東京都のイチョウ

東京に住んでいると、ああ、東京都の木はイチョウだなぁと思います。

私が住んでいるところは近くに青梅街道があり、この街道沿いにもイチョウの木。
それが今、いっせいに落ち葉になって、こんな感じで歩道に敷き詰められます。
2012_1219_01

千駄ヶ谷や神宮外苑にもいちょうの木があります。
甲州街道も見事ないちょう並木ですよね。

どういった都市計画の時に、ここにいちょうを植えることになったのか?
東京では、沿道の落ち葉は誰が掃除するしくみになっているのか?
ご存知の方がいらしたら教えてください。

気仙沼には、このような並木道がほとんどありません。
復興で道路拡張を計画しているところもあるようです。

出来れば樹木を植えて欲しいと思っていますが、そのためには地権者から道路をゆずられなければならないでしょうし、落ち葉は誰が掃除するのかという問題もあるかもしれません。都市計画には何年も何十年もかかると思いますが、ここでシッカリと計画して欲しいものと思います。

国際都市おおたシンポジウム 未来へ躍動する「国際都市おおた」

国際都市おおたシンポジウム 未来へ躍動する「国際都市おおた」に参加しました。
場所は、大田区産業プラザ。
18時半開始。ちょっと遅れての参加となりました。

第1部は、先日訪れた小布施のセーラ・マリ・カミングスさん。
会場内は撮影禁止で写真はありませんが、セーラさん、今日はピシっとスーツを着ていてカッコ良いです。

講演の中には、ワクワクするようなキーワードがたくさんありました。

「今の日本も良くないと言われていますが、日本は悪い時に伸びていると思うのです。私もそうです。景気の良い時代だったら無理だったと思う小ロットのものも対応してくださったのは、こういう時代だからだと思っています」って、この方は本当に前向きで頭が下がります。

前回の小布施ッションもそうでしたが、「小布施ッションの参加者、半分は小布施の人、半分は外の人、最近では外国の方も1割程度参加しています」

外国の方にもわかるようにと、同時通訳をしてくださる方がいるそうです。私が参加した時は同時通訳の人の都合が悪くて、セーラさんが通訳をされていました。

小さな町の小さな集まりに同時通訳をかって出る人がいるってすごいことですわ。

第2部はパネルディスカッション。
内容は、大田区の魅力を再発見する機会となったとともに、大田区以外にも応用出来るであろう観光の事が話されていて参考になりました。

渋谷センター街を例にあげて、そこの町づくりでは、「俺たちの町は俺たちが守る」と言ってらしたそうで、印象的な言葉です。

同じ道を通る時に「行き」よりも「帰り」に寄ってもらうことを考えるというのも参考になりました。

「帰り」の印象の方が、あとあとまで残るものかもしれません。

羽田空港が国際空港となったことを機に、国際都市に向かおうとする大田区。
大田区は70万人もの人が暮らすそうです。
気仙沼は、その規模とは皮革にならぬほど小さいけれど、「ワクワク感を求めて活動する気持ちは一緒」だと思います。今日はありがとうございました。

ATHLEQUE(アスリーク)の facebookページ

facebookをされている皆様、テレパス化粧品が発売を始めた「ATHLEQUE(アスリーク)」という日焼け止めクリームの facebookページが出来ました。

こちらに毎日、ランナーコメントを書くことになりました。
と言っても・・・毎日、走ってるわけでもなく、どうしたものか。

よろしければ「いいね!」ボタンを押して、応援してくださると嬉しいです。
どうぞ、宜しくお願いいたします。

「ATHLEQUE(アスリーク)の facebookページ」

堤監督、ありがとうございます!

自虐の詩」の映画は、2007年に公開されました。
堤幸彦監督。

主人公が気仙沼出身という設定で気仙沼がロケ地になりました。
いまはなくなってしまった町並みがDVDには納められています。

震災後にも堤監督は何度も気仙沼に支援に行ってくださり、ドキュメンタリーも撮られています。

そのお礼を伝えたいと、日々思っていました。

それが本日かなったのであります!!!

