母と同居はじまる

孫2人と一緒に横浜に疎開している母。
甥たちは、もうすぐ学校も始まるので、明日の日曜日、横浜の弟夫妻が車で送ってくれることになりました。

さて母に、もう少し、こちらにいてはどうかと説得を続けていまして、やっと応じました。

本日、横浜に迎えに行きまして、東京での暮らしが始まります。
母には東北新幹線が開通したら、私が送っていくと話していますが、さて、期間はどうなりましょうか。

横浜(白楽駅近くの六角橋商店街というところです)に行って様子を聞きます。
弟の嫁の家の隣の、こちらの一戸建てのお宅をお借りして、3人が住んでいました。弟の嫁の地元で、ご近所付合いもあります。

夜は、みんなで銭湯に行ったようです。
銭湯は、被災者は無料にしてくださったそうです。
横浜の子達も、みんなで一緒に入って、ちょっとした合宿気分で楽しんだようです。

毛布や衣類なども、ご近所の方々が集めてくださって、支援してくださっていました。

弟の嫁は色々と気がついてくれて、母は美容院に行ってサッパリとしていました。

こちらに比べると、近所付き合いもない狭い私の部屋は、母には不便をかけてしまいましょう。

まぁ、しょうがないわな、こんな娘ですから〜w。

実家の取り壊し作業中

夢を見た。

実家は倒れかかっているが、大きな余震の後に、逆方向に傾いたついでにまっすぐに戻ったという呑気な夢。

私は平和な2階にいて、母と1階をどうやって片付けるか相談している。
「意外にうちも丈夫だねぇ」なんて言ってたら目が覚めた。

そこに「本日、実家取り壊し」の連絡入る。
あれは、むしの知らせだったのでしょうか。

本日の作業は途中でおしまい、とのことで、弟から写真が届きました。

あれまぁ、2階のふすまがそのまま残っているのね。
この奥に、私が使っていた部屋や父の洋服がそのまま残ってる部屋あります。

もしかしたら2階のものを取り出せたのかもしれないが、
ただ、、、1階の柱が折れていたし、
階段が壊れてしまって2階に上がれなかったから、
それには危険を伴うわけでして、諦めざるを得ません。

母が見たら、無念がるでしょうから、
たまたま、こちらに疎開していたおかげで見ないで済んで良かったわ。

呑みマス!ニッポン

大震災から1ヶ月経った本日、神田「なみへい」さんにて、「なみへい日本酒女子部」を中心としたプロジェクト「呑みマス!ニッポン」が開催されました。

「飲んで支援しましょう!」という主旨に賛同された方々が40数名いらっしゃいました。

私は気仙沼から男山本店さんと角星さんのお酒をプレゼンを交えて紹介させて頂きました。

他に、釜石の浜千鳥さんという3つの蔵元から届いたお酒が並び、お酒好きの皆様がドンドン消費してくださいました。

お料理も美味しいです。

プレゼンをしてみて感じましたことは、私のように、この1ヶ月間、ドップリと震災と気仙沼情報を見続けた者がいる一方で、

同じようなガレキの山をTVで見ていても、それが陸前高田なのか、気仙沼なのか、南三陸町なのか、はたまた、釜石なのか、大船渡か、石巻か、女川か、、、。

とにかく広範囲に及ぶことと、これまで知名度が低い地域のことゆえ、地域的なことや産業を含めて、ご存知ない方が多いということです。

その中で「気仙沼の2つの造り酒屋」についてプレゼンさせて頂いたことは、わずかな時間ではありましたが、有意義であった気がします。

お食事を頂きながらも、質問をたくさん頂戴しました。
私どもは、語り部になって、現状を(草の根ではありますけれど)語り継いでいくことも大事だと思った次第です。

3.11その時、弟は…

あの大地震の時はどうしていたの?
弟から聞いた話。忘れぬうちに書き留めておきましょう。

弟がいる避難所付近で、「俺の命の恩人はあの人」という人を見かけました。
エ? 命の恩人って、それ、どういうこと?

