実家のいま…

どうやら、道路にはみ出て邪魔になった部分だけが壊されたらしい我が家ですが、甥っ子が見に参りますと、なんと1階にはカーテンがしかれていたそうで、なんともまぁ、こんな状況なのに、カーテンは残っているってのも妙な気分でございます。

取り壊し作業の方が、カーテンをしいてくださったのでしょうか。

しかしこれはまぁ、「ハウルの動く城」みたいな感じーw。

2階のふすまは、先日までは残っていたけど、度重なる余震のせいで1つがなくなっていました。その奥に見えるのはお茶箱で、あのお茶箱の中には、亡くなった祖母の和服や衣類が入ったまま。

他人さまから見たらボロにしか見えないでしょうけれど、
家族には大切な思い出です。

この通り、左側に見える階段が壊れたしまったため、2階に上がれません。
それにしても、なんてまぁ、恥ずかしい状況の我が家でございます。

被災者の医療負担

母が風邪気味で、鼻グズグズ、咳ゴホゴホしています。
避難所から横浜に移り住んで、さらに東京に来て、疲れが出たのでしょうか。

熱はないからいいかな〜とは思うが、年をとっているし、悪化させてもいけないと思って、内科に連れていきました。

なんか前に記事をチラリと見た気がして聞いてみますと、
「住宅が全半壊した者などに対しては、医療機関は患者から患者負担分を徴収せず」という措置がとられるそうで、母も医療費は負担して頂きました。無料で診て頂いたのです。ありがたいです。

幸い保険証は持ち歩いていたおかげで無事でした。

気仙沼の住所の書いてある保険証を提示出し、バリバリの気仙沼弁で「家もなぐなったし」と語ります。看護士さんや皆さんにも大変、良くして頂きました。ありがたいです。

ゆっくり寝れば治ると思うのですが、気が張っていて「眠くない」と頑張っています。
あ、でも今見たら、犬と一緒に寝てます〜w。

今晩のおかずは、かれいの煮付け、ひじきの煮物、キャベツのサラダ、それに漬け物やバナナのデザートまで付けて、これ全部、母が作ってくれました。目が不自由ですし、慣れない台所は使いにくいでしょうけど、母も頑張っています!

ダンナが「美味しい!」を連発して母を褒めるもんだから、俄然やる気になっています。
日中1人にして寂しいだろうと思いますが、もう少し、一緒にやってみようね、お母さん。

突然の母との同居におおわらわ

急遽、母が東京の我が家で避難生活を送ることになりまして、何も準備してなかったから、そりゃもう、おおわらわですわ。

まずは掃除。
とにかく掃除、掃除、掃除。

それでなくても狭い部屋ですから、どうしたらいいのでしょ。
まぁ、避難所よりは良いでしょう。

それから、犬の小太郎。
母は犬が嫌い。。。

でも、意外にも小太郎とは仲良くやっております。
小太郎も母にくっついて、ちょっとした癒しのようです。

そして食事。
母は料理が得意というか、好きなんです。

今は目が不自由になってしまって、完全失明ではないけれど、かなり見えにくい状態。障害者手帳の申請をしているところでした。

包丁を持たせるのは、どうしようかと思ったけれど、震災前まで料理していたのだから、それに、、、どうやら娘の料理が見ちゃいられないってことで、母の手料理を頂くことに。

美味しい(^ー^)。

母の料理にダンナも満足。
ずっと居てもらってはどうか、なんて言っております。

まだ、お互いに良い子でおりますが、そのうちに我がまま全開になりましょう。
そうなった時は、、、、、、、恐ろしい〜〜〜。

母と同居はじまる

孫2人と一緒に横浜に疎開している母。
甥たちは、もうすぐ学校も始まるので、明日の日曜日、横浜の弟夫妻が車で送ってくれることになりました。

さて母に、もう少し、こちらにいてはどうかと説得を続けていまして、やっと応じました。

本日、横浜に迎えに行きまして、東京での暮らしが始まります。
母には東北新幹線が開通したら、私が送っていくと話していますが、さて、期間はどうなりましょうか。

横浜(白楽駅近くの六角橋商店街というところです)に行って様子を聞きます。
弟の嫁の家の隣の、こちらの一戸建てのお宅をお借りして、3人が住んでいました。弟の嫁の地元で、ご近所付合いもあります。

