母も少しずつ前向きになっています。
今日は、初めて一人で電車に乗りました。
といっても、新中野から新宿までの、ほんの3駅ですけど、ちょっとした冒険だったね、お母さん。
母は好奇心旺盛で、チャレンジ精神がありますから、それには助けられます。
母も少しずつ前向きになっています。
今日は、初めて一人で電車に乗りました。
といっても、新中野から新宿までの、ほんの3駅ですけど、ちょっとした冒険だったね、お母さん。
母は好奇心旺盛で、チャレンジ精神がありますから、それには助けられます。
母と同居が始まって1週間です。
それなりに、うまくやっております。
母は料理担当。
さまざまな工夫をしていて、野菜たっぷりの家庭料理にダンナは大変、喜んでおります。
でも、今日は、「外で食べましょうか」
新中野の「ボビさん」というインド料理のお店。
母はインド料理食べたことない。
好奇心旺盛な母ですからチャレンジするそうです。
「エー! これがカレーなの?」
食べられないかな?と思ったけど、意外にもナンに付けて食べてました。
好奇心旺盛なうちはボケないですよね。
東京にお友達がいなくて、日中は一人にしているものだから、ボケないかと心配をしています。
母と同居が始まって、家の中は気仙沼弁全開です!
ダンナは北海道出身で、共通する言葉もありますが、まったくわからない言葉もあるらしく、なんとなくニュアンスで付いてきているようではあります。
「あんだ、わがっかっぺ?」と母が言う。
「わがってってば」と娘が応える。
「っ」(小さな「つ」)が多いです。
これが実にリズミカルで、楽しい気仙沼弁。
TVで震災の被災者へのインタビューを聞いていますと、
陸前高田、気仙沼、南三陸町は、同じ言葉を使っていますね。
同じ宮城県でも、仙台と気仙沼弁は少し違うのです。
だから、仙台の人が気仙沼に着任すると「異国に来たみたい」と思うわけですが、
三陸地方は、同じ言葉を使って、同じような文化で生活をしていたなぁと、インタビューを見ていて気付きます。これに室根町も入りまして、一つの文化圏を構成しています。
なんか、その市町村が一つになった方が自然な気がしているのは、私だけではないようです。
これが宮城と岩手に分かれて復興していくとなると、色々と面倒もありましょうね。
とかなんとか、呑気な事を言ってる暇はありません。
復興に向けて、がんばるゾ!
どうやら、道路にはみ出て邪魔になった部分だけが壊されたらしい我が家ですが、甥っ子が見に参りますと、なんと1階にはカーテンがしかれていたそうで、なんともまぁ、こんな状況なのに、カーテンは残っているってのも妙な気分でございます。
取り壊し作業の方が、カーテンをしいてくださったのでしょうか。
2階のふすまは、先日までは残っていたけど、度重なる余震のせいで1つがなくなっていました。その奥に見えるのはお茶箱で、あのお茶箱の中には、亡くなった祖母の和服や衣類が入ったまま。
他人さまから見たらボロにしか見えないでしょうけれど、
家族には大切な思い出です。
この通り、左側に見える階段が壊れたしまったため、2階に上がれません。
それにしても、なんてまぁ、恥ずかしい状況の我が家でございます。
母が風邪気味で、鼻グズグズ、咳ゴホゴホしています。
避難所から横浜に移り住んで、さらに東京に来て、疲れが出たのでしょうか。
熱はないからいいかな〜とは思うが、年をとっているし、悪化させてもいけないと思って、内科に連れていきました。
なんか前に記事をチラリと見た気がして聞いてみますと、
「住宅が全半壊した者などに対しては、医療機関は患者から患者負担分を徴収せず」という措置がとられるそうで、母も医療費は負担して頂きました。無料で診て頂いたのです。ありがたいです。
幸い保険証は持ち歩いていたおかげで無事でした。
気仙沼の住所の書いてある保険証を提示出し、バリバリの気仙沼弁で「家もなぐなったし」と語ります。看護士さんや皆さんにも大変、良くして頂きました。ありがたいです。
ゆっくり寝れば治ると思うのですが、気が張っていて「眠くない」と頑張っています。
あ、でも今見たら、犬と一緒に寝てます〜w。
今晩のおかずは、かれいの煮付け、ひじきの煮物、キャベツのサラダ、それに漬け物やバナナのデザートまで付けて、これ全部、母が作ってくれました。目が不自由ですし、慣れない台所は使いにくいでしょうけど、母も頑張っています!
