映画「無情素描」

18時過ぎにメールチェックすると、横浜の弟からのメールを発見。
人間ドックに入っていて、チェックが遅れました。

「震災後の気仙沼を映した映画「無情素描」が、今日だけ上映される」とな。
「一緒に行かないか?」とのお誘いだが、時計を見ると、あらら18時過ぎている。映画は19時開始。

迷う暇もない。すぐに外へ出る。
参宮橋駅近くの「国立オリンピック記念青少年総合センター・小ホール」へゴー!

参宮橋で弟と電話連絡を取り合い、一緒に会場へ。

映画「無情素描」大宮浩一監督の作品。

その映画は、4/28〜5/4までの気仙沼。
ちょうど、同時期に私も気仙沼に参りました。その時の記憶が鮮明に思い出されます。

玄侑宗久さんのお話、そして「お経」。

インタビューもあります。
これ(気仙沼弁)、字幕無しで皆さんに通じているのでしょうか?(^ー^)

気仙沼市内を映してはいるのですが、どこなのか説明がないので、出身の私でもちょっと迷うほどです。ガレキの山が続いて、そこがどこなのかわからないのです。

そんな中、マルキの魚市場前工場がチラリと映りました。海から撮影したのですね。あの当時、あの地帯は通行止めで行くことが出来なかった。

三春町の福聚寺(ふくじゅうじ)住職で作家の玄侑宗久さんのお言葉は実に興味深いものです。
「自然とどう共存していったらいいのか」日本中が模索しているけれど、「不安をかかえながら生きていくぐらいが調度いいのではないか」と最後に述べているのは興味深い話です。

お経を聞いていて、あの日に亡くなった大勢の方を思って、心で手を合わせました。
「無情」という言葉。心にしみます。

映画の中に出演していた医師は、長尾和宏さんのようです。
ネット検索して、辿り着きました。
長尾医師は開業医であったため、GWを利用しての旅だったのですね。

そして、気仙沼出身の小野寺英孝さんという医師は、聖マリアンナ医科大学から医師団として救護にあたっていたようです。

映画の後には、対談がありました。
NPO法人NICEさん」は、陸前高田で、今もボランティア活動を続けているそうです。

出身でありながら、何も出来ない私、
もどかしい思い。
形に出来ないむなしさを抱えたまま歩いています。

そんな気持ちを押さえつつ、映画の後は、弟とダンナと食事をして参りました。
ロシア料理の「マトリョーシカ」の
「つぼ焼き」でございます。美味しうございます。

つながり…

「気仙沼を元気にする会」が終わって、関東に住む、特に私より若い皆様が「同窓生で集まろうよ!」という空気が増えているそうです。

実際に集まる前に、Facebook や mixi で呼びかけて、少しずつ、その輪が広がっているそうです。そんな報告はとても嬉しい。

一人の力はとても小さいけれど、集まることで大きな事を成し得ることもありましょう。
今は故郷を離れているけれど、故郷を思う気持ちは同じです。
気仙沼、そして被災地は、これから寒い冬を迎えます。

気仙沼サポートビューロー定例会

これまで「気仙沼ビューロー」という名前で月に一度集まって、勉強会をしたり、情報交換をしていた会は、このたび(先月)「一般財団法人 気仙沼サポートピューロー」として登記をして、再スタートをいたしました。

その定例会が飯田橋のルノアール会議室にて行われました。

被災した気仙沼そして、その周辺に、私たちのように故郷を離れた者がいったい何が出来るのだろうか、何をしていくべきなのか。

本日も色々な意見が出ましたし、新たな、若い!参加者が増えました。
ご興味のある方はぜひ、ご連絡ください。

あの日のメールとツイッター

昨晩、8ヶ月目の11/11に、あの日、気仙沼の弟、そして横浜の弟と交わしたメール、その後、従兄弟、従姉妹もツイッターに入ってもらって、ツイッターを介して会話した事を振り返ってみた。

深夜に一人で読んでいた。
みんな必死で、文書が辛くて痛くて、とても冷静には読めない。

あの日、亡くなった方が大勢いる。
私がパソコンの前で、どうにもならぬ思いをただひたすらに入力している、まさにその時に、雪の降る中で、辛い思いをしていた皆様を思うと、何とも悲しくて、辛くて、心が凍り付くようです。

それらを読み返すと、あの日は情報がなくて、あれほどの惨事になっていることは想像も出来なくて、一夜明けた朝の、ヘリコプターから見る映像に青くなったことを覚えています。そこが「気仙沼だ」と言われてもわからぬほどに変貌してしまった街。

横浜の弟から、こちらのYouTubeを紹介されました。
この映像は初めて見ます。私の家もチラリと映っていました。
家にあった色々なものは、こうして、この海に流れていったのですね。
東日本大震災(1)大津波 気仙沼市内湾

そして、こちらの映像には、波が引いていく様子、そしてその波が再び津波となって押し寄せる様が映し出されています。
続報 気仙沼湾に押し寄せる大津波が湾内を回流する様子