夜は、みんなで銭湯に行ったようです。
銭湯は、被災者は無料にしてくださったそうです。
横浜の子達も、みんなで一緒に入って、ちょっとした合宿気分で楽しんだようです。

毛布や衣類なども、ご近所の方々が集めてくださって、支援してくださっていました。

弟の嫁は色々と気がついてくれて、母は美容院に行ってサッパリとしていました。

こちらに比べると、近所付き合いもない狭い私の部屋は、母には不便をかけてしまいましょう。

まぁ、しょうがないわな、こんな娘ですから〜w。

実家の取り壊し作業中

夢を見た。

実家は倒れかかっているが、大きな余震の後に、逆方向に傾いたついでにまっすぐに戻ったという呑気な夢。

私は平和な2階にいて、母と1階をどうやって片付けるか相談している。
「意外にうちも丈夫だねぇ」なんて言ってたら目が覚めた。

そこに「本日、実家取り壊し」の連絡入る。
あれは、むしの知らせだったのでしょうか。

本日の作業は途中でおしまい、とのことで、弟から写真が届きました。

あれまぁ、2階のふすまがそのまま残っているのね。
この奥に、私が使っていた部屋や父の洋服がそのまま残ってる部屋あります。

もしかしたら2階のものを取り出せたのかもしれないが、
ただ、、、1階の柱が折れていたし、
階段が壊れてしまって2階に上がれなかったから、
それには危険を伴うわけでして、諦めざるを得ません。

母が見たら、無念がるでしょうから、
たまたま、こちらに疎開していたおかげで見ないで済んで良かったわ。

呑みマス!ニッポン

大震災から1ヶ月経った本日、神田「なみへい」さんにて、「なみへい日本酒女子部」を中心としたプロジェクト「呑みマス!ニッポン」が開催されました。

「飲んで支援しましょう!」という主旨に賛同された方々が40数名いらっしゃいました。

私は気仙沼から男山本店さんと角星さんのお酒をプレゼンを交えて紹介させて頂きました。

他に、釜石の浜千鳥さんという3つの蔵元から届いたお酒が並び、お酒好きの皆様がドンドン消費してくださいました。

お料理も美味しいです。

プレゼンをしてみて感じましたことは、私のように、この1ヶ月間、ドップリと震災と気仙沼情報を見続けた者がいる一方で、

同じようなガレキの山をTVで見ていても、それが陸前高田なのか、気仙沼なのか、南三陸町なのか、はたまた、釜石なのか、大船渡か、石巻か、女川か、、、。

とにかく広範囲に及ぶことと、これまで知名度が低い地域のことゆえ、地域的なことや産業を含めて、ご存知ない方が多いということです。

その中で「気仙沼の2つの造り酒屋」についてプレゼンさせて頂いたことは、わずかな時間ではありましたが、有意義であった気がします。

お食事を頂きながらも、質問をたくさん頂戴しました。
私どもは、語り部になって、現状を(草の根ではありますけれど)語り継いでいくことも大事だと思った次第です。

3.11その時、弟は…

あの大地震の時はどうしていたの?
弟から聞いた話。忘れぬうちに書き留めておきましょう。

弟がいる避難所付近で、「俺の命の恩人はあの人」という人を見かけました。
エ? 命の恩人って、それ、どういうこと?