皇居ランに向かってる途中、警視庁のビルの前あたりで撮影していました。
ちょうど信号待ちをしながら「ドラマかな?いや、ドラマにしては大掛かりだから映画だね」なんてダンナと話していて、見ると、監督椅子に座って画面を見ているのは、オオ!堤監督ではありませんか。

信号が青になっても、そのままそちらを見てました。
「堤監督・・・かもしれない」とボソボソ話していると、撮影が終了したようで、堤監督が椅子から立ち上がりました。

ダンナが「声を掛けてみようよ」とか。
「いいよ、迷惑だもの」と私。

それでも動かずにそちらを見ていると、なななな・なんと!
監督がこちらに向かって歩いてくるではありませんか。

ダンナが声をかけようと言いますが、躊躇する私。
と思ってる間にダンナはスルスルと近寄って、
「あのう、堤監督でしょうか?」
「ハイ」(ちょっと迷惑そうな顔)
「妻が気仙沼の出身で、お礼を言いたくて」
(監督の表情がパッと変わりました)

私がズズズイっと出て行って
「監督、自虐の詩、ありがとうごあいます。私、DVDも持っていて何度も見ています」と伝えると、

監督は「あの後、何回か気仙沼に行きましてね」
「ハイ、ハイ」と私。
「ドキュメンタリー映画もとりまして」
「ハイ!」と私。
「もう1本撮ってるんですよ」
「ありがとうございます!」と私。
「ずっとお礼を言いたかったのです。本当にありがとうございます」

私達のランの出で立ちを見て、監督は、
「ころばないように気をつけて」とハイ(私、涙目ですよ)

そうして握手をして頂いて、監督は立ち去りました。
日曜の朝の出来事でございます。

堤監督、本当にありがとうございます。

小布施をあとにして…

昨晩は長野駅前のビジネスホテルに泊まりました。
朝はゆっくりで良かったのに、テンションが上がっているのでしょうね、早くから目がさめまして、ゆっくり朝食。そうして、長野駅周辺をブラブラ歩いてみました。

小布施は「小布施の特徴を出す」という町づくりをしているのに対して、日本の多くの町は「どこにでもある感じ」ですよね。

ここが長野であるということは「善光寺」の看板を見ればわかるけれど、全国のチェーン店を見るにつけ、ここがどこかわからない。

地方都市はそれでもいいけれど、気仙沼のような小さな町はそれにならっていてはいけないのだと思った次第です。
気仙沼は漁港です。
漁港らしさを町全体に出すには?
そういった建物をデザインするには?

魚町は震災でほとんどの家がなくなりました。
再開発するなら、いまがチャンス。
私自身がもう少し勉強して、それでも猶予はないのだから、早めに魚町の人達と一緒に再建したいと思っているのです。
本当に微力ですけれど。

小布施見に旅行!

被災してしまった「気仙沼の町づくり」、私なんぞがドーノコーノ言ってもしょうがないのですが、なかなか進みません。

私の実家があった魚町の計画も、具体的なものは見えて来ません。
本当に気のもめるものです。

「どうにかしたい、どうにかしたい」と話していたら、知人が「オヤマさん、小布施の町づくりが参考になりますよ」と話してくださいました。

セーラが町にやってきた」という本を読み、

これは行ってみよう!と思いまして、飲み会の時にそんな話をしていたら、その時ご一緒した知人も「一緒に行く」と言ってくださり、期せずして3人のミニ旅行となりました。

私は、夜の「小布施ッション」も参加するので泊まりますが、お忙しいお2人は日帰りです。

そこで、東京駅発7:24の長野新幹線「あさま」に乗って出発!

長野駅で「長野電鉄」の乗り換えます。
特急に乗って「小布施」で下車。

「小布施」は日曜に降った雪が残っていました。

ぶらぶら歩いていますと「皇太神社」です。

郵便局の看板にも木材を使っています。
やっぱ、こういう事なんだなぁ。

長野で一番大きい「八十二銀行」や地元の「信用金庫」も、外観からは銀行だとは思えない木造り。町全体が「小布施をこうしたい」と言ってる感じです。

こちらは、その立役者でもある「小布施堂」さん。
栗のお菓子を販売しています。あとからまた参ります。

「高井鴻山記念館」
葛飾北斎を招いたのが高井鴻山。
高井鴻山は小布施堂、桝一市村酒造場を経営する市村家の12代当主。

そのお屋敷は、火災によって多くを消失してしまったそうですが、いくつか残った建物をこちらに移築したようです。

この建物は当時のままに残されているそうです。
よくぞ残りましたね。すごいことです。

当時のものが、そのままあります。すごいね。

こちらのお琴のような楽器は1本だけ弦が張ってあって、その前に置いてある楽譜のようなモノの通りに、弦をはじいてみると、「さくら」を弾くことが出来ました。
普通にさわらせてくださっています。

