色々あって、本日(5/4)東京に戻ることになりました。
ご近所の見納めに参りました。
右端はお隣の大嶋電気さん、そして我が家、マルカンさんとヤマネさん。
こうして見ると、我が家の3階部分の物干は何事もなかったかのように残っているのですね。
母が借りたアパートがあります。
母の実家の親戚の方が、そのアパートの部屋をいくつか押さえていました。
その一つを、母にどうぞということで、先日、弟が契約してくれたようです。
家主さんには申し訳ございませんが、狭くて、古くて、何年も人が住んでなかった所です。
それでも、避難所よりはずいぶんと良い感じがしますが、東京なら、リフォームしていなければ、誰も借りないよねーと、つい言ってしまいます。いえいえ、今は非常時ですから、借りられるだけでもありがたいです。
私が「エー!ここに住むのーーーー?」と100回ぐらい母に聞きます。
「東京にいればいいのに・・・」
しかし、母は、こちらのアパートには親戚らが何人もいますから、安心のようです。母の部屋が1階の角部屋のため、人の出入りがすぐにわかります。
親戚の叔母らも、出入りの際には必ず「いだの?」と声を掛けてくださいます。
母にはそれがいいんですね。
しょうがないので、私はひたすら掃除です。
これがですね、拭いても拭いても、汚れがとれません。
クモの巣もたくさんあります。
私がいちいちクモの巣にギャーギャー言いながら掃除。
ダンナも一生懸命です。
甥っこのトモちゃんも来てくれて、とにかく掃除。
実家からどうにか持ち出したものは、泥がついていて臭いし、何度も何度も洗います。
東京にいても、こんなに掃除してないのになぁ〜w。
再び、実家に行って、何かないかと物色していたら、マルキの車が通りました。
マルキの車・・・誰?と思って見ていたら、
向こうも、「マルキに怪しげな人物発見!」と思ってか、降りて来ました。
オオ、オオ、ひろちゃん、無事でしたね。
従兄弟のひろちゃんは、マルキの川口町の工場にて津波に遭遇。
川口町は大変に被害の大きい地域です。
工場の屋根に上がり、そこからお隣にダイブして、避難。3日ほど孤立状態だったそうです。
工場とお隣の距離は、結構あります。
落ちていたらと考えるとゾっとします。
東京からお見舞いに来ていたみっちゃん夫妻を乗せて、気仙沼市内を案内していました。
「みっちゃん、ピアノが残っていたよ」
「エー! あのピアノが残っていたの?」
私のピアノは、従兄弟、従姉妹、みなんが弾いて遊びました。
みーんなの思い出のピアノです。
気仙沼がこんなんなっちゃったね・・・。
きっと復興しましょうね!
魚町の、実家の2階に上がり、ピアノにお別れを言うことにしました。
ピアノは、まるで私を待っていたかのように、そこにありました。
ピアノのふたをあけて、赤い布をとると、ピアノは、何もなかったかのように、すました顔をしていました。
ポロン。弾いてみる。
音がポローンと鳴る。
ポロンポローン。
鍵盤を見ていると、ここがこんなにグチャグチャになっていることを忘れます。
私は、初めてピアノを弾いた時のことを覚えていません。
2歳だったのか、3歳だったのか?