弟は、マルキの魚市場前の工場で働いていました。
地震の後に、従業員さんを避難させます。

それから魚町の実家に母を救助に行くも、母は留守。

留守を確認した後は、内ノ脇の自分の家を見回りに。
そちらも留守。

留守を確認すると、なぜか工場に戻る(津波警報が出ていたら、戻ってはいけないのです。しかし、戻った)。

工場の1階には、あわてて逃げたために、出しっぱなしになっていたフォークリフトを、このままでは流されるかもしれないと思って、少し高い位置に移動(こんな事をしていてはいけないのです。津波にのまれます)。

それから車に乗って避難しようとするも、大渋滞で車は動かず。

やっとの思いで、南気仙沼駅近くを走行中、前方に血相を変えて誘導している人の姿が見えたそうです(これが命の恩人さんです)。

そのあわてっぷりに、これはただ事ではない?と思い、車から降りて、ふと海の方に目をやると、

そこには、波ではなく、家がこちらに向かって移動しているのが見えた!そうです。

それで大慌てで、誘導された方向に向かって猛ダッシュ。
ヨシダビルに逃げ込んだそうです。

弟の車の前にも後にも、たくさんの車が並んでいたそうですが、ヨシダビルの階段を猛ダッシュで駆け上がった時、弟の後ろには、誰も人がいなかったそうです。

そうして、ヨシダビルの上の方で、2日間、孤立状態で過ごしていたというわけです。

弟の話を聞くと、2つも3つもやっては行けない事をしていて、一歩間違えたら、完全に・・・。

しかも、その日の晩は、まわりが大火災で、火の海の中のビル内に孤立。
寒さと恐怖と空腹で、とにかく辛かったと言っていますが、

聞いてるこちらが鳥肌が立ってくるようです。

ヨシダビルは飲食店が入ったビルですが、夜のお店がほとんどのため、日中はお店に鍵がかかっていて中に入れなかったようです。

ちなみに、フジテレビで「弟らしき人影」が映っていた話をしましたが、それはよく似た別人だったそうです。救助が来ないが、あまりの寒さで、交代で1人ずつ屋上にあがって、ヘリに手を振っていたそうです。

ヘリは、身体が不自由な方優先に救助をしていたので、ヨシダビルに避難した人達は、2日目の夕方、自力で脱出したとのことでした。

無事で良かった。

ということで、弟の所持品は、ポケットに入っていた携帯電話のみでした。

3.11その時、母は…

あの3.11を経験した誰もが、とてつもない物語を持っている!
そのように被災地の友人キーチ君が表現しています。

忘れぬうちに書いておきます。
ところどころ、思い違いがあるかもしれないから、それは後で直しましょう。
私が聞いた話。

その時、母は、、、
なんと呑気な事に、お茶のお稽古をしていた。

お稽古をしている最中にあの大きな地震。
急遽、お稽古は中止となり、どなたかの車で送ってもらったそうだ。

ところが、なぜか、よくわからないけれど、七十七銀行の前で車を降りている。

それはまさに、ここです。
上側に見える白い建物が七十七銀行。

それから母は、道路の右側を魚町の自宅に向かって歩き始めたそうです。
(それは海に向かって歩いていることを意味します)

大内薬局の前辺りで、ご近所の齋民さんの車が来て、あっちは危ないからと車に乗せて頂き、そのまま紫さんの坂を上がったそうです。

画面に向かって、左側が海、右側は高台に通じます。
波は、左からドンドン右に向かって流れています。しかも早い。
歩いていたら、波にのまれたでしょう。

気仙沼小学校近くの齋民さんの息子さんのお宅に避難。
そちらの2階で、齋民さんは、ご自分のお宅がなくなってしまった事を見ていたそうです。
私の実家は藤田屋さんのかげで見えなかったと言っています。

齋民さんの車に出会わなければ、どうなっていたでしょう。
かなりの確率で、助からなかったろうと思うとゾっとします。
命の恩人です。

そういう事で母の所持品は、呑気な事に、お茶のお稽古道具だけでした。

避難所のトイレ事情

私の家族(母と弟一家)は気仙沼中学校で避難所生活をしています。

避難所間格差があり、全ての避難所が同じではありません。
これはある避難所の、ほんの一例です。
(これは2011年4月3日現在の状況で、日々変化しています)

