亡き父の誕生日

父は生きていれば72歳。天皇陛下と同じ年。

いつものジョギングコースを2周した。
一部、近道したから、きっちり2周ではないが、かなりヘトヘトになった。
身体は疲れたが、脳のどこかが爽快になり、クッキリした感じ。神経が参った時は肉体を鍛えるのがいいかも。

浅草・羽子板市

母と浅草・羽子板市に行く。

初日の朝一番なので羽子板がいっぱいある。「ステキねー」うっとりする母。

羽子板は、お店ごとに顔付きや着物の柄が異なる。見ていて飽きない。
今年は人気力士「朝青龍」や「琴欧州」が目をひく。
記念にと「高久」さんで小さな羽子板を買った。

日本橋三井タワー

たまたま出張で東京に来ていた弟と待ち合わせて、話題の「日本橋三井タワー」の「マンダリンオリエンタルホテル東京」に行ってみる。

いやはや、贅沢な作りですのー。37階から38階は吹き抜けになっている。天井が高くて、窓ガラスは贅沢にデカい。東京を一望出来るすばらしい眺め。

お茶しようと思ったがひどく混んでいて、37階のスタイリッシュな「マンダリンバー」のカウンター席でオレンジジュースを飲む。カウンター席しか空いてなかった。しばし、気仙沼弁でアーだコーだとくっちゃべる。

気仙沼に帰る弟と別れ、母と「三井記念美術館」に入る。
国宝やら重要文化財を見る。が….すみません。よくわかんない(苦笑)。

私達の近くを歩くご夫妻は茶道具などに造詣が深いようで、うんちくを語っているから、耳をそばだてて聞いてみる。ご夫妻は国宝の茶碗に興奮し、うっとりと見とれている。が、、、母と私は「どこがいいんだろう?」状態。母なんか「失敗したみたい」だって(笑)
(社員旅行でY君が作った「壺らしきもの」に似た)壺が置いてある。「うちの社員もこういうのを作った」と場違いなことを言っては母と笑う。こういうモンは、見る側が価値をわからなければ、いかんなー。

それにしても、三井家ってのはとんでもないお金持ちで、それを文化面でも貢献した豪商ということがわかる。江戸時代から今につながる点はすごい。高尚な気分にひたりつつ、三越本店でウィンドウショッピングをして帰る。

母と歌舞伎座(夜の部)

■恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)
福助とその長男・児太郎が、「実は親子」の役を務める。
「実はなんとか」ってのが歌舞伎に多い。「実はお姫さま」とか、「実は兄弟」とか。
ありえねー設定ではあるが、そこが歌舞伎のおもしろさ。秘めたる思いをどう演ずるかが見もの。そうして、これを本物の親子が演ずるのは見る側も内面を想像するというおもしろさがある。
児太郎・好演で、先が楽しみだわのー。

■船辨慶(ふなべんけい)
ご贔屓・玉三郎の静御前がよい。二役の平知盛の亡霊が凛々しい。贔屓ですからね。文句なしよ(笑)
能の要素を取り入れて、それでいて歌舞伎らしさを損なわない点がこの演目のおもしろいところだと思う。

■松浦の太鼓(まつうらのたいこ)
12月らしく、赤穂浪士の討ち入りのお話。
勘三郎の松浦の殿様役は実によい。勘三郎はこういう役柄(ちょっとひょうきんで、それでいて人間味あふれる役柄)はすばらしい。
久しぶりに見た橋之助もがんばっているのー。

平日だというのに、歌舞伎座は満席。母も楽しんだようで良かった。

母のポリープ

先月、叔父を亡くした後、母は市の「大腸がん検診」を受け、「再検査」と知らせが届いた。

叔父を大腸がんで亡くした直後だったので母のショックは大きく、何も手につかないまま1ヶ月が過ぎ、本日、再検査(内視鏡検査)を受けた。

結果は(子供達の予想通り)「悪性ではないポリープ」ということだ。

「癌」という病気を本人に告知する時代になったが、それとともに精神的なケアをどうするか考えないといけないと思う。
「大丈夫だって!」という母の声は、10代の娘のように、はしゃいでいた。いがったね。