弟は、マルキの魚市場前の工場で働いていました。
地震の後に、従業員さんを避難させます。

それから魚町の実家に母を救助に行くも、母は留守。

留守を確認した後は、内ノ脇の自分の家を見回りに。
そちらも留守。

留守を確認すると、なぜか工場に戻る(津波警報が出ていたら、戻ってはいけないのです。しかし、戻った)。

工場の1階には、あわてて逃げたために、出しっぱなしになっていたフォークリフトを、このままでは流されるかもしれないと思って、少し高い位置に移動(こんな事をしていてはいけないのです。津波にのまれます)。

それから車に乗って避難しようとするも、大渋滞で車は動かず。

やっとの思いで、南気仙沼駅近くを走行中、前方に血相を変えて誘導している人の姿が見えたそうです(これが命の恩人さんです)。

そのあわてっぷりに、これはただ事ではない?と思い、車から降りて、ふと海の方に目をやると、

そこには、波ではなく、家がこちらに向かって移動しているのが見えた!そうです。

それで大慌てで、誘導された方向に向かって猛ダッシュ。
ヨシダビルに逃げ込んだそうです。

弟の車の前にも後にも、たくさんの車が並んでいたそうですが、ヨシダビルの階段を猛ダッシュで駆け上がった時、弟の後ろには、誰も人がいなかったそうです。

そうして、ヨシダビルの上の方で、2日間、孤立状態で過ごしていたというわけです。

弟の話を聞くと、2つも3つもやっては行けない事をしていて、一歩間違えたら、完全に・・・。

しかも、その日の晩は、まわりが大火災で、火の海の中のビル内に孤立。
寒さと恐怖と空腹で、とにかく辛かったと言っていますが、

聞いてるこちらが鳥肌が立ってくるようです。

ヨシダビルは飲食店が入ったビルですが、夜のお店がほとんどのため、日中はお店に鍵がかかっていて中に入れなかったようです。

ちなみに、フジテレビで「弟らしき人影」が映っていた話をしましたが、それはよく似た別人だったそうです。救助が来ないが、あまりの寒さで、交代で1人ずつ屋上にあがって、ヘリに手を振っていたそうです。

ヘリは、身体が不自由な方優先に救助をしていたので、ヨシダビルに避難した人達は、2日目の夕方、自力で脱出したとのことでした。

無事で良かった。

ということで、弟の所持品は、ポケットに入っていた携帯電話のみでした。

3.11その時、母は…

あの3.11を経験した誰もが、とてつもない物語を持っている!
そのように被災地の友人キーチ君が表現しています。

忘れぬうちに書いておきます。
ところどころ、思い違いがあるかもしれないから、それは後で直しましょう。
私が聞いた話。

その時、母は、、、
なんと呑気な事に、お茶のお稽古をしていた。

お稽古をしている最中にあの大きな地震。
急遽、お稽古は中止となり、どなたかの車で送ってもらったそうだ。

ところが、なぜか、よくわからないけれど、七十七銀行の前で車を降りている。

それはまさに、ここです。
上側に見える白い建物が七十七銀行。

それから母は、道路の右側を魚町の自宅に向かって歩き始めたそうです。
(それは海に向かって歩いていることを意味します)

大内薬局の前辺りで、ご近所の齋民さんの車が来て、あっちは危ないからと車に乗せて頂き、そのまま紫さんの坂を上がったそうです。

画面に向かって、左側が海、右側は高台に通じます。
波は、左からドンドン右に向かって流れています。しかも早い。
歩いていたら、波にのまれたでしょう。

気仙沼小学校近くの齋民さんの息子さんのお宅に避難。
そちらの2階で、齋民さんは、ご自分のお宅がなくなってしまった事を見ていたそうです。
私の実家は藤田屋さんのかげで見えなかったと言っています。

齋民さんの車に出会わなければ、どうなっていたでしょう。
かなりの確率で、助からなかったろうと思うとゾっとします。
命の恩人です。

そういう事で母の所持品は、呑気な事に、お茶のお稽古道具だけでした。

避難所のトイレ事情

私の家族(母と弟一家)は気仙沼中学校で避難所生活をしています。

避難所間格差があり、全ての避難所が同じではありません。
これはある避難所の、ほんの一例です。
(これは2011年4月3日現在の状況で、日々変化しています)

