のりこレシピ:どんこの味噌焼き

母(のりこ)に「のっぺい汁」の作り方を聞いていたら、
「あんだ、どんこの味噌焼きわがっかっぺ?」と聞かれたので、
「わがらない」と答えると、
「なんだべ」と始まりましたので、こちらにも記載します。

どんこは気仙沼地方では一般的な魚です。
調べると「エゾイソアイナメ」というようです。

この料理はどんこ一匹そのまま焼くそうです。

どんこに塩をふっておく
一匹そのまま(魚焼きで)焼く
(なかなか火が通らないので、じっくり焼く)

味噌と砂糖に塩少々をすり鉢ですっておく

どんこがある程度焼けたら、味噌をぬって再び焼く
(中まで火が通りにくいので、電子レンジをかけてもよいでしょう)

という大雑把な料理だが、冬の時期、とても美味しいそうです。

のりこレシピ:のっぺい汁

祖父が昭和44年11月5日に亡くなってから、オヤマ家では5日は月命日ということで、その日の朝は精進料理を食べることになった。
その際、必ず出るのが「のっぺい汁」。
検索すると、意外にも日本全国のお料理なんですね。
我が家では、このようにして作っているそうです。母(のりこ)から聞きました。

干し椎茸を水で洗ってから、お湯に入れる
干し椎茸で出汁をとる
煮立ててからいったん取り出して、石づき部分を切り、それから6等分程度に切って、また入れる

具材は次のものをコロコロとした形で入れる
(コロコロというのがちょっとわかりにくいとは思いますが、まぁ、適当ということで)

じゃがいもか里芋(母は里芋の方が美味しいと言ってます)
こんにゃく、油揚げ、にんじん、ごぼう(ごぼうはあらかじめ水でさらしておく。その際に酢を少々たらすと申しております)。

それらを入れて煮る。
醤油で味を整える、その際に、砂糖少々、塩少々入れる

それから豆腐を入れて、ふを入れることもある

最後にくず粉を水でといだものをかけて、とろみをつけて出来上がり。

銀座の「いきなり市場」

今日は、ちょっとした宴会あります。
その席で、少し気仙沼の事を話す時間を頂くことになりました。
会場はお酒の持ち込みOKだそうで、それならばと銀座の「いきなり市場」に買い出しに参りました。

こちらは「東日本復興応援プロジェクト from 銀座」というプロジェクトで、銀座TSビルが取り壊しになる8月まで被災地の応援として貸して頂いているものです。気仙沼も出店しております。

そういった事でにわか作りのショップは酒税法とか何とかの関係でお酒は販売していないのだそうです。ショッピングに行かれる皆様ご注意ください。

それでは何かお菓子でも買おうかと店内を見ておりますと、オ!「酒ケーキ」があります。
しかも、地元造り酒屋の「両国」と「男山」の文字。

初めて見たので
「新製品ですか?」とたずねると、
「前からありますよ」とな。
「唐桑のお店です」ホホウ!

ネットで検索してみますと、「おかしの花子」さんの商品です。
今まで存じ上げなくてごめんなさい。

これを40個買って、イザ宴会会場へゴー!

のりこレシピ:あざら

気仙沼の郷土料理「あざら」は、各家庭によって、味付けは少しずつ異なると聞いたことがあります。
我が家の「あざら」しか知らないです。
というか、我が家の「あざら」もどうやって作っているのでしょう?

そんな折り、オヤマさん家はどうやって味付けしていますか?
と聞かれたので、母(のりこ)に電話して教えてもらった。
味付けを聞くだけのつもりだったが、母は、最初から最後まで言わないと気が済まない性格なので、こうやってああやってと、長い電話になった。

せっかくだから、レシピを残しておきまする。

「あざら」

3月頃、白菜の漬け物が酸っぱくなった頃に、それ(漬け物)を使う
白菜(漬け物)を3cmぐらいに切って、(洗わずにそのまま)水でたく

やわらかくなるまでたく
(少しおもして(蒸らして?)から)ザルにあげて数回洗う

その後、半日くらい、水をだしっぱなしにした中において、においをとる

鍋に、めぬけ(こうじんめぬけが本当は良いが今は高額で入手しにくい)の頭、骨を入れてたく
塩少々入れる(水は多めに)