高井鴻山は葛飾北斎のために「碧漪軒(へきいけん)」を提供したそうです。
その場所がどこであったか不明だということですが、こちらに当時のままに移築されました。

高井鴻山記念館の建物を出ますと路上に昔の郵便ポストがあります。
この形は愛らしいですよね。雪をかぶった姿がまた良いです。
効率化を考えると今の方がいいのでしょうけれど。

土産物店が並んでいる一角がありました。
平日というのに、団体さんがいらしてました。
冬の平日に観光客がいらしているなんて、田舎にとってはうらやましい限りです。

こちらは「どんこ」というものだそうです。
右側に見えますか?椎茸のお化けみたいな大きさのもの。
それを30時間水につけてもどして、砂糖と醤油と、戻した時の水で煮込んだのがこちら。
美味しいですね。ドレドレ、お土産に買いましょう。

あちらに見えるのは「桝一客殿」という宿です。宿には見えませんよね。すごい。

ランチは「蔵部(くらぶ)」を予約してくださいました。
文字通りに「蔵」を改造してレストランにしたもの。

3人で別々のメニューを頼んで、シェアしました。美味しいです!

昼間っから(^ー^)、「スクエア・ワン」というお酒を。

お店の方のいでたちは、こんな感じ。

知人がセーラさんにアポイントを取ってくださっていて、席にいらっしゃいました。

席にいらっしゃるや、パワーがすごい。
いま「農業」を始めていて、これからの計画は「こうでああで」、それには「こういう事が足りないのです」と始まりました。
知人達が「ああ、それなら、こうしてはどうか」とアドバイスすると、パっと顔が輝いて、「それなら出来るかもしれない」と。

小さなチャンスも逃さないのですね。すごいなぁ。
でも、声はかわいらしいし、女性としてもかわいい方です。それなのに、次から次に「計画」が出てくるのは、この人の「創造力」「実行力」の大きさ。
忙しいセーラさんの携帯電話はしょっちゅう鳴っていました。

セーラさんに別れを告げて、「北斎館」に参りました。
小布施の町づくりが始まったのは昭和51年に、この「北斎館」を作ったことから始まったそうです。写真を撮るのも忘れて見てました。

北斎が80歳を過ぎてから描いたという「神輿の天井画」などが展示されていて、その存在感に圧倒されました。

北斎館から出て、ちょっと遠いけれど「岩松院」にも行きましょう!
訪れてみて知ったのは、このお寺は福島正則公の菩提寺だということです。

こちらのお寺の天井に北斎の天井絵「大鳳凰図」があるのです。

この絵が実に力強く、私はこの旅で最も印象に残りました。
これを描いた時の北斎の年齢は89歳。
圧巻。
パワー頂きました。

このお寺への往復は歩いて行きました。あっちにブラブラ、こっちにブラブラで片道30分くらいかかったでしょうか。車でサーっと行ってしまっては気がつかない空気感というものを存分に堪能しました。

駅に隣接して観光案内とともに、ちょっとお茶を飲むところがあります。
こういうのを気仙沼駅近くにも作りたいものです。
駅隣のトイレも快適なもので、便座は暖かくしてありました。気仙沼が観光に力を入れるのであれば、私は、まずは「トイレの整備だ!」とずっと言い続けております。これは特にご年配のご婦人にとっては大切なもの。

今回、ご一緒いただいたお2人を駅で送りまして、私はまた小布施堂に戻りました。
もう一つの目的「小布施ッション」に参加するためです。

小布施堂の工場の3Fの会議室で、本日の小布施ッションがあります。
毎月ぞろ目の日に開催されているそうで、平日でどのくらいの人が参加するのでしょう?と思いながら参りますと満席です。小布施以外から参加される方が多いそうです。

本日の講師を紹介するセーラさん。

講師は内藤耕さん。
ホテル・旅館を例にして、「これからいくらでも生産性を上げられる」という力強いお話。
私の会社の人達にも聞かせてあげたい、元気が出る内容でした。