ダンナが「美味しい!」を連発して母を褒めるもんだから、俄然やる気になっています。
日中1人にして寂しいだろうと思いますが、もう少し、一緒にやってみようね、お母さん。
急遽、母が東京の我が家で避難生活を送ることになりまして、何も準備してなかったから、そりゃもう、おおわらわですわ。
まずは掃除。
とにかく掃除、掃除、掃除。
それでなくても狭い部屋ですから、どうしたらいいのでしょ。
まぁ、避難所よりは良いでしょう。
それから、犬の小太郎。
母は犬が嫌い。。。
でも、意外にも小太郎とは仲良くやっております。
小太郎も母にくっついて、ちょっとした癒しのようです。
そして食事。
母は料理が得意というか、好きなんです。
今は目が不自由になってしまって、完全失明ではないけれど、かなり見えにくい状態。障害者手帳の申請をしているところでした。
包丁を持たせるのは、どうしようかと思ったけれど、震災前まで料理していたのだから、それに、、、どうやら娘の料理が見ちゃいられないってことで、母の手料理を頂くことに。
美味しい(^ー^)。
母の料理にダンナも満足。
ずっと居てもらってはどうか、なんて言っております。
まだ、お互いに良い子でおりますが、そのうちに我がまま全開になりましょう。
そうなった時は、、、、、、、恐ろしい〜〜〜。
孫2人と一緒に横浜に疎開している母。
甥たちは、もうすぐ学校も始まるので、明日の日曜日、横浜の弟夫妻が車で送ってくれることになりました。
さて母に、もう少し、こちらにいてはどうかと説得を続けていまして、やっと応じました。
本日、横浜に迎えに行きまして、東京での暮らしが始まります。
母には東北新幹線が開通したら、私が送っていくと話していますが、さて、期間はどうなりましょうか。
横浜(白楽駅近くの六角橋商店街というところです)に行って様子を聞きます。
弟の嫁の家の隣の、こちらの一戸建てのお宅をお借りして、3人が住んでいました。弟の嫁の地元で、ご近所付合いもあります。
夜は、みんなで銭湯に行ったようです。
銭湯は、被災者は無料にしてくださったそうです。
横浜の子達も、みんなで一緒に入って、ちょっとした合宿気分で楽しんだようです。
毛布や衣類なども、ご近所の方々が集めてくださって、支援してくださっていました。
弟の嫁は色々と気がついてくれて、母は美容院に行ってサッパリとしていました。
こちらに比べると、近所付き合いもない狭い私の部屋は、母には不便をかけてしまいましょう。
まぁ、しょうがないわな、こんな娘ですから〜w。
夢を見た。
実家は倒れかかっているが、大きな余震の後に、逆方向に傾いたついでにまっすぐに戻ったという呑気な夢。
私は平和な2階にいて、母と1階をどうやって片付けるか相談している。
「意外にうちも丈夫だねぇ」なんて言ってたら目が覚めた。
そこに「本日、実家取り壊し」の連絡入る。
あれは、むしの知らせだったのでしょうか。
本日の作業は途中でおしまい、とのことで、弟から写真が届きました。
あれまぁ、2階のふすまがそのまま残っているのね。
この奥に、私が使っていた部屋や父の洋服がそのまま残ってる部屋あります。
もしかしたら2階のものを取り出せたのかもしれないが、
ただ、、、1階の柱が折れていたし、
階段が壊れてしまって2階に上がれなかったから、
それには危険を伴うわけでして、諦めざるを得ません。
母が見たら、無念がるでしょうから、
たまたま、こちらに疎開していたおかげで見ないで済んで良かったわ。
大震災から1ヶ月経った本日、神田「なみへい」さんにて、「なみへい日本酒女子部」を中心としたプロジェクト「呑みマス!ニッポン」が開催されました。