避難所にお住まいの方は、あまり状況を伝えて欲しくない方もいらっしゃると思います。
読まれます方も、どうか、あまり大げさに取り上げないで下さいね。
今日はトイレのお話です。

   *     *     *     *     *

平成の時代、トイレは進化しました。

便座は暖かい。
ウォシュレットがついているし、
立ち上がれば自動で水が流れる。

そんな時代に生きていると、昭和の時代のボットン便所は恐いです。
昔はみながそういうところで用をたしていたのにね。

河北新報によりますと「東日本大震災で津波に襲われた宮城県の石巻、東松島両市と女川町にある避難所のうち約4割で、トイレの汚物処理が十分にできず、衛生状態が悪化していることが31日、石巻赤十字病院などの調査で分かった。」そうです。

私がその事を知ったのは、つい数日前のこと。
4/1に気仙沼に向かった時には、そういった事情を知る由もなく。

気仙沼中学校の避難所では、電気がついて水道も出るようになったと聞いていましたから、トイレも学校のものを利用しているものと思っていました。

しかしながら実際には、外の仮設トイレを利用しています。
マラソン大会で利用させて頂いている、あの仮設トイレです。

下水道の整備がまだ不十分かもしれないし、あれだけの人数が使ったら、それこそあふれてしまうのかもしれません。

外にあるので、トイレに行くために上着を着用。
仮設トイレには電気がついてないので、夜は懐中電灯を持って行きます。

懐中電灯はお部屋に一つずつ支給されていますが、人数が多い部屋は一つでは足りないでしょう。

特に母の部屋は年寄りが多く、夜中にトイレに行く人が結構いますから、そういう配慮があって、1階のトイレに近い部屋を用意して頂いています。

気仙沼中学校の仮設トイレは比較的新しいものでした。
私はマラソン大会でよく利用していますが、ここを初めて使う皆さんには、
いやぁ参ったなぁという感じでしょうか。

気仙沼中学校のトイレでは、使用した紙はビニール袋に捨てています。
富士山もそのようにするのだそうです。

そんな事もあって、母のお部屋のご婦人は、なるたけトイレに行かないで済むようにと水分を摂らずにいて、数名が脱水症状で救急車で運ばれたそうです。

また、外に出る時に、ちょっとした敷居をまたぎます。
若い人には何ともない敷居ですが、私が見ている間にも、数名の方がつまづいていました。

母は目が不自由になってしまったので、事のほか、その敷居が恐いようです。
これもまた母のお部屋の方ですが、そこで転んで、膝のお皿を割ってしまって、救急車で運ばれたそうです。

元気な人でも、なにしろ平成の立派なトイレからそのような状況になっていますから、辛いものがあります。
弟の嫁もお医者で下剤を処方して頂いたようです。
私も、ここにずっと居たら同じだったでしょう。

私が行く数日前に、「夜間につき、年寄りと具合が悪い人は、学校のトイレの利用が許可された」ようですが、日中は仮設トイレを利用します。

気仙沼中学校では、男性用と女性用を分けて使っていました。
ドアの前に張り紙がしてあります。
ほとんどが和式ですが、洋式が男女1つずつありました。

お年寄りの方に足が悪い方が多くて、狭くて暗い和式の仮設トイレは本当に大変です。
若い方は、お年寄りに洋式トイレの利用を譲っていました。

トイレ掃除は、部屋ごとに交代で行っていました。
班長会議で日程が決められて、お部屋に通達が来ます。

全員でトイレ掃除をしますから、皆さんがきれいに使おうと協力し合ってるようです。

トイレから出たところに「消毒薬」が置いてあって、必ず消毒します。
感染症にならないようにと、運営の方が力を入れてくださっています。

私が泊めて頂いた気仙沼の友人のお宅では、普通にトイレが使えるので、天国のような心地がしました。

いま、東京にいても、トイレに入るたびに、避難所の皆さんのお気持ちを思わずにはいられません。

早く普通のトイレが使えるようになるといいですね。

避難所の弟一家の暮らし

私の家族(母と弟一家)は気仙沼中学校で避難所生活をしています。

避難所間格差があり、全ての避難所が同じではありません。
これはある避難所の、ほんの一例です。
(これは2011年4月3日現在の状況で、日々変化しています)

