読書:おかみのさんま(読み終えて)

おかみのさんま 気仙沼を生き抜く魚問屋3代目・斉藤和枝の記録」斉藤和枝・著。

以前、店頭で購入してすぐにアップしたこちらの本。
今日は読み終えた感想など。

これね、ホントにホントに、何と表現していいかわからないほどの良い本です。
気仙沼にご興味のある方は、必ず読んで欲しい(^ー^)。

斉吉商店の3代目として生まれた著者。
その葛藤、しかし運命。

ところで、気仙沼の魚はなぜ美味しいのか、気仙沼の魚のどういった点が特徴なのか。
さんまは北海道でも捕れますが、三陸沖で捕れたものがどう美味しいのか。

気仙沼出身でも知らない事が、わかりやすい言葉で書かれていて、なるほど、なるほどと理解を深めました。

また、気仙沼でいうところの「廻船問屋」とはどのような役割であるのか、漁港がいかに様々な業種が支え合って栄えてきたのか。

斉吉さんが問屋から加工食品を扱う会社に変革を遂げようとする際の、並々ならぬ努力。
ご主人がお婿さんに入って頂くことになったご苦労。
どのページをめくっても、ギッシリと良いお話が詰まっています。

そして、あの大震災。
家も工場も全てを流されてしまい、途方に暮れつつ、次に向かう姿はテレビで見ていても感動を覚えました。

それ以上に著者の言葉で綴られた言葉には、何倍もの感動が詰まっています。

ぜひぜひ、お手にとってご覧ください。
すごい本です。ホントに。

そして、気仙沼にこのような人達がいるということが誇りでございます。

気仙沼の情報をいくつか

東京に住んでおりますが、気仙沼の地方新聞「三陸新報」を購読しています。
気になる記事をいくつか。

気仙沼小学校の避難所ではじまった「ファイト新聞」は避難所閉鎖とともに終了となりましたが、「1周年号」という復刊を決め、月1回ペースで制作を続けていくことにしたそうです。
また、保護者らによる「一般社団法人ファイト新聞社」が立ち上がったそうで、今後の活躍をお祈りします。

早稲田大学は、4月から気仙沼の戻りガツオをテーマにした講座「震災復興のまちづくり」を開き、年間を通した授業を行い、気仙沼にも遠征するそうです。戻りガツオのブランド力アップを考えるそうです。記事によると気仙沼市と早稲田大学は震災前からまちづくりを通じて交流があったとのことです。

また、「日経新聞」によりますと、
東京海洋大学は、気仙沼市と包括連携協定を結んだそうです。
気仙沼市内にサテライトオフィスを設置し、水産物の流通や販売方法を研究するほか、人材育成や街づくりで協力することで復興を支援するそうです。

東京都江戸川区は、土木・建築職員を気仙沼市に派遣するそうです。
4月から1年間、気仙沼市に江戸川区職員を9名(土木や建築を中心に専門技術を持った職員)を派遣し、復興に伴う新たなまちづくりのための応援をするそうです。

いま被災地の人口の流出が止まらない中で、このような支援をしてくださることは、大変にありがたいことです。

第1回 KSB復興フォーラム

気仙沼サポートビューローが企画したKSB復興フォーラムの第1回が、飯田橋のルノアール会議室で行われました。

第1回 KSB復興フォーラム
「海と生きる」 ― 気仙沼市復興計画の概要

講師は、気仙沼市震災復興市民委員会委員の武山氏。
「気仙沼市復興計画の概要と市民委員会における議論の経緯」

市民委員は気仙沼内外の若手で構成されたグループで、気仙沼の皆さんは自身が被災された中、そして、東京からは何度も気仙沼に通って、勉強しながら計画をまとめたそうです。

それが形になって、明日、気仙沼市で配布されるそうです。
小学生にもわかるようにと配慮がなされた資料です。わかりやすい!

その資料を私たちにも配布いただきまして「18出来たプロジェクト」について、説明頂きました。
とてもわかりやすく説明いただいて、気仙沼市と災復興市民委員会が向かおうとしている方向が見えたように思います。

ただ、とても大きな問題については「国や県との調整」があったり、財政をどうするかなどの難題を抱えていて、明確には出来ない部分も多いようです。

つまり「まだ方向性も見えない」部分も、そういう状態であるということが見えたという感じでしょうか。

また、市の職員の不足で、一人で大きな仕事を抱えていらっしゃることもわかりました。

プロジェクトによっては関東地方からも応援出来るかもしれません。
拝見しますと「福祉」の面では核となる人材が不足していて盛り込めていないようです。プロジェクトは18に限定するわけではなく、足りないものは追加していくそうです。

我々も、なにがしかのお手伝いが出来るといいのですが。
その窓口的な役割も必要ですよね。

二次会で入った「白木屋」さんには「復興」のメニューがあって、気仙沼「男山」のお酒もありました。

もちろん、みんなで飲みましょう(^ー^)v。

パンは気仙沼「くら」

同級生が震災前に気仙沼に帰ったのです。
東京をひきあげて。

「で、どうするの?仕事あるの?」
「パン屋をするんだ」
「へぇー!」

修行して帰ったと思えば、あの大震災。
それでもめげずに、パン屋をやっていますよ!
同級生のリョウちゃんに車で連れて行ってもらいました。

こちらがパン屋さん「くら」(気仙沼市田谷前182-1)