その後は懇親会というかパーティです。
ウェルカムドリンクは卵酒。

次から次に運ばれるお料理は本当に美味しい。

お酒は桝一酒造さんのもの、お料理は蔵部で作られたのでしょうね。

美味しいお料理を食べながら、色々な方とお話をしました。
気仙沼唐桑町に「Tシャツのアート」の支援をしてくださった方もいらっしゃいました。

小布施堂の社長さんは震災前に気仙沼を訪れたことがあるそうで、皆さんがお元気かと心配されていました。
気仙沼の寿司店「たに口」のダンナさんが長野県出身というご縁からどうで、
「あら、奥様は私と同級生なんですよ」と話すと驚かれてました。
そんなお話を食べながら、飲みながら。

講師の内藤さんともお話をさせて頂きました。
内藤さんも「気仙沼に行きましたよ」と。
その後、気仙沼に関する辛口コメントをたくさん頂きました。

逆に言うと、それらを改善していくことで、良い町が出来るものと思ったところです。
気仙沼は、その辛口コメントを真摯に受け止め、改善していくことが必要ではないでしょうか。

ある方に「小布施はどうして町づくりに成功しているのでしょうか?」とたずねると、
「外の人とつながったこと」と話されました。
「小布施の人が、こうしたいという骨子を考え、その手段として外の意見を取り入れていったこと、そうして、それは今も続いているんですよ」と。

お名刺を交換した方の何人かは小布施にお生まれではないけれど、ここが気に入って住んでいますと。外からの人をちゃんとお迎えする土壌があるのですね。

あっという間に22時を過ぎました。
長野電鉄・長野行きの最終は22時半。
2次会は遠慮して、長野に行く方々と一緒に駅まで歩きました。

路面は凍り始めていてすべりますから、おそるおそる歩を進めます。
たくさんのパワーを頂きました。
気仙沼に役立てたいことがたくさんあります。

皆様、本当にありがとうございました。

吉例:テレパス忘年会2012

本日のお店は「八吉」さん。
お料理も美味しく頂きまして、

私の大事な仕事があります。
「社長賞」の贈呈。

テレパスは零細企業ながら皆が頑張っています。
その努力がわかっているだけに、たった一人を選ぶというのはとても難しい作業。

でも心を鬼にして、たった一人を選びました。おめでとうございます。
今年からは新たに「取締役賞」と「執行役員賞」が出来ました。
私とは別の視点で賞が贈られ、良い結果になったと思います。

惜しくも選ばれなかった皆様、僅差ですよ。
来年はジャンプしてくださいね。

2次会は歌う・歌う(^ー^)。

訃報:十八代目 中村勘三郎

朝、NHKのニュース番組を見ていたら、突然「中村勘三郎さんが亡くなりました」

エ? ウソ・・・

TVにはお元気な頃の姿。
それを確かに目が追っているが、心が付いていってない。

何?
いま何を言ってるの?

しばらくして、たしかに勘三郎が亡くなったことを理解した。
57歳。

来年の新しい歌舞伎座には見に行こう、それまでには元気になっているだろうと思っていた矢先のこと。
今年の浅草、ダンナを連れて見に行こうかと話していたのだが、私が震災後のショックから立ち直れずにいて、まだ歌舞伎を見る気分になれない。来年、新しい歌舞伎座で見ようと話していた。

TVのチャンネルを変えると、勘三郎の家の前から中継されている。
このお宅は新築されて間もないが、私は前のお家の時に家の前まで行ったことがあるのです。

私は十七代目勘三郎のファンでした。
一度、そのお宅を見てみたいという衝動にかられて、住所は番地までは知らないのです。
「小日向」という町名を知ったので、あとは「波野」というお名前は珍しいから表札が出ていればわかるかな?と思って。結局、表札が出ていたかどうかは忘れましたが、きっと出ていたのでしょう。「ここだ!」と見つけて小躍りしたことを覚えています。

そのお宅を建て替えるというのはフジテレビの特番で見てました。
新しいお宅になってから勘三郎が暮らした時間はわずかだったでしょうが、4世帯で暮らすというのは現在では珍しいこと。

皆さんから愛されて、芝居の道を駆け抜けた勘三郎さん(私の中では今も勘九郎さん)ご冥福をお祈りします。

新中野「イル ヴェッキオ ムリーノ」

新中野で美味しいイタリアンのお店「イル ヴェッキオ ムリーノ」で食事して来ました。
母が東京に避難していた時にも一緒に行きましたね。

ナプキン

ワタリガニのトマトクリームパスタ、美味しい!

魚介のグリル盛合わせ、美味しい!(^ー^)