「飲んで支援しましょう!」という主旨に賛同された方々が40数名いらっしゃいました。
私は気仙沼から男山本店さんと角星さんのお酒をプレゼンを交えて紹介させて頂きました。
他に、釜石の浜千鳥さんという3つの蔵元から届いたお酒が並び、お酒好きの皆様がドンドン消費してくださいました。
プレゼンをしてみて感じましたことは、私のように、この1ヶ月間、ドップリと震災と気仙沼情報を見続けた者がいる一方で、
同じようなガレキの山をTVで見ていても、それが陸前高田なのか、気仙沼なのか、南三陸町なのか、はたまた、釜石なのか、大船渡か、石巻か、女川か、、、。
とにかく広範囲に及ぶことと、これまで知名度が低い地域のことゆえ、地域的なことや産業を含めて、ご存知ない方が多いということです。
その中で「気仙沼の2つの造り酒屋」についてプレゼンさせて頂いたことは、わずかな時間ではありましたが、有意義であった気がします。
お食事を頂きながらも、質問をたくさん頂戴しました。
私どもは、語り部になって、現状を(草の根ではありますけれど)語り継いでいくことも大事だと思った次第です。
あの大地震の時はどうしていたの?
弟から聞いた話。忘れぬうちに書き留めておきましょう。
弟がいる避難所付近で、「俺の命の恩人はあの人」という人を見かけました。
エ? 命の恩人って、それ、どういうこと?
弟は、マルキの魚市場前の工場で働いていました。
地震の後に、従業員さんを避難させます。
それから魚町の実家に母を救助に行くも、母は留守。
留守を確認した後は、内ノ脇の自分の家を見回りに。
そちらも留守。
留守を確認すると、なぜか工場に戻る(津波警報が出ていたら、戻ってはいけないのです。しかし、戻った)。
工場の1階には、あわてて逃げたために、出しっぱなしになっていたフォークリフトを、このままでは流されるかもしれないと思って、少し高い位置に移動(こんな事をしていてはいけないのです。津波にのまれます)。
それから車に乗って避難しようとするも、大渋滞で車は動かず。
やっとの思いで、南気仙沼駅近くを走行中、前方に血相を変えて誘導している人の姿が見えたそうです(これが命の恩人さんです)。
そのあわてっぷりに、これはただ事ではない?と思い、車から降りて、ふと海の方に目をやると、
そこには、波ではなく、家がこちらに向かって移動しているのが見えた!そうです。
それで大慌てで、誘導された方向に向かって猛ダッシュ。
ヨシダビルに逃げ込んだそうです。
弟の車の前にも後にも、たくさんの車が並んでいたそうですが、ヨシダビルの階段を猛ダッシュで駆け上がった時、弟の後ろには、誰も人がいなかったそうです。
そうして、ヨシダビルの上の方で、2日間、孤立状態で過ごしていたというわけです。
弟の話を聞くと、2つも3つもやっては行けない事をしていて、一歩間違えたら、完全に・・・。
しかも、その日の晩は、まわりが大火災で、火の海の中のビル内に孤立。
寒さと恐怖と空腹で、とにかく辛かったと言っていますが、
聞いてるこちらが鳥肌が立ってくるようです。
ヨシダビルは飲食店が入ったビルですが、夜のお店がほとんどのため、日中はお店に鍵がかかっていて中に入れなかったようです。
ちなみに、フジテレビで「弟らしき人影」が映っていた話をしましたが、それはよく似た別人だったそうです。救助が来ないが、あまりの寒さで、交代で1人ずつ屋上にあがって、ヘリに手を振っていたそうです。
ヘリは、身体が不自由な方優先に救助をしていたので、ヨシダビルに避難した人達は、2日目の夕方、自力で脱出したとのことでした。
無事で良かった。
ということで、弟の所持品は、ポケットに入っていた携帯電話のみでした。