横浜・六角橋「世界長」さん

横浜・六角橋にある「世界長」さん
横浜の弟の嫁の実家のお店です。

被災地「飲んで支援!」にご協力くださり、気仙沼の「男山」と「角星」のお酒を置いてくださっています。

お客様も「飲んで支援!」してくださっているようで、どちらのお酒も評判が良いそうです。お近くの方は、ぜひ、足をお運びくださいませ。

東横線の白楽駅近くです。

「世界長」
http://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140205/14028795/
神奈川県横浜市神奈川区六角橋1-6-13
045-432-1868
営業時間:17:00~24:00
定休日:火曜日

気仙沼ビューロー定例会(2011年5月)

気仙沼ビューローの定例会がありました。

東京に疎開している母は、お友達がいなくて寂しい毎日。
ビューローに連れて参ることにしました。

丸ノ内線・四谷駅で待ち合わせ。

母は、一人で新宿までは行けるようになりました。
「新宿では降りないで、四谷で降りてね」
「大丈夫!」と母。

昔々、私が短大に入学する際に、ニューオータニに泊まりまして、四谷や赤坂見附周辺を何度も散策した事を、母はとてもよく覚えています。

「四谷はわがってっから」と自信満々なので、私もつい
「ほんでは、改札まで来てね」と言ってしまった。

四谷駅で待つ・・・・・・・・来ない。。。

母から電話が来た。
「もしもし・・・」
「もしもし〜〜」もしもし、もしもし、もしもし〜〜〜〜〜!!!
・・・切れた。

不安がよぎる。
もしかしたら、あっちの改札に出たか?
あっちにウロウロ、こっちにウロウロ。

こちらから電話してみると、話し中だったり、電波が届かないところにおられるか、だったり、呼び出しているのに出なかったり。

あ〜〜あ、20分ほどだろうか。とても心配になりました。

すると、母が登場。
なにごともなかったかのように、電車から降りました。

「どうだった?」と私が聞くと、
「大丈夫」と、言葉とは裏腹にちょっと元気ない。

よくよく、よくよく聞くと、「四谷3丁目」で降りてしまって、地上でウロウロ。警察で聞いてもう一度、電車に乗り直したようだ。

母は、目が不自由なこともあって、車内アナウンスだけが頼りだったのですね。
「次は四谷(3丁目)」の四谷に反応したようです。

母はチャレンジャーなので、めげずに闊歩しております。

さて、気仙沼ビューローには、母が幼い頃に住んでいた太田7区出身が数人いらっしゃいます。もっとも皆さんは母よりも5〜6歳年下ですけれど。

定例会の会議中は黙っていましたが、2次会では皆さんの話の輪に入れて頂いて、本当にありがとうございました。

母の日2011

母の日だってことを、うっかり忘れておりましたーw。

そこに横浜の弟のところからお花が届いて、そうそう、今日は母の日でござるw。
小太郎と仲良くしていると話していたら、お花で犬のアレンジしてくれました。

お天気が良いので、池袋のサンシャインの展望台に行ってみます。

母は高いところから見る風景が大好きだったのですが、目が不自由になってしまったために、
「あまり、よく見えない」

そこで、これを使って、スカイツリーを見ます。
「わぁ〜、よく見える〜!」

スカイレストランでフレンチのランチを頂きました。
美味しうございます(*^0^*)!

作戦会議って何のー?w

代々木 魚がし」にて、復興に向けて我々が出来ることの作戦会議(という名の飲み会?)を開催しました。

「来週にでも開催しましょうか」なんて話していたら、「またたび」と「TK」が新宿に来てるというので、
「ほんでは今晩、魚がしで」ってな事で会うことに。

「魚がし」さんは、気仙沼出身の畠山さんのお店で、この大震災以降は特に気仙沼人が集まっています。

今晩も、偶然、階上出身のオオワダさんがふらりと入って来て、
「ほんで、一緒に」と。

気仙沼のお酒も置いてありますから、飲んで支援をしたい方も是非、いらして下さい。

嬉し恥ずかし・密着取材

テレビ朝日の「スーパーJチャンネル」5時35分頃から、今回の帰省に密着取材して頂いたものが放映になりました。

結構な量の取材があり、私たちも不慣れなので、あれこれと答えてしまったので、いったい、どのようにまとめるのかしらん?と思っておりました。

私が伝えたいこと、あれもこれもありますが、今回のテーマは「新幹線が通った事で、やっと地元に帰ることが出来た被災者の訓子(のりこ)さん(母)」です。

本当によくまとめられていて、感心しました。
ディレクターさんには色々とお世話になりました。

録画をしておりますので、見ることが出来なかった方で、見てみたいと思われる方はご連絡くださいませ。YouTubeに、パスワード付きで置いております。

スッピンじゃなくて、化粧すれば良かったわ(ボソッ)。

ご近所の見納め…

色々あって、本日(5/4)東京に戻ることになりました。

ご近所の見納めに参りました。
右端はお隣の大嶋電気さん、そして我が家、マルカンさんとヤマネさん。

こうして見ると、我が家の3階部分の物干は何事もなかったかのように残っているのですね。

次に来る時には、撤去されているでしょうか?

