気仙沼の後輩からメールを頂きました。
ありがとうございます!
とても嬉しいです。
鼎が浦高校(現・気仙沼高校)の硬式テニス部では私の2つ下の後輩です。
それより以前に、櫻井音楽教室で一緒にピアノを習っていたので、小さい頃から存じています。
櫻井孝子先生は、この津波でお亡くなりになりました。
先生は、とても厳しくて、友達のスダなんか「首になったよ」なんて言ってるくらいで、小さな子供相手にやる気のない人は「来なくていい」という方針でした。
私は、物心ついた時には、もう教室に通っていたので、おそらくは3歳か4歳で習い始めたのだろうと思います。
母の実家が弁天町にあり、母方の祖母が送り迎えをしてくれたおかげで通い続けることが出来ました。
発表会の時には、ピアノの練習はもちろんですが、お辞儀を丁寧に指導されます。
名前を呼ばれて、ステージにあがって、ピアノにたどりつき、そしてキチンとお辞儀する。こういう事にも手を抜かない先生でした。そのおかげで、私は社会に出た後に、面接等で大変助かったわけですが。
その厳しさの中で指導を受けた門下生は、この津波で先生が亡くなったことに心を痛めています。
私は中学2年の秋にピアノ教室を辞めてしまいました。
バスケ部に入って、突き指がたえず、先生から「ピアノかバスケか」と言われた時に、おもしろくなってきたバスケを選択してしまったのです。
もっとも、その少し前から、先生から「音大に行くのか・行かないのか」と進路を聞かれていたし、私の手は小さくて、ピアノも上手くないし、ソルフェージュも苦手だった。音感が悪いんですね。だから、私なりに悩んでいたわけだ。
その決断をした夜を今もハッキリ覚えていて、私は泣きながら、その時の課題曲を弾いていました。このように、ただピアノを弾いていたいだけなのにと。
ピアノを選択していたら、もしかしたらピアノ科に進んだかもしれないけれど、私は内気でおとなしい子でしたから、その道を進んでいたら、とても会社経営にはたどり着かなかったろうと思います。
しかしながら、心のどこかでいつも、その選択があったかな?と思ったりして。
先生は、本当は声楽が専門でした。
先生が歌う「ペチカ」が好きです。
来年の、その日に、気仙沼のどこかで先生を偲ぶ会を開きたいなと、そっと思っています。
ともに教室に通っていたミキちゃんに連絡がつくかしら?