すると、脂が出るので、そうなったら、
しぼった漬け物(白菜)を鍋に入れてたく

酒粕(なるたけ新しいものを)多めに入れる
(すぐにこげるので、よくかきまぜる)

からまったら、味噌を入れる(量はみそ汁を作るぐらい入れる)

あとは、こがさないように煮る
(すぐにこびりづぐので注意)

我が家の隠し味として、次のものを入れる(すべて、少々)

砂糖、酢、南蛮(七味のことです)、酒

母は「たく」と言いますが、「煮る」だと思います。
本人が語るまま書きました(^ー^)。

これがオヤマ家を支えた「あざら」でございます。
白菜の漬け物がすっぱくなったものを利用するんですから、そりゃあーた、結構なにおいがする料理です。好き/嫌いはハッキリするかも。ちなみに、私と弟は嫌いで逃げていましたっけ。

気仙沼サポートビューロー(KSB)定例会

「一般財団法人 気仙沼サポートピューロー」の定例会が、飯田橋駅近くのルノアール会議室にて行われました。
2012年の活動計画を話し合ったところです。

「気仙沼サポートピューロー」が長くて言いにくいというので、千葉さんが「KSB」と略して呼んでみてはどうかと。
それは良い案ですね!
というので、さっそくタイトルに使ってみました。
(正式名称は変わりませんで、あくまでも呼び方です)

千葉さんはアイディアマンでして、今日も企画を2つも持って来てくださいました。
企画については、KSB内でさらに詰めていくとして、気仙沼サポートピューローのキャッチコピーは、これまで「気仙沼の応援団」としていましたが「気仙沼へのかけ橋」としてはどうかと。

それはステキな言葉だと思います。
満場一致での「いいね!」で、今後は「かけ橋」という気持ちで活動いたします。

代表理事に就任いただいた日出さんが亡くなって最初の定例会。
皆さんと話し合いながらも、日出さんならどのように考えるだろう?とそんなことを思っていました。

関東在住の我々が出来ることは小さいことかもしれないけれど、続けていきます!

訃報:日出英輔さん

気仙沼サポートビューローという会の発起人でもある日出英輔さんの「危篤」という知らせが、日曜のマラソン会場に向かう途中に電話で聞きました。

まさか・・・

昨年末に出したメールにお返事がないことを心配していました。
いつも、きちんとお返事くださるのに、、、
新年のご挨拶をするために携帯にお電話したけれど、留守電でした。
気になって、またメールしました。なにか嫌な胸騒ぎがして来ました。

夏に「少し疲れが出たようです」と、入院されました。
退院した時に、やせていたので驚きました。

「色々と検査されたらね、体重も減りますよ」とやさしく笑っていらっしゃいました。
「退院したけれど、体力がなくなっちゃってね、少し歩いただけで疲れますよ」とおっしゃるから、
「私なんぞは、骨折の時にたった2週間入院しただけで大変でした」と話して、
「ゆっくりと静養なさってください」と伝えると、
「なかなかね、そうもいかないんですよ」と、やっぱり優しく微笑んでいました。

「気仙沼を元気にする会」の代表は私になりましたけれど、本来であれば、日出さんが代表です。
けれど「入院して体力に自信がないから」と「それに若い人がやらないとね」と言って私を後ろから押してくださいました。

まさか、、、まさか、、、こんなに早く逝かれるなんて、まったく思いもしませんでした。

そのことが悲しくて、寂しくて、すぐにはブログにも書けなかった。
なんだか、人と話すのも嫌になってしまった。

気仙沼で母に話したら、「エーーーー!」と言ったきり、絶句です。
気仙沼にいる間に「三陸新報」にも訃報が掲載されたようで、地元の方からも聞かれました。

悲しみがドンドン膨らみます。

たまたま、気仙沼中学校の避難所で、日出さんの妹さんと、私の弟一家は同じ教室で避難所暮らしをしていました。
その避難所に、日出さんが妹さんを見舞っていらした時、ちょうど私も同じ場所にいて、
「お互いに、家族が大変ですね」と話をしたことを昨日のように覚えています。