避難所にお住まいの方は、あまり状況を伝えて欲しくない方もいらっしゃると思います。
読まれます方も、どうか、あまり大げさに取り上げないで下さいね。
今日はトイレのお話です。

   *     *     *     *     *

平成の時代、トイレは進化しました。

便座は暖かい。
ウォシュレットがついているし、
立ち上がれば自動で水が流れる。

そんな時代に生きていると、昭和の時代のボットン便所は恐いです。
昔はみながそういうところで用をたしていたのにね。

河北新報によりますと「東日本大震災で津波に襲われた宮城県の石巻、東松島両市と女川町にある避難所のうち約4割で、トイレの汚物処理が十分にできず、衛生状態が悪化していることが31日、石巻赤十字病院などの調査で分かった。」そうです。

私がその事を知ったのは、つい数日前のこと。
4/1に気仙沼に向かった時には、そういった事情を知る由もなく。

気仙沼中学校の避難所では、電気がついて水道も出るようになったと聞いていましたから、トイレも学校のものを利用しているものと思っていました。

しかしながら実際には、外の仮設トイレを利用しています。
マラソン大会で利用させて頂いている、あの仮設トイレです。

下水道の整備がまだ不十分かもしれないし、あれだけの人数が使ったら、それこそあふれてしまうのかもしれません。

外にあるので、トイレに行くために上着を着用。
仮設トイレには電気がついてないので、夜は懐中電灯を持って行きます。

懐中電灯はお部屋に一つずつ支給されていますが、人数が多い部屋は一つでは足りないでしょう。

特に母の部屋は年寄りが多く、夜中にトイレに行く人が結構いますから、そういう配慮があって、1階のトイレに近い部屋を用意して頂いています。

気仙沼中学校の仮設トイレは比較的新しいものでした。
私はマラソン大会でよく利用していますが、ここを初めて使う皆さんには、
いやぁ参ったなぁという感じでしょうか。

気仙沼中学校のトイレでは、使用した紙はビニール袋に捨てています。
富士山もそのようにするのだそうです。

そんな事もあって、母のお部屋のご婦人は、なるたけトイレに行かないで済むようにと水分を摂らずにいて、数名が脱水症状で救急車で運ばれたそうです。

また、外に出る時に、ちょっとした敷居をまたぎます。
若い人には何ともない敷居ですが、私が見ている間にも、数名の方がつまづいていました。

母は目が不自由になってしまったので、事のほか、その敷居が恐いようです。
これもまた母のお部屋の方ですが、そこで転んで、膝のお皿を割ってしまって、救急車で運ばれたそうです。

元気な人でも、なにしろ平成の立派なトイレからそのような状況になっていますから、辛いものがあります。
弟の嫁もお医者で下剤を処方して頂いたようです。
私も、ここにずっと居たら同じだったでしょう。

私が行く数日前に、「夜間につき、年寄りと具合が悪い人は、学校のトイレの利用が許可された」ようですが、日中は仮設トイレを利用します。

気仙沼中学校では、男性用と女性用を分けて使っていました。
ドアの前に張り紙がしてあります。
ほとんどが和式ですが、洋式が男女1つずつありました。

お年寄りの方に足が悪い方が多くて、狭くて暗い和式の仮設トイレは本当に大変です。
若い方は、お年寄りに洋式トイレの利用を譲っていました。

トイレ掃除は、部屋ごとに交代で行っていました。
班長会議で日程が決められて、お部屋に通達が来ます。

全員でトイレ掃除をしますから、皆さんがきれいに使おうと協力し合ってるようです。

トイレから出たところに「消毒薬」が置いてあって、必ず消毒します。
感染症にならないようにと、運営の方が力を入れてくださっています。

私が泊めて頂いた気仙沼の友人のお宅では、普通にトイレが使えるので、天国のような心地がしました。

いま、東京にいても、トイレに入るたびに、避難所の皆さんのお気持ちを思わずにはいられません。

早く普通のトイレが使えるようになるといいですね。

避難所の弟一家の暮らし

私の家族(母と弟一家)は気仙沼中学校で避難所生活をしています。

避難所間格差があり、全ての避難所が同じではありません。
これはある避難所の、ほんの一例です。
(これは2011年4月3日現在の状況で、日々変化しています)

