気仙沼では、最初は母が住む「みなし仮設」と呼ばれるアパートにおりました。
2間に台所がついているのだから、2人でも十分に住めるはずなのだが、、、。
それまで広い家に住んでいた母にとって2間は考えられない狭さであり、また、「どうせ仮住まい」という思いもあって、タンスを買う気にもなれない。
「上」に積めない様々なものは、「横」に広がるばかりで、あっという間に一部屋を占領している。
そして、残った一部屋も、半分は様々なものが占領しているから、わずかなスペースに「川の字」にもなれなくて、「Tの字」をかいて二人で寝ていました。
しかしながら、二人には時差があります。
母は朝4時を過ぎると目がさめてしまう。
それから、そっと行動をするのだが、ワサワサという音がして、私も目がさめる。
夜は夜で、母は9時を過ぎると横になっていたのが、私が10時、11時、ひどいと12時頃に帰るものだから、ウトウトし始めた母は起きてしまう。
こんな事を繰り返しているうちに、お互いに大きなストレスが生じていた。
それでも、母は昼寝するなどして乗り切ってはいたが、久しぶりの「娘にご飯を食べさせなければいけない、しかも、こんな遅い時間に」が次第にストレスとなっていった。
私はアパートを探し始めていた。
しかし、市役所に歩いて通える場所にアパートの空きはない。困った。
そんな折りです。
古町2丁目、補陀寺の下に「応援職員住宅」なるものが出来ました。
遠い仮設(おもに千厩)に住む応援職員を優先にして募集が始まり、同じチームのアケちゃんが引っ越しすることになった。私は母のアパートがあるからと遠慮していました。
アケちゃんが引っ越ししてみると、意外にも千厩組は引っ越しが面倒だったのでしょう。期限付き任務が多いので、あと少しなら面倒な引っ越しを避けて、そのまま住み続けることを選択したようです。
「空いてますよ」
「エ!そうなの」
申請を出しました。
母との時差がある生活にストレスを抱えていること、車が運転出来ないから遠い仮設住宅に引っ越しが出来ないこと。
申請が通って、私は一人暮らしを始めました。
時折、母をたずねて掃除するという面倒な仕事は増えましたが、夜遅くなっても心配をかけずに仕事が出来ました。
その頃から仕事はさらに忙しくなり、9時前に家に到着することはほとんどなくなりました。
けれど、一人になってみると、母がアレコレしてくれたことや、家に帰ると電気がついていることにどれだけ癒されていたかを知ることとなる。
その部屋には、わずかな物しか置いてなかったから、引っ越しは、段ボール箱に4つと、シンセサイザー1台。
その荷物を宅急便にお願いして、ガランとなった部屋をみます。
ここで頑張った自分がいた。
新しくてきれいでした。けれど、応急で作ったのでしょう。どこかしこがチープでもありました。いえいえ、私には十分すぎる住居をありがとうございました。