避難所にお住まいの方は、あまり状況を伝えて欲しくない方もいらっしゃると思います。
読まれます方も、どうか、あまり大げさに取り上げないで下さいね。

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母の部屋の次に、弟一家が住む3階の教室を訪ねました。
すると、母の部屋とは異なる空気がありました。

まず、母の部屋よりも人が少ない。
こちらはその時点で20名ほどです。

それは、アパートを見つけたり、親戚に行くなどして、人が減ったからだそうです。

ただ、ほかの避難所を閉鎖する関係で、こちらに受け入れ要請が来ていましたから、またすぐに30名程度にはなるそうです。

どうして母の部屋は人数が多いのか聞いてみますと、
仮設トイレが外にあり、身体が不自由であったり、老人の方は1階にという配慮があるそうです。それでそういう人が多いため、母の住むA室はとても人が多いのです。

弟一家は健康で若いですから、1階から3階を行ったり来たりしています。

お隣は、ペットのいる部屋です。
避難所の多くがペット禁止のようですが、気仙沼中学校は珍しくペット同伴の部屋があります。ただし、小型犬だけのようです。

たびたび余震がありますが、地震のたびに犬が、
ワオーーー!ワンワンワンワンワンワン!とおたけびを上げます。

日中は良いですが、夜中にはさぞや騒々しいでしょうと聞きますと、

「人間が地震になれるように、ペットもなれてきたみたいで、前よりはおとなしい」と弟は言っています。

それでも、一斉に犬が吠えますから、こちらに元気な人が多いのは頷けます。

飼い主さんはワンちゃんを隠すように抱きかかえて、廊下を歩いていました。申し訳ない気持ちがその姿から伝わります。私にも犬がおりますので、飼い主さんのお気持ちがわかります。

母の部屋よりは、はるかにゆったり過ごしている弟達のスペースですが、それでも一人の空間は、敷き布団1つというわけにはいきません。3人で2つ分程度でしょうか。2つにも満たないでしょうか。敷き布団がないので、計ることは出来ませんが、そういった所で寝ています。そして、同じところで食事をしています。

こちらの部屋は、ほとんどが弁天町の方のようです。
なるたけ同じ町内の方が集まるようにといった配慮もなされています。
弟は内ノ脇の住所です。

母は魚町に一人暮らしをしていました。
魚町の多くは陣山の「第2保育所」に避難しているようです。

母は弟を頼って、別の町内の方が多くいる気仙沼中学校にいるわけでして、また、身体が不自由な方が多いA室は、ご町内関係なく集められているため、見ず知らずの方が多いのです。

それでも1ヶ月近くも寝食を共にしますと、親戚のような感じになっていました。

弟の部屋では、未成年は甥の2人だけで、次に若いのが弟夫妻、その上が50歳代が一人、あとは全員60歳代、70歳代でしょうか。避難所も高齢化しています。

ご夫妻一緒に、あるいは母と息子さんという方もいます。
家族が一緒なので、それも手伝ってか、明るい雰囲気がありました。

とても良い方ばかりで、お部屋のルールを決めて、辛い中にも楽しい暮らしを模索しています。班長さんがとても良い方で、そういった事も影響しているのでしょう。

このたび甥達が疎開すると言いましたら、お餞別にと皆さんが、甥にパンとおにぎりを持たせてくださいました。皆さんが食べる分を分けてくださったのです。

ありがたいです。
元気で帰って来るんだよ〜と送り出してくださいました。
なんだか、みんなが親戚のようです。

母が「私一人では、絶対に東京には行かない!」と言った理由のようなものが見えた気がしました。