とにかく、物心ついた時には、ピアノを弾いていました。
先生にしかられながらレッスンしました。
その厳しかった先生は、この津波で亡くなりました。
ポロンポローン。
気の利いた曲を弾きたいけれど、何も浮かばず、とにかく即興で今の気持ちを音にしてみます。
それも、たいしたコード進行も浮かばないから、
FM7 Em7 Dm7 CM7 なんて、ありふれた進行で。
目をつぶります。
ありがとうピアノ。
幼い時は、ちょっと引きこもりで、
文字も読めなくて、落ちこぼれて、
それでも、楽譜は読めるし、楽器の演奏が好きでした。
カスタネット、ハーモニカ、リコーダー、ピアニカ。
音楽の授業が好きだったのはピアノのおかげです。
ありがとうピアノ。
あなたは、もうすぐ壊されてしまいます。
でも、ここから出してあげることが出来ません。
だから、ピアノ、今日は弾き納めです。
ありがとうピアノ。
たくさんの思い出をありがとう。
鹿折の叔母をお見舞いに参りました。
家と工場が流されてしまい、いまは立ち入り禁止区域です。
叔母は、実家に身を寄せていました。
叔母は、息子(従兄弟のたっちゃん)と、従業員さん2名の合計4名で工場の屋根に避難し、そこで一晩過ごしたそうです。
色々なものが流れて来て、人を何人か助けてあげて、マルキの工場の屋根にも、あと2人が避難して6名になったそうです。
「屋根にどうやって上がったの?」と聞きますと、
何か、ロープみたいなものがたまたまあって、それを掴んで、上から息子らに引っぱり上げてもらったそうです。
「上がるのは必死だから出来たけど、降りる時は恐かった〜」って。
本当に命からがらです。
鹿折に行く途中、iPhoneで録画したのがこちら。
鹿折は、津波だけではなく火災がひどく、その焼け跡を見ますと、胸がグっと苦しくなります。
父の弟(私の叔父)夫妻のお見舞に参りました。
現・マルキ小山平八商店の社長です。
地震の時は、従業員を逃がして、自分も逃げて、中には中国人の方もいらしたから、その方達を帰国させ、これからの会社再建を考え、
「叔父さん、大変ですね」と言うと、
「これからどうするかを考えたら、前より元気!」と言ってます。
いえね、持病のお薬は飲んでいるし、体調はそれなりに大変だと思いますが、精神的には元気そうです。逆境に負けないマルキ魂ですね!
私の実家も、水産加工業を営んでおりますが、3つあった工場はいずれも被災して、その地域は立ち入り禁止区域。
私は工場跡を見ることも出来ずに帰りました。
そんな状況にあり、従業員の皆様も大変だと思いますが、どうぞ、復興を目指していきましょうね。
私の実家は、海の目の前にありますので、一番先に流されてしまってもおかしくない。
それが、どうしたことか?
不思議に、その一角だけが残りました。
波がどのようにして、どう通っていったのでしょうね?
残っているといっても全壊のため、中に入るのもままならない。
道路のガレキ撤去の際に、我が家の半分が壊されました。
おかげで、中に入りやすくなっています。
表階段は壊れましたが、実家には裏階段があります。
「入ってみよう!」というのが、今回の目的の一つでもあります。
ダンナが用意してくれたヘルメットをかぶって、イザ潜入でござる!
1階の茶の間は滅茶苦茶です。
神棚も、輪島塗が自慢だった仏壇も、何もかも泥の中。
玄関先にあった自転車が、1階の奥、洗面台付近に、泥の中に埋まっていました。
それでも、どうにか裏の階段から2階に上がり、私と弟が、助かった和服などを窓から1階に投げ下ろしました。
それを甥のともちゃんと、私のダンナが受け取ってくれて、お隣の駐車場を拝借して、積み上げました。
2階の天井近くまで水が入ったようですが、その後、乾いたのか? 母の総桐タンスのおかげか? 和服が無事のようで、救い出しました。父の写真が入ったアルバムを取り出すことも出来て、母は満足そう。
日常に使っていた衣類などは1階にあったため、泥と水に浸かってしまってダメでした。
2階も、下に落ちたものは、いまだに水がジャブジャブいっていて、諦めます。
お宝は(お宝って、オイ(^^;)、撤去された2階の表の部屋に置いていたので、もうありません。
まぁ、それでも、全くダメだろうと思っていましたので、少しでも取り出した事は嬉しいです。
私のピアノも、無事でした。
重いからでしょうね。動いてはいましたが、倒れてはいなかった。