手作りの看板。

この緑の建物がパン工房。

なんと、さらにフランスパンを焼くための釜をこれから作る計画があるんだって。
同級生が頑張っている姿を見ると、私の方が元気いただきます。

私たちも51歳になりました。
仕事がなくて困っている同級生はたくさんいます。
一歩一歩、前に進みたいですね。

AUGM気仙沼のキックオフ飲み会

大胆にもですね、AUGM気仙沼を開催しようなんと考えているのです。
AUGM(Apple User Group Meetingの略)は、全国各地で展開されいて、熱いアップルファンが集います。

気仙沼にも古くからのMacユーザがいます。
私の同級生もそう。
そして、ここにきて、iPhoneやiPadユーザが増えているのではないかと想像しています。

キックオフは震災後に気仙沼にオープンした「魚民」で行いました。

初めて会う方も、Macの話とかしていると、古くからの知り合いのような錯覚を覚えるから不思議です。楽しいイベントにしたいですね。

魚町ッつぁもどっぺす!

10日には、「魚町(さかなま)ッつぁもどっぺす!」というイベントがありました。

昭和時代、南町、八日町、魚町あたりは、「まち」と呼ばれていました。
それ以外のお住まいの方々が「まっつぁ行ぐ」というと、よそ行きの服を着ておめかしして、買い物に行く、食事に行くという意味です。

規模は全然違うけれど、たとえば「銀座に行く」みたいな、そんなイメージを思ってください。
それをうまいこと表現したイベント名。

さだまさしさんが歌ってくださいます。
事前に応募して抽選の方が行けるそうですが、魚町の住人には招待券が届いていて、母もイソイソと「魚町」に繰り出したわけでございます。

ご近所さんと再会を喜び、「まだ戻って来たい」と同じ境遇の皆さんと心行くまで話した母。

こちらは数少ない残った建物。ご近所の「藤田屋」さん。

残った方も大変。
避難生活を送る皆様も大変。

でも、また「魚町ッつぁ、戻りたい」です!

自宅跡地(2012年3月)

会社はお休みを頂いて、気仙沼におります。
やっぱり、また自宅跡地に足が向きます。
震災後、早い時期に取壊されて、こんなになってからほぼ1年が経ちました。

「こんなに狭かったかな?」なんて眺めて、ここが玄関で、こっちに入って、トイレがあって、、、なんて考えていたら、とうとう、悲しみがこらえられなくなってしまった。

この1年「絶対に泣かない!」と決めていました。
でも、今日はとうとう涙がポロリ。

台所があった場所、ジッと地面を見ていたら、すり鉢のカケラがありました。
母が大事にしていたすり鉢。
母は、いろいろなものをすりおろして料理してました。

これで、ずんだも作ったね。ゴマもすったし、いろんなものをすった。
このすり鉢に、母の嫁としての人生がしみ込まれています。

近くにあった青い陶器のかけらは、いつも使っていた小鉢。
それを手にとったら、もうね、たまらない気持ちになりました。

私たちは後世の人のために、どのような町を作るべきなんだろう?

魚町に数軒だけ残ったお宅に人が住んでいます。
夜はさぞ暗いでしょう。

それでも、海のそばがいい。あんなになっても海が好きと。
もちろん、そう思えない人もいます。
それでも、ここが良いと思う人もいる。

魚町。
こんな状態になっても、我がふるさと。
私も、ここに戻って来たいと思う一人なのであります。

3.11から1年が経ちました

昨年のあの日の前に戻れたら、、、
そう思って暮らした1年でした。
もう戻れないことはわかっているのに。

母のアパートの、目の前の大川には白鳥がいます。
そのおだやかで優しい日常。

あの大地震の時刻、目の前の道路に車が停車して、中から人が降りて、みなで黙祷する体勢です。
母とダンナと私の3人も立ち上がり、静かに黙祷をしました。

追悼のイベントが色々あるだろうに、なんだろうか、3人とも人の中に出ていく気分になれなくて、コタツに入って、あの日の事を話して、もう何度も繰り返し話している内容をまた繰り返して、、、。

「母と家族が無事だった」ことを心の底から感謝した。

夜は、弟と甥も交えて食事を。
(もう一人の甥と嫁は、剣道の試合で遠征しています)
またまた、あの日の事を話して、どれくらい繰り返して話すのだろうか、でも話さずにはいられない。

22時過ぎ、深夜バスで帰るダンナを気仙沼駅に見送りに行くと、空に「光プロジェクト」の光の柱が3本。
「あった!あった!」と私。

本町橋のたもとからも光が見えて、魚町から見たらどんなでしたろうね?
ダンナを駅で見送って、本町橋に帰るまで何度も上を見て、光プロジェクトの柱が優しい光を放っています。
写真は撮らずに私の心に焼き付けた。ありがとう。