避難所にお住まいの方は、あまり状況を伝えて欲しくない方もいらっしゃると思います。
読まれます方も、どうか、あまり大げさに取り上げないで下さいね。

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母の部屋の次に、弟一家が住む3階の教室を訪ねました。
すると、母の部屋とは異なる空気がありました。

まず、母の部屋よりも人が少ない。
こちらはその時点で20名ほどです。

それは、アパートを見つけたり、親戚に行くなどして、人が減ったからだそうです。

ただ、ほかの避難所を閉鎖する関係で、こちらに受け入れ要請が来ていましたから、またすぐに30名程度にはなるそうです。

どうして母の部屋は人数が多いのか聞いてみますと、
仮設トイレが外にあり、身体が不自由であったり、老人の方は1階にという配慮があるそうです。それでそういう人が多いため、母の住むA室はとても人が多いのです。

弟一家は健康で若いですから、1階から3階を行ったり来たりしています。

お隣は、ペットのいる部屋です。
避難所の多くがペット禁止のようですが、気仙沼中学校は珍しくペット同伴の部屋があります。ただし、小型犬だけのようです。

たびたび余震がありますが、地震のたびに犬が、
ワオーーー!ワンワンワンワンワンワン!とおたけびを上げます。

日中は良いですが、夜中にはさぞや騒々しいでしょうと聞きますと、

「人間が地震になれるように、ペットもなれてきたみたいで、前よりはおとなしい」と弟は言っています。

それでも、一斉に犬が吠えますから、こちらに元気な人が多いのは頷けます。

飼い主さんはワンちゃんを隠すように抱きかかえて、廊下を歩いていました。申し訳ない気持ちがその姿から伝わります。私にも犬がおりますので、飼い主さんのお気持ちがわかります。

母の部屋よりは、はるかにゆったり過ごしている弟達のスペースですが、それでも一人の空間は、敷き布団1つというわけにはいきません。3人で2つ分程度でしょうか。2つにも満たないでしょうか。敷き布団がないので、計ることは出来ませんが、そういった所で寝ています。そして、同じところで食事をしています。

こちらの部屋は、ほとんどが弁天町の方のようです。
なるたけ同じ町内の方が集まるようにといった配慮もなされています。
弟は内ノ脇の住所です。

母は魚町に一人暮らしをしていました。
魚町の多くは陣山の「第2保育所」に避難しているようです。

母は弟を頼って、別の町内の方が多くいる気仙沼中学校にいるわけでして、また、身体が不自由な方が多いA室は、ご町内関係なく集められているため、見ず知らずの方が多いのです。

それでも1ヶ月近くも寝食を共にしますと、親戚のような感じになっていました。

弟の部屋では、未成年は甥の2人だけで、次に若いのが弟夫妻、その上が50歳代が一人、あとは全員60歳代、70歳代でしょうか。避難所も高齢化しています。

ご夫妻一緒に、あるいは母と息子さんという方もいます。
家族が一緒なので、それも手伝ってか、明るい雰囲気がありました。

とても良い方ばかりで、お部屋のルールを決めて、辛い中にも楽しい暮らしを模索しています。班長さんがとても良い方で、そういった事も影響しているのでしょう。

このたび甥達が疎開すると言いましたら、お餞別にと皆さんが、甥にパンとおにぎりを持たせてくださいました。皆さんが食べる分を分けてくださったのです。

ありがたいです。
元気で帰って来るんだよ〜と送り出してくださいました。
なんだか、みんなが親戚のようです。

母が「私一人では、絶対に東京には行かない!」と言った理由のようなものが見えた気がしました。

避難所の母のスペース

私の家族(母と弟一家)は気仙沼中学校で避難所生活をしています。

避難所間格差があり、全ての避難所が同じではありません。
これはある避難所の、ほんの一例です。
(これは2011年4月3日現在の状況で、日々変化しています)

また、もしかしたら、避難所にお住まいの方は、あまり公にして欲しくない方もいらっしゃると思います。これを書くことが良い事かどうか、迷います。

ただ、私も見聞きした事はいつか忘れてしまいましょう。
今のうちに現状を書く人がいてもいいのかもしれないと思って書いています。

読まれます方も、どうか、あまり大げさに取り上げないで下さいね。

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避難所に20日以上過ぎても残っている方は、どこにも行き場がない方ばかり。

