。しかしながら高校は仙台育英高校出身である。
卓球は誰か出ないでしょうか? 僕は卓球部だったんです! 卓球は地域差はないと思う。福原愛さんのお母さんは石越出身。
今は東京に住んで、中学2年の息子がいる。その発育を見ていると、身体に染み込ませるのは10歳から13歳までのことは忘れないと思う。
勉強は地域格差が縮んでいる。格差がない。
気仙沼に住まなくても、気仙沼に還元できることはあると思う。その一つとして、武山君からもらったアドバイス「宮城県気仙沼出身」と出身地に「気仙沼」を入れることにしている。
嫁が福岡の柳川出身でそちらに行ってしまうことが多い。
気仙沼では「旅の人」と言う。父は9人兄弟でいとこは気仙沼にもいる。
大正15年1月1日生まれだが、嘘だと思う。
兄さんは本当は2月29日生まれだが、28日生まれになっている。昔はそういう事があったのだろう。
ここでいったん終了として、皆でワイワイと食事を頂いた。生島淳さんはほぼ中央のテーブルに座っていただき、先輩や同級生ともお話が出来たようだ。私は奥の端の関に座り、淳さんとは離れているが、気仙沼の話に盛り上がったのであります。
その後は、一人ひとことずつ話という時間になり、皆さんがおもしろい事を話してくださるのを笑って笑って聞いておりました。
今日は本当にありがとうございました。