気仙沼・屋号通り

わが実家がある気仙沼市魚町の「海岸通り」は数年前から「屋号通り」と呼ばれるようになった。

海に面したこの通りは、昔から漁業関係の商売をやっている家が多く、各家には目印として屋号が付いている。「屋号通り」の名をアピールするべく、今年からおそろいの紺ののれんを掛けることになった。私の家は「マルキ」なので、これ。

叔父の葬儀

叔父(母の弟)の葬儀のために昨日から気仙沼にいる。享年60歳は早かったなーと、若々しい同級生の皆様を見て思う。同級生のお話から、私どもが知らない叔父の顔を知る。

叔父は気仙沼中学校から仙台一高へ進学して気仙沼を離れた。中学では陸上部の短距離走で記録を残しつつ生徒会長を務め、仙台一高では応援団長を務めるなど、リーダー的存在だったようだ。

一浪の後、獨協大学に進学して間もなく、叔父の父親(私の祖父)を癌で亡くす。大学を中退。簿記一級の資格を2ヶ月で取得し、祖父の家業を継ぐが、技術のない20歳前の若者と職人さん達とではうまくいくはずもなく、家業をたたむことになる。

叔父は一部上場企業の若干名の募集に応募し、200倍とも言われた試験になぜか合格し、秋田に勤務。新婚生活を送る。仙台に転勤する頃には1男1女の子供に恵まれ、いろいろな資格試験に合格し、順調な人生に見えた。

ところが、何を思ったか子供が小学校に入学する年の3月に突然、退職して気仙沼に戻った。私の勝手な想像だが、高卒という学歴は、一部上場企業における自分の将来が見えてしまって、つまらなく感じたのではないだろうか?

気仙沼では簿記学校を作り、教え子達をみな簿記試験に合格させるなど良い成績をおさめたようだが、自分が教育者に向いているかどうか悩むこともあったのかもしれない。

そうこうするうちに、縁あって気仙沼の足利本店に入社し(簿記学校はたたんだ)、 退職する頃には取締役常務を務めた。田舎の同族企業において、外部の者が取締役になることは異例のことだと思う。

6年前の平成11年、家を建て直すことが決まり、母親(私の祖母)の部屋を一番いい場所にこしらえた。「ばあちゃん、良かったね」と周囲の皆さんから祝福されると祖母から満面の笑みがこぼれた。

その工事が始まった頃、癌という病気が発覚する。家族から「病気はあまり良くない」と聞いた。本人には伝えていないことも聞いた。叔父の父と弟、そして叔父の従姉妹が癌で亡くなっている。だから自分も癌になるのではないか?と気にしていたし、人一倍、健康に気を配っていたにも関わらず、癌になってしまった。数回にわたる手術。そして入退院を繰り返し、そのたびに、少しずつ痩せていく。

叔父が入退院を繰り返すたびに祖母は「これ以上、長生きしたくない」と言うようになった。そして、昨年、私の父の死から祖母は鬱病になったか?と思うほどガッカリし、その3ヶ月後にあっけなく亡くなってしまった。今年の6月末には、祖母の一周忌の法要を済ませたばかりである。叔父は最後まで親孝行だったなぁ。

入退院を繰り返す叔父は、3年前に自分の仕事を後輩にゆだねて足利本店を退職した後、「人生応援団」というキャッチコピーを付けて「行政書士事務所」を設立した。

真面目な仕事ぶりに少しずつ顧客がついて軌道に乗り始めたのに、病気は容赦なく悪化する。これから、という時に、これから奥さんと2人で第2の人生を歩くという時に。

亡くなる2週間ほど前、気仙沼に叔父を見舞った。点滴用のスタンドを引っ張ってスタスタとトイレに歩く叔父に、「前(その2週間前に肺炎を併発してしまった時)より良いように見える」と言うと、「そんなことはない。前とは全然違うんだ」と冷静に言った。そして私達はいつものように、「税金のこと」「最近、株価が上がってること」などを話した。

「さ、ではそろそろ帰ります」という私に「○○(自分の息子)をよろしく頼む」とそれを2度繰り返して言い、私が「わかりました」と言うと、安心して目をつぶった。その姿が今も目に焼き付いている。

叔父は、数日前から意識が朦朧とし、そのまま眠るように亡くなったと聞いた。

ご冥福をお祈りします。