母と東京見物2

「浜離宮(浜離宮恩賜庭園)」へ。一般300円、65歳以上は150円の入場料。

わお! 都会の真ん中にこんな森みたいなところがあったのね~。緑とビルの風景は、ニューヨークのセントラルパークみたい。

大きな池の中に「中島」があり、そこに渡るための「お伝い橋」は総檜造りらしい。御茶屋で抹茶をいただく。

その後は、お決まりの「銀座三越」でウィンドウショッピング。

母は「絶対・三越!」世代で、あたしなんざ「どこも同じじゃないの?」と思うけどサ。しかも、何も買わなかったりするのよ。信じられないッス。でもまぁ、当人はとても楽しそう。

横浜の弟一家と食事をし、東京国際フォーラムの「相田みつを美術館」を見る。

甥っ子、姪っ子のスピードとパワーに圧倒されっぱなし。スクスクと成長しているなぁ~。姪っ子2人はのヒラヒラワンピースを着せてもらって、お姫さま気分。男の子と女の子では、こんなに小さな頃から違うんだね。甥っ子は新幹線が大好き。

今回は車いすだった父がいないので、電車を利用して、かンなり・歩いたね~。ずっと元気でいてね。

母と東京見物

午前:(母の希望で)目黒雅叙園の見学コースに申し込んでいた。
こういうコースがある事を東京在住者は知らなくて、田舎モンの方が詳しかったりする。
百階段と昔のお部屋の見学と美味しいお料理がセットになったコース。

百階段と現存する部屋は「千と千尋の神隠し」で出てくる場の元にもなっているらしい。(私は「千と千尋の神隠し」に詳しくないので、どのシーンかよくわからないが)。
目黒雅叙園の成り立ちは興味深い。創業者は丁稚奉公から財をなしている。「日本で最初の結婚式場」とか「最初の貸衣装の導入」など、先見の明がすごい。

(写真撮影の許可を頂いています)

(目黒雅叙園の中は広くて、まるで外にいるような錯覚に陥る)

午後:靖国神社、「遊就館」を見学。

母の叔父2人が戦争で亡くなっている。海軍だった叔父と、ガダルカナル島で亡くなった叔父は、いずれもまだ20歳そこそこだったらしい。

「私たちは忘れない」という50分ものビデオ上映を見る。戦争は私たちの世代にきちんと伝えられていないと思う。日本史では、その頃をササっと読み飛ばして、詳しい事はわからないまま大人になってしまった。

(そんなところに)わ!・地震。
戦争の遺品などを見ている時に揺れると、何か恐ろしさも倍増で、「キャー」という悲鳴が館内に響いた。

九段下の駅に向かう途中、母が「千鳥が淵」を見たいというので歩く。そのまま半蔵門駅に向かう。
母は娘のように「初めて見るもの」に興味津々。遠足気分。

しかーし、地震の影響で電車が止まっていることに気づく。
タクシーもつかまらず、バスも来ない。
結局、九段下から半蔵門駅を通り、麹町を通り皇居に出て、そのまま銀座まで歩く!

皇居のまわりは、歩く人が大勢いて、遠足のような楽しさ。けど、ヘトヘトでした。

リアス・アーク美術館で「ぞうのババールの世界展」

気仙沼/リアス・アーク美術館で「ぞうのババールの世界展」を見る。

美術館内のカフェでお茶している時の写真を弟に送ってもらった。ありがと。

母と弟の嫁とよっちゃん。

母と甥っ子2人。

トモちゃんと私。

弟と私(宮登にて)。

母方の祖母の一周忌

(母方の)祖母の一周忌。
お墓参りの後は、南町の「やな川」で会食となった。

「やな川」の元は「古川家」という高級料亭だった。
高度成長期の良き時代に、叔父、叔母の結婚式は「古川家」で行われた。

弟の「さけたて(結納)」も古川家で行い、小姑の私は振り袖で列席した。あれが私の「古川家さんの最後の思い出」。11~12年前のこと。
その建物の一部をカウンターだけに直して、店名を「やな川」と変えた。

喪主と「やな川」の店長は同級生で、特別に部屋をお借りしての法要となった。品の良い器で頂くお料理は、繊細で、手が込んでいて、特別な気持ちになる。おいしい!