日出さんは、とても紳士で、やさしくて、頭が良くて、それでいて気骨があって、時には強い口調でビシっと話すこともあるけれど、思い出すお顔は、いつもやさしく微笑んでいます。
「若い人がドンドン前に出るべきです」といつもおっしゃってました。

「私・・・若くないんです」と言うと、
「私よりもずっと若いから、大丈夫」と。

最初ね、日出先生とお呼びしたんですよ。
すると「私は先生じゃないんですよ」と言うから、
「どうお呼びすればいいですか?」とたずねたら、
「日出でいいです、そのままでいいんです」とおっしゃるから、
お言葉に甘えて、日出さん、日出さんと親しく呼ばせて頂きました。
同級生の皆さんは「英ちゃん、エイちゃん」と言ってらっしゃいました。

とても気さくな方で、私なんぞが、つまらない意見をいくつも並べても、キチっと聞いてくださる方です。
そして「それは良いね」とか「オヤマさん、そうじゃないと思いますよ」とか、その都度、適切に対応してくださいました。

日出さんのご意思を受け継いで、前に向かわないと!
そう思う一方で、悲しみで動けない自分もいます。

震災からずっと、多くの方が亡くなって、
もう、誰も誰も、亡くならないでくださいと大きな声で叫びたい。

数日前には、親戚の叔母も亡くなってしまいました。
以前から病気をかかえていて、それでも津波では奇跡的に助かって「泳いで逃げた」と本人は言っていたようですが、全身ずぶ濡れで、よく助かったと周囲の人も言っていたようです。葬儀は小さく行われました。その葬儀で、仙台に住む別の叔母も亡くなっていたことを母が聞いてきました。

ドンドン何かが消えていってしまうような、辛いスパイラルから抜けられません。
もう10ヶ月が過ぎました。

日出さん、ご冥福をお祈りいたします。
天国から、気仙沼および被災地の復興を見守ってください。

日出さんが書いたいたブログ「語りたいの記」はこちらです。

マンボでラーメン

気仙沼の、南町紫市場という仮設の商店街の中に「マンボ」というお店があります。
元々は喫茶店ですが、ここのラーメンが人気なのです。

ちょうどお昼になりましたので、寄ってみました。
今日は「味玉ラーメンをお願いします」
これこれ、これです。麺は細麺であっさり醤油味。

相席になったオバさんは大島の方だそうで、震災前は船を待つ間に食べてましたとな。
お宅は無事だったそうですが、養殖のワカメや帆立は流され、船もダメとガッカリされています。

なんて、話をしていたら、仙台放送のテレビ取材がいらしてました。
私にも取材が、、、
「地元の方ですか?」
「地元出身ですが、いまは東京に住んでいて、たまたま帰ってきたので参りました」なんて事を言ったように思います。
「ラーメン以外にも、パフェやバナナジュースも美味しいですよ!」

