避難所の母のスペース

私の家族(母と弟一家)は気仙沼中学校で避難所生活をしています。

避難所間格差があり、全ての避難所が同じではありません。
これはある避難所の、ほんの一例です。
(これは2011年4月3日現在の状況で、日々変化しています)

また、もしかしたら、避難所にお住まいの方は、あまり公にして欲しくない方もいらっしゃると思います。これを書くことが良い事かどうか、迷います。

ただ、私も見聞きした事はいつか忘れてしまいましょう。
今のうちに現状を書く人がいてもいいのかもしれないと思って書いています。

読まれます方も、どうか、あまり大げさに取り上げないで下さいね。

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避難所に20日以上過ぎても残っている方は、どこにも行き場がない方ばかり。

良い方で、半壊の家に行って布団や毛布を取ってこられる方です。
気仙沼は半壊の家も結構ありますので、そういう方もいらっしゃいます。

私の家族のように、何も持って来れなかった者もいます。

状況は様々ですが、しかし、あの日、避難して来た時は、みな、命からがら。全身濡れてる方もいたそうです。

気仙沼中学校の「体育館」に集められたそうですが、窓ガラスが割れていて、外の風がビュービューと入り込み、とても寒かったと皆さんが言っています。

いま、その割れた窓ガラスは、段ボールでふさがれていますが、すきま風は今も入り、それでなくても天井が高い体育館は寒々としています。

その夜は、わずかな毛布が配布されたようですが、全身濡れた方に渡してあげて、多くの方は毛布もなく、凍えていたようです。

2日目に、わずかなカンパンなのか、クッキーなのか、何かカケラを頂いたと言っています。

何かを食べられたのは3日目以降だったようです。

あの3.11の日を思えば、いまはとても良い方と皆さんが言います。
それほどまでに、辛い夜を過ごしたのかと、ギュッと胸がしめつけられます。

避難所を訪問しますと、校庭にはそれほど人がいなくて閑散とした印象を持ちました。母が玄関まで来てくれて再会。感動の再会!

電話では話していたけれど、実際に会うとやはり嬉しさもひとしおです。
「生きていた!」という実感。

その後、(外は寒いので)お部屋へどうぞ、と案内されました。
教室の扉を、ガラっと横に開くと、そこには、あまりに多くの人がいて、圧倒されます。

予想はしていたのですが、これほど多くの人が、ここに住まいしているのですね。

特に母は、身体が不自由な人向けの、1階の玄関に近いところにいます。ここはトイレが近いので、そういう配慮だそうですが、この部屋は50人程度がいるそうです。

想像してみてください。
教室は、たぶん、どちらの学校も同じ程度の大きさかと思いますが、せいぜい40数名の生徒数でしたよね。そちらに50人もの人が生活をしているのです。

それも、母の部屋はほとんどがお年寄りで、日中もお部屋にいる方が多いから、とにかく、人・人・人!

母のスペースに行くために、よその方の毛布を踏んではいけないと思うと、なかなか、まともに歩けない。

「ここが私のお家よ」と母が言います。
それは、本当にわずかばかりのスペースで、

「どうやって、ここに寝るの?」と私が聞きますと、お隣のおばさんと母が、

「こうやってね、足をこっちに向けて、互い違いになって寝るの」と、その工夫を誇らしげに話してくれました。

寝返りをうつと、お隣にぶつかりましょう。
しかも、母のお隣は、なんと!男性です。

それには驚きました。
てっきり、女性の部屋と男性の部屋が分かれているものと思い込んでおりましたから。

家族のある方もいるから、単純に男女という分けは出来ないのでしょう。

しかし、見ず知らずの男性と、寝返りをうったらぶつかってしまうような所で、ジッと生活をしています。

「せめてお隣を女性にして欲しいとお願いして来る」と私が言いますと、母は、
「事を荒立てないで欲しい」と言います。

「お母さんは、これまでも、ここでやって来たのだから、皆さんのおかげで生きているのだから、我がままを言ってはいけない」と私をさとします。

見渡すと、皆さんも母と同様に、狭い狭い空間で、少しでも横になれるように工夫をして生きています。いろいろな物資や援助を頂いていることに感謝しながら生きています。

そして、全国の皆さんにブログで御礼を言って欲しいと母は言います。

母に代わりまして、皆様からの応援、本当にありがとうございます。
皆様のおかげで、被災者は生きています。

なお、母の現状ですが、
4/4(月)に横浜の弟夫婦が迎えに来てくれて、1週間ほど、母と甥2人は横浜に疎開をしています。学校が始まる前の、束の間の春休み。今は足を伸ばして眠っておりましょう。

母はそのような状況にあっても「絶対に東京には行かない!」と意地を張っていましたが、孫からの説得により、あっけなく落城。

娘の話はきかなくても、孫の「ばあちゃんも一緒に行こう」には弱かった。