良い方で、半壊の家に行って布団や毛布を取ってこられる方です。
気仙沼は半壊の家も結構ありますので、そういう方もいらっしゃいます。

私の家族のように、何も持って来れなかった者もいます。

状況は様々ですが、しかし、あの日、避難して来た時は、みな、命からがら。全身濡れてる方もいたそうです。

気仙沼中学校の「体育館」に集められたそうですが、窓ガラスが割れていて、外の風がビュービューと入り込み、とても寒かったと皆さんが言っています。

いま、その割れた窓ガラスは、段ボールでふさがれていますが、すきま風は今も入り、それでなくても天井が高い体育館は寒々としています。

その夜は、わずかな毛布が配布されたようですが、全身濡れた方に渡してあげて、多くの方は毛布もなく、凍えていたようです。

2日目に、わずかなカンパンなのか、クッキーなのか、何かカケラを頂いたと言っています。

何かを食べられたのは3日目以降だったようです。

あの3.11の日を思えば、いまはとても良い方と皆さんが言います。
それほどまでに、辛い夜を過ごしたのかと、ギュッと胸がしめつけられます。

避難所を訪問しますと、校庭にはそれほど人がいなくて閑散とした印象を持ちました。母が玄関まで来てくれて再会。感動の再会!

電話では話していたけれど、実際に会うとやはり嬉しさもひとしおです。
「生きていた!」という実感。

その後、(外は寒いので)お部屋へどうぞ、と案内されました。
教室の扉を、ガラっと横に開くと、そこには、あまりに多くの人がいて、圧倒されます。

予想はしていたのですが、これほど多くの人が、ここに住まいしているのですね。

特に母は、身体が不自由な人向けの、1階の玄関に近いところにいます。ここはトイレが近いので、そういう配慮だそうですが、この部屋は50人程度がいるそうです。

想像してみてください。
教室は、たぶん、どちらの学校も同じ程度の大きさかと思いますが、せいぜい40数名の生徒数でしたよね。そちらに50人もの人が生活をしているのです。

それも、母の部屋はほとんどがお年寄りで、日中もお部屋にいる方が多いから、とにかく、人・人・人!

母のスペースに行くために、よその方の毛布を踏んではいけないと思うと、なかなか、まともに歩けない。

「ここが私のお家よ」と母が言います。
それは、本当にわずかばかりのスペースで、

「どうやって、ここに寝るの?」と私が聞きますと、お隣のおばさんと母が、

「こうやってね、足をこっちに向けて、互い違いになって寝るの」と、その工夫を誇らしげに話してくれました。

寝返りをうつと、お隣にぶつかりましょう。
しかも、母のお隣は、なんと!男性です。

それには驚きました。
てっきり、女性の部屋と男性の部屋が分かれているものと思い込んでおりましたから。

家族のある方もいるから、単純に男女という分けは出来ないのでしょう。

しかし、見ず知らずの男性と、寝返りをうったらぶつかってしまうような所で、ジッと生活をしています。

「せめてお隣を女性にして欲しいとお願いして来る」と私が言いますと、母は、
「事を荒立てないで欲しい」と言います。

「お母さんは、これまでも、ここでやって来たのだから、皆さんのおかげで生きているのだから、我がままを言ってはいけない」と私をさとします。

見渡すと、皆さんも母と同様に、狭い狭い空間で、少しでも横になれるように工夫をして生きています。いろいろな物資や援助を頂いていることに感謝しながら生きています。

そして、全国の皆さんにブログで御礼を言って欲しいと母は言います。

母に代わりまして、皆様からの応援、本当にありがとうございます。
皆様のおかげで、被災者は生きています。

なお、母の現状ですが、
4/4(月)に横浜の弟夫婦が迎えに来てくれて、1週間ほど、母と甥2人は横浜に疎開をしています。学校が始まる前の、束の間の春休み。今は足を伸ばして眠っておりましょう。

母はそのような状況にあっても「絶対に東京には行かない!」と意地を張っていましたが、孫からの説得により、あっけなく落城。

娘の話はきかなくても、孫の「ばあちゃんも一緒に行こう」には弱かった。

避難所の小さな歓び

私の家族(母と弟一家)は気仙沼中学校で避難所暮らしをしています。

避難所間格差があり、全ての避難所が同じとは思いません。
あくまでも私の家族の場合の、「避難所の小さな歓び」をお伝えします。
(これは2011年4月3日現在の状況で、日々変化しています)

(1)食事!