鯛のお吸い物は、(鰹節などはいっさい使わずに)鯛から出る出汁だけで取るそうで、あっさりしていて、それでいて出汁がよく出ていて旨い。鯛が魚の王様と言われるのがうなずける。

中庭を見る。井戸があって、小さなお社がある。昔、ここで繰り広げられた宴席の事が記憶の中で甦った。

おじさんち、おばさんち

おじさん宅、おばさん宅に土産を持って行く。ご無沙汰しております。

父の亡き後、社長を引継いだ叔父(父の弟・オヤマ家の次男)とゆっくり話をすると、経営者の先輩として有意義な話をしてもらった。

「叔父と姪」じゃなく「経営者同士」で話をするのは不思議な気分。みんなお商売が大好きなんだね。

弟の嫁の運転で唐桑のおばさん宅に行く。唐桑町は気仙沼市と合併する事が決まっている。

叔母は「一人暮らしの老人に昼食を運ぶボランティア」のお当番だった。合併後は、このボランティアがどうなるのかな?

気仙沼行き・切符の買い方

気仙沼行きの乗車券を買う時は、2通りの買い方があるので注意して欲しい。

一つは、東北新幹線・一ノ関で降り、大船渡線に乗り換える方法。

もう一つは、東北新幹線・仙台で降り、気仙沼線に乗り換える方法。

仙台経由の方が安いし、東京発15時過ぎのはやて24号を使うと4時間でいける!(部下達は「ゲッ4時間も!」と言うが、「4時間しか」と言ってくれ)。なるたけ気仙沼線を使って費用を浮かしたい。時間も節約したい。

気仙沼駅でこれを買う時は簡単で、すぐに話は通じる。「ツー」「カー」ってなもん。しかーし、東京で買う時は面倒だ。

「仙台からはどうやって行かれます?」
「気仙沼線です!」と聞くや、JRさんはタタタッと端末の上を指でなぞり、その後はガツっと時刻表をつかむ。

慣れた手つきで全国地図から気仙沼を探し出す。手際がよくて感心する。

おそらくはその目の前の端末の「仙台から気仙沼線」の文字が見当たらないのだろう。しばらく地図を見た後、「気仙沼線…………ですか?……………….???」とくる。

窓口のこっち側から手を伸ばして、その地図のココントコを指差したいが、いかんせん、距離があって届かない。

それでも、一生懸命、首と手を伸ばして、
「そこの仙台から、、、」「その仙石線を使って」「あ、でも、仙石線には乗り換えないのですが、」「あの「こごた駅」から」「あ、それそれ、小牛田は「こごた」って読むんですけど」「それからこっちの方に」「これこれ」「これが気仙沼線なんです」(汗)

(JR)「あ~~~、これ~~~」
「これです。別々の線に見えますが、たぶん、別の線ですが、乗り換えずに気仙沼に行けるのです」

JRさんは私の言葉を鵜呑みにするわけもなく、気仙沼線のページを表示して、地図とそれを何度も見比べる。その間も私がそっちから、「あーだのこーだの」とうるさい。

「(気仙沼弁で)おせでけっから(わたくしが教えて差し上げましょう)」と思ってるわけ。そんなこんなで非常に時間がかかる。

(新宿のみどりの窓口は混んでいるのに)私がその列を長くしているかと思うと恐縮しきり。

仙台から気仙沼に行く気仙沼線は一日に2本しかない。
仙台~小牛田駅は仙石線の線路を利用している。

だから、時刻表をしっかり見ないとわからない(ツーか、見てもわかんない)。これをインターネットでササっと予約出来たらいいのにな~(新幹線の予約は簡単なんですけどね)。

これを読んで恐れをなした方は、とりあえず仙台までの乗車券を買って新幹線に乗ってください。そうして、気仙沼線に乗り換えたら、その車内で残りを支払うのがよろしいかと思います。

母校の制服

高校のお友達と電話で話していて、「ところで、あの鼎の制服って、いつ出来たのでしょ?」ハイ、調べました。昭和28年4月~のようでごじゃる。

それから50年の長きにわたり、気仙沼地方の女子校の制服として愛されて今日にいたり、男子校との合併後も(校名はなくなったが)卒業生・在校生の願いのもとに制服は残った。

制服を作ってもらうための採寸、仮縫いのことは今も鮮明に覚えているから、乙女心にも華やいだひとときだったのね。遠い昔になりにけり・だワン。

気仙沼・廿一地区

地元・気仙沼は、結構、面積が広くて、よく知らない地域がたくさんある。
高校までの18年間しか住んでないので、行動範囲は魚町から旧・鼎ケ浦高校(母校)あたりまでだ(狭いッ)。

気仙沼には、廿一(にじゅういち)地区という美しい場所がある。本当に美しい。
その場所を携帯電話のカメラで撮っているのは「ぐるぐる堂日録」の「廿一地区写真」のページ。
これ、携帯カメラだって思えないよね~。美しい。