気仙沼にいらしたら、ぜひお立ち寄りください。
こちらのお店が、仮設ではあるけれど復活してくださって嬉しいです。

やっぱり、育った町、魚町、南町、そして八日町は大好きな町なんだなぁ。
こんな姿になっても、やっぱり好きだな〜。

午後には東京に戻ります。
次は3月に気仙沼に参ります。

魚町のいま

わが町、魚町。
壊滅的な被害を受けたわが町はどうなっているでしょうか。

行ってみますと、オオ!だいぶきれいになりました。
ガレキが片付いています。
それでも、ここに爪痕があります。

こちらは角星さんの店舗。

2011年4月に行った時は、ガレキがたくさんありました。

現在の男山さんの店舗。

2011年4月に行った時は、このようになってました。

大鍋屋さんは、玄関もきれいに修理されていて、見違えました。

そして、実家跡地に向かいます。
そこはかさ上げされた道路が出来ていました。
どれくらいの高さでしょうか。60cm以上あるように思います。

実家の玄関先だったところには、コケが生えてました。

魚町を歩いていると、埃っぽくて、昨年のあの当時を思い出します。マスクなしには歩けなかった。

ところで、この町の不思議な空気に気づきました。
人はいます。
ですが、その人々は全員が工事担当者です。

普通の人が普通に歩いているという光景には出会いませんでした。
普通に歩いているのは、私だけ。
それは何とも異様な空気です。

それでも数世帯がここに戻って生活を始めているそうです。
でも、それは町の中のごくわずかな人々。

町が眠ってしまったかのように、止まっている。
あの時よりもガレキがなくなってきているだけに、建物の廃墟と青空とが、なんとも言えない。
あの活気があって、威勢が良くて、元気だった町を思い出させるものを探しながら、さまよいました。

白鳥の気仙沼大川

母のアパートは、本町橋から大川沿いにいったところ。
冬になると、白鳥が飛来します。

います、います。

のどかだなぁー。

震災の後は、この川にもガレキがたくさんありました。
ボランティアさんがそれを撤去してくだったのです。ありがとうございます。
おかげで、今年も白鳥がたくさん来ています。

気仙沼・南町紫市場

昨年12月24日に、気仙沼市南町にオープンした「南町 紫市場」に参りました。
南町は、昭和の時代には最も栄えた場所。
震災では、大被害がありました。ここに日本でも最大級ではないでしょうか?
52の店舗が入りました。

ウロウロしていると、「利英子?」と声がかかりまして、そちらを見ると、「オー、コウジ君!」

コウジ君は、震災前の1月に、東京を引き上げて気仙沼に帰ったばかり。
地元で「パン屋さん」をはじめるんだ!と言っていたけれど、どうなったかと心配していました。
今日も、市立病院のあたりをグルっとまわってお店を探してみたのですが、わからなかった。

「エー、ここでやってたの?」と聞くと、
「午前中はお店で売って、午後2時ぐらいからはこっちでもやってるんだ」って。

お店の名前は「田谷前 パン くら」です。
どうぞ、ご贔屓にしてやってくださいまし。

この寒いのに、外での販売、がんばるのぅ。
ちゃんとお仕事してますよ。
おもいのほか、種類が豊富です。私もたくさん買い求めました!

3月に「追悼ラン」をしようと思っています。
その相談に、ミチアリ君のお父さんに話をもちかけました。八日町の斉藤お茶屋さんです。

ここも被災したのですが、かろうじて建物が残ったので、皆さんで一生懸命、清掃してここまでになったそうです。
店内の様子です。

「追悼ラン」は、なんとか前に進めそうです。
地元のランナーとも協力して出来たらいいですね。
のちほど、計画を関係各位に相談しますから、詳細連絡まで、今少しお待ちください。

母と待ち合わせるために「ヴァンガード」に入りました。
Jazz喫茶です。店内に流れるJazzの音がゴリっとして良いのです。
若い頃、わからないながらもJazzを聴いてる自分に酔っちゃう、そんな時代もありましたっけ。
南町の中でも、早い段階で再開しています。

母が来たので、「あさひ鮨」さんに参りました。
父も大好きだった寿司店です。
ここが仮設ということを忘れてしまいそう。

それは随所に工夫があるからです。
被災したお店から、障子や欄間を持ってきたのだそうです。
ご主人が描いた絵画もかけてありました

こちらは障子。

欄間も。

ご主人みずから握ってくださったお寿司は、本当に美味しくて、涙が出そうでした。

震災の、2日前だったでしょうか、母と食べに行ったのが最後です。
母もずっと「あさひさんのお寿司が食べたい」と言い続けていて、やっとですね!
母もはしゃいでおります。

母と家まで帰りまして、かっつに連絡してみたら、「空いてるよ」というので、急遽、飲みに行くことにしました。
迎えに来てもらって田中前へ。
同級生ってありがたいね。
私の方が元気もらってますよ、ホント。

気仙沼、ありがとう!