とにかく、ご飯を楽しみにしています。
とは言っても、支給していただきますのは、日に2食。昼と夜のみ。

1食の内容は、
おにぎり1つ(中には何も入ってないです)、
パン1ケ(菓子パンが多いようです)、
缶ジュースかカップスープなど。
たまにフルーツやおやつが出る事もあるようです。

これだけ聞くと、栄養の偏りを思い、可哀想と思われると思います。

ところが、、、
お隣の気仙沼小学校に「炊き出し」が来ます。
我が家族は、1時間も2時間も並んで頂いているようです。

特に現在は、元貴闘力さんが、気仙沼に1ヶ月も滞在していて、毎日「ちゃんこ」の炊き出しをしています。
野菜たっぷり、お肉たっぷり。
これで栄養をとっているようです。

その他に、パキスタンのカレー、スリランカのカレーを食べたとか、一風堂のラーメンを食べたとか、何時間並んだとか、楽しそうに話しています。

「炊き出し」がなかったら、と思うとゾっとします。
皆様に支援して頂いていると、家族は感謝しています。

また、ここ最近では、お見舞いのお客様も増えて、お土産にフルーツやお菓子、漬け物、おにしめなどを持って来てくださり、意外にも栄養のバランスを考えつつ、頂いていました。

朝食は出ないのですが、そういったものをうまくやりくりして、3食にして食べているようです。

(2)お風呂!

自衛隊が仮設のお風呂を用意してくれました。
こちらも、お隣の気仙沼小学校にあります。

「玄海の湯」というこのお風呂に、気仙沼小学校、気仙沼中学校、市民会館に避難している1500名程度の人が入ります。

3〜4日に一度、お風呂の日があるようです。
皆さん、とても楽しみにしています。
お湯加減も良いそうです。

シャンプー、リンス、ボディシャンプーも用意されたものを使わせて頂いているそうです。
ありがたいです。

(3)散髪!

私がいる間に、スケジュール表に「床屋」と書かれました。
「男女とも!」だそうです。

それを聞いて、特にご婦人方はとても喜んでいました。
あの日以来、我慢に我慢に我慢を重ねています。

床屋さんがいらして散髪してくださるということが、こんなに喜ばしいことなんですね。

(4)慰問!

なんといっても嬉しいのは、著名な方が避難所を訪問してくださることのようです。
我慢・我慢・我慢の生活の中に、とても明るいニュースです。

気仙沼には、青木功や大魔神・佐々木、生島ヒロシ、サンドウィッチマン、ガチャピン・ムックらがお越しくださいました。

もしも可能なら、斎藤佑樹とか、石川遼とか、AKBとか、そういう人が来たら嬉しいなぁと言っています。
有名な皆様、ぜひ、避難所にいらして下さい。

さて、、、
いまだに電気が通っていない避難所もあります。
気仙沼中学校は恵まれた方だと、皆さんが言っています。

ただ、炊き出しにしても、支給される食事にしても、とにかく並ぶことが大変と言っています。

気仙沼はまだ寒い。
ここに1時間、2時間並んで待つのは辛い。。。
そうしてありついた食事は、それはそれは美味しく感じることでしょう。

父の命日

4/6の本日は、父の命日です。
丸7年になりました。

気仙沼が大好きだった父が、今の姿を見たら、、、。
この状況を見ないで亡くなってしまった事は良かったと思うことにします。

父の遺影は見当たりません。
ガレキの中に埋もれてあるのか、それとも海に流れてしまったか?

海のそばに住む者は、津波の覚悟はしています。
覚悟はしていても、こんなにも何もなくなってしまうというのは辛いですね。

在りし日の両親。気仙沼市南町のあさひ鮨さんにて(2001年夏、10年前か)。