実家から出てきた写真を、叔父さん、叔母さんに届けに行くことにしました。
私の実家はかろうじて、わずかなものを持ち出すことが出来ましたが、潮見町と本浜町の親戚の家は、すべてが流されて何もありません。内ノ脇の弟の家は火災で全焼でした。
そこで、実家から出て来た写真が少しでもなぐさみになればと思います。
タクシーで叔父の仮住まいに向かおうとして、はて、何と住所を言っていいのやら。たまたまタクシーの運転手さんが家主の親戚だそうで、連れて行って頂きました。
みなが仮住まいのため、居場所を覚えられませぬ。
次のために、ちゃんと覚えておきましょうゾ。
おんちゃんも元気そうで、なによりです。
しかしながら、気仙沼の将来のことをとても心配しています。
雇用を安定させなければ、人の流出が止まらない。
一日も早く、水産加工業を復活させなければ、雇用出来ない。
叔父なりの復活案があり、あちこちで話しているようですが、どうにも進まないことに苛立ちを覚えます。
鹿折の叔母の実家の帰り道、GWには立ち入り禁止区域だった鹿折、錦町にはマルキの工場があるので、歩いて行ってみることにしました。
車が通ると言っても、砂利でかさ上げしていますから、車が通るたびに土煙がモウモウと立ちこめます。臭いもきついし、あちこちでカラスが何かをあさっていて、不気味です。
ガレキの山は、いまだに生々しく、そして打ち上げられた船もそのまま残っています。
それでもGWには立ち入り禁止だったことを考えると、道路はかさ上げされて車が通れるようになっているし、だいぶマシなのでしょうか。
火災が最もひどかった地域でもあり、漁船が家をなぎ倒した地域でもあり、それゆえ、家屋が何もなくなっているか、残っていても火災で真っ黒に焼けこげているか、大惨事の状況が色濃く残ります。4ヶ月が経ってもこの状態でしたか。
町じゅう全てが全壊で、どこにも住んでる家屋はありません。
私の実家の魚町には数軒が戻って生活していることを思うと、鹿折地区の状況のひどさには言葉を失います。
そんな中に、マルキの工場がありました。
よく、ここに残ってましたなぁ〜。
まわりはガレキですのに、本当に奇跡的に、被災しながらも建物が残っていました。
この屋根の上で、従兄弟と叔母ちゃんが、他の従業員さとともに一夜を過ごしたのです。他にも流れてくる人を助けて屋根に乗せたそうです。
なんぼ、おっかながったべ。
鹿折の亡くなった叔父さんが、一生懸命に働いたこの場所。
その魂が、叔母ちゃんと息子を助けたのかな。
ここから魚町はすぐ近くなのに、道路が遮断されているから、グルっとまわって、やっとのことで、おしめさん(神社)の裏手に出ました。
この神社は、祖父も父も大好きだった場所。
浮見堂から続いて出来ていた橋はくずれ落ちていました。
母はここで毎朝、皆さんと一緒にラジオ体操をして、散歩をしながらゴミ拾いをしていた場所です。母もショックを受けています。
そして、全壊してスカスカになってしまった魚町に参りました。
オヤマ家の跡地は、更地になったら、あれれ、こんなに狭かったっけ?
お隣も、そのまたお隣も更地です。
なんだか、ガラーンとしてしまったわが町。
そんな中でも、掃除をして住み始めた家が数軒ありました。
夕方になると冠水するようですから、さぞや大変な暮らしでしょう。
それでも、一歩一歩と前に向かって歩いています。