おそうじオバさん

母が借りたアパートがあります。
母の実家の親戚の方が、そのアパートの部屋をいくつか押さえていました。

その一つを、母にどうぞということで、先日、弟が契約してくれたようです。

家主さんには申し訳ございませんが、狭くて、古くて、何年も人が住んでなかった所です。

それでも、避難所よりはずいぶんと良い感じがしますが、東京なら、リフォームしていなければ、誰も借りないよねーと、つい言ってしまいます。いえいえ、今は非常時ですから、借りられるだけでもありがたいです。

私が「エー!ここに住むのーーーー?」と100回ぐらい母に聞きます。
「東京にいればいいのに・・・」

しかし、母は、こちらのアパートには親戚らが何人もいますから、安心のようです。母の部屋が1階の角部屋のため、人の出入りがすぐにわかります。

親戚の叔母らも、出入りの際には必ず「いだの?」と声を掛けてくださいます。
母にはそれがいいんですね。

しょうがないので、私はひたすら掃除です。

これがですね、拭いても拭いても、汚れがとれません。
クモの巣もたくさんあります。
私がいちいちクモの巣にギャーギャー言いながら掃除。

ダンナも一生懸命です。
甥っこのトモちゃんも来てくれて、とにかく掃除。

実家からどうにか持ち出したものは、泥がついていて臭いし、何度も何度も洗います。

東京にいても、こんなに掃除してないのになぁ〜w。

アパート近く、本町橋近くを歩く母とダンナ。

従兄弟のひろちゃんも無事!

再び、実家に行って、何かないかと物色していたら、マルキの車が通りました。

マルキの車・・・誰?と思って見ていたら、
向こうも、「マルキに怪しげな人物発見!」と思ってか、降りて来ました。

オオ、オオ、ひろちゃん、無事でしたね。

従兄弟のひろちゃんは、マルキの川口町の工場にて津波に遭遇。
川口町は大変に被害の大きい地域です。

工場の屋根に上がり、そこからお隣にダイブして、避難。3日ほど孤立状態だったそうです。

工場とお隣の距離は、結構あります。
落ちていたらと考えるとゾっとします。

東京からお見舞いに来ていたみっちゃん夫妻を乗せて、気仙沼市内を案内していました。

左から、みっちゃん夫妻、そして私、右はひろちゃんです。

「みっちゃん、ピアノが残っていたよ」
「エー! あのピアノが残っていたの?」

私のピアノは、従兄弟、従姉妹、みなんが弾いて遊びました。
みーんなの思い出のピアノです。

気仙沼がこんなんなっちゃったね・・・。

きっと復興しましょうね!

ありがとうピアノ

魚町の、実家の2階に上がり、ピアノにお別れを言うことにしました。
ピアノは、まるで私を待っていたかのように、そこにありました。

ピアノのふたをあけて、赤い布をとると、ピアノは、何もなかったかのように、すました顔をしていました。

ポロン。弾いてみる。
音がポローンと鳴る。

ポロンポローン。
鍵盤を見ていると、ここがこんなにグチャグチャになっていることを忘れます。

私は、初めてピアノを弾いた時のことを覚えていません。
2歳だったのか、3歳だったのか?
とにかく、物心ついた時には、ピアノを弾いていました。

先生にしかられながらレッスンしました。
その厳しかった先生は、この津波で亡くなりました。

ポロンポローン。
気の利いた曲を弾きたいけれど、何も浮かばず、とにかく即興で今の気持ちを音にしてみます。

それも、たいしたコード進行も浮かばないから、
FM7 Em7 Dm7 CM7 なんて、ありふれた進行で。

目をつぶります。

ありがとうピアノ。

幼い時は、ちょっと引きこもりで、
文字も読めなくて、落ちこぼれて、
それでも、楽譜は読めるし、楽器の演奏が好きでした。

カスタネット、ハーモニカ、リコーダー、ピアニカ。
音楽の授業が好きだったのはピアノのおかげです。

ありがとうピアノ。

あなたは、もうすぐ壊されてしまいます。
でも、ここから出してあげることが出来ません。
だから、ピアノ、今日は弾き納めです。

ありがとうピアノ。

たくさんの思い出をありがとう。

鹿折はじめて見ました

鹿折の叔母をお見舞いに参りました。

家と工場が流されてしまい、いまは立ち入り禁止区域です。
叔母は、実家に身を寄せていました。

叔母は、息子(従兄弟のたっちゃん)と、従業員さん2名の合計4名で工場の屋根に避難し、そこで一晩過ごしたそうです。

色々なものが流れて来て、人を何人か助けてあげて、マルキの工場の屋根にも、あと2人が避難して6名になったそうです。

「屋根にどうやって上がったの?」と聞きますと、
何か、ロープみたいなものがたまたまあって、それを掴んで、上から息子らに引っぱり上げてもらったそうです。

「上がるのは必死だから出来たけど、降りる時は恐かった〜」って。
本当に命からがらです。

鹿折に行く途中、iPhoneで録画したのがこちら。
鹿折は、津波だけではなく火災がひどく、その焼け跡を見ますと、胸がグっと苦しくなります。