気仙沼海上保安署撮影 津波映像

「気仙沼かなえ育英基金」の打合せ

私の母校は、鼎が浦高校(かなえがうら)という女子校でしたが、男子校だった気仙沼高校と統合されました。同窓会も一つになったおかげで、いわゆる同窓生が増えたわけです。

そのような中にありまして、母校に対しての奨学金を考える会が結成されました。
「気仙沼かなえ育英基金」です。

今週末の「気仙沼を元気にする会」で紹介しますため、その辺の打ち合わせをして参りました。

優秀な高校生の皆さんが大学進学をあきらめないで欲しいというのが願いで、対象は気仙沼高校を卒業して大学生になる方、としています。

詳細につきましては、もうじき決まりますから、少しお待ちください。

「気仙沼を元気にする会」の現地打合せ

今週末とせまった「気仙沼を元気にする会」の現地での最終打合せをして参りました。

250名を予定していますが、それ以上の可能性が高くなりました。
そこで、椅子をどの程度ならべられるか?
お料理は何人分をお願いするか、など、皆で考えてお願いして来ました。

それと併せまして、UST放送が可能かどうかのチェッもしました。

試したのは、docomo、イーモバイル、WiMAX。

会場は、恵比寿ガーデンプレイス内の地下2階です。
地上なら、まだ使えるものの、地下も2階となりますと、厳しいです。

そのような中、なんとか安定をしているのは「イーモバイル」でした。
当日もこれでいきましょう!

気仙沼の「さんまピリ辛煮」

叔母が送ってくださった箱に「さんまピリ辛煮」がありました。
食べてみました。
オオ、これも美味しい!

斉吉さんの「金のさんま」とはまた違っていて、ピリっと辛いところはビールに合うのではないでしょうか。もちろん、ご飯もすすみます。気仙沼ホント旨いよ!

気仙沼ビューローと気仙沼を元気にする会(その2)

関東在住の、気仙沼への熱き思いもつ人で構成されている「気仙沼ビューロー」の会が1時間ほどあり、その後は、「気仙沼を元気にする会」の実行委員会が飯田橋で行われました。

申し訳ないことに遅れての参加となってしまいました。皆様、すみません。

さて、「気仙沼ビューロー」は、このたび、「一般財団 気仙沼サポートビューロー」として、新たな一歩を踏み出す予定です。本日は、私も押印などして、設立準備をしています。

また「気仙沼を元気にする会」には、多くの方が関心を示して頂いています。無事に開催出来ますように。

目黒のさんま祭りの記事

今年は参加出来なかった「目黒のさんま祭り」ですが、記事があちこちに出ていたので、読みふけりました。

目黒区の公式ページは、写真満載でわかりやすいです。

気仙沼高校の関東同窓会では、「気仙沼小唄」で踊りました。
同級生達の手作り「きらきらサンマ」は3時間で完売したそうです。
おだづなよTシャツも完売、気仙沼ホルモンには長蛇の列が出来ていたそうです。

目黒区の皆さんからは、姉妹都市である気仙沼に多大なるご支援を頂いております。ありがとうございます。

このような状況にありながら、無事に開催した実行委員会の皆さんの熱意には頭が下がります。気仙沼からボランティアで、深夜バスでいらしている皆さん、さぞお疲れでしょうね。ゆっくりやすんで下さい。

母が身体障害者手帳を交付されました

あの大震災の前に母を連れて市役所に相談に行き、その場で申請書を頂いて、病院に診断書作成のお願いをしていた「母の身体障害者の認定」がどうやら、通ったようです。

2級だそうです。

手帳を交付されたとして、いったいどうなるのか、まったくわかっておりませんでしたが、例えばタクシーなどの交通費に補助が出たりするようです。

それよりも嬉しいのは、やはり「情報」だと思います。

母は、父の形見の「杖」を使っていますが、本来ならば、白い、視覚障害者用の杖が必要のはず。それの購入先なども頂いて来たようです。現在の、被災してしまった気仙沼では購入出来ないようで、仙台に見に行く必要があるそうな。

他にも「時計がしゃべってくれるって」と母が言っていました。
目が見えないので、時計もボーっとしか見えず、間違いが起きていました。

自分が、その立場にならないと見えぬもの、わからぬものが、たくさんあります。

母は、昨年末(大晦日あたり?)から急激に視力が落ちてしまい、その速度が早すぎて本人が付いていけぬほど。まわりの者(私ども家族)は全く付いていけてない。だって、ほんの少し前までは見えていたんですもの。

ある日、突然、視力が低下してしまったら、、、
私なら、どうしているでしょう。

パソコンが出来ないというストレスが倍にも3倍にも、のしかかりましょうね。

まして母は、これまで暮らした家を失い、小さなアパート暮らし。
見えないもどかしさは、私の想像を越えていましょう。

「福祉」は、健康な時には、ちっとも気にもしない存在だけれども、一度、その立場になると、本当にありがたいもの。

新しい内閣の方に、どうぞ、福祉の低下はしないでくだされ、と申し上げたい。
議員定数を減らしても、消費税が上がったとしても、福祉のサービスレベルだけは低下しないで下さい。お願いします。