なるようになる

経営者同士が会いますと、大中小・零細問わず、どこもかしこも「厳しいです」が挨拶代わりになりました。なんつたって100年に一度とも言われる大不況ですから、これまで経験したことのなような経験をしているのでしょう。こんな時には過去の経験も役には立たないもんです。

この不景気で決算期であるこの3月に自殺者が増えるのではないかと予想されているそうです。
死ぬ気があるなら、何でも出来る!

人生は「なるようにしかならない」
でもね、きっと、「なるようにはなる」と思います。

派遣切りされて職業も住まいもない人であっても、例えば「介護の現場」では人が足りなかったりします。人が足りないところでは自分を必要とされるのです。必要とされることは嬉しいモンです。それまでの仕事とは異なるかもしれないけれど、賃金も下がっちゃうかもしれないけど、そういう事にチャレンジする機会を与えられることを感謝して進んでみるのもアリではないでしょうか。人生、なるようになると、時々思うのです。これも神様のおぼしめしかな。この試練を乗り越えて次に飛躍するように神様が設定したのかもしれません。

ひな祭り

東京は夜から、また「雪」が降っています。
今夜は、少し積もるだろうと天気予報。

今日はひな祭り。
日本の伝統を大切にしたい、と思うだけで何もしてない。

昼はそそくさと「カレーうどん」を食べ、夜はCoCo壱番屋の季節限定メニュー「グランド・マザー・カレー」を食べた。カレー好きで、うっかりすると、こんな食生活になってしまう。いかんいかん。

そんな呑気な場合じゃなくて本日も株価は値を下げて、さらなる不安感をあおり、「AIGの10-12月期は616億ドルの赤字」と発表され、616億ドルって、どんな数値なんだろうと、もうわけがわからなくなりますよ、ホント。

こんな時だからこそ、地に足を付けた仕事をしたいと思います。カレー食べてる場合じゃないっツの。

なごり雪

東京では珍しい雪が降りました。
積もるほどではなく、後から雨に変わりましたから、電車も普通に動いていたようです。

以前は、年に何度かは東京にも大雪があって、電車が止まったりしましたが、ここ数年はそういった記憶がありません。温暖化でしょうか?

「なごり雪」を口ずさみます。

「東京で見る雪はこれが最後ねとさみ寂しそうに君がつぶやく」

当時、大手企業の女子の採用条件に「自宅通勤に限る」というのがありました。同じ大学で学んだ男子は東京での採用があるのに、女子は地元に帰らざるを得ない、そんな時代でした。

男子には独身寮が用意されていましたが、女子にそれがなかったのは、そういう理由です。それで、この歌詞にあるように、女子は地元に帰りました。

「ふざけすぎた季節のあとで」

当時は、会社に入ったら「仕事をする覚悟」がありました。今の時代のように「嫌なら辞める」ことは出来なかった。辞めてしまったら、次に採用なんかない。だから嫌なことがあっても、それを乗り越えなければいけない。「仕事にやりがいを見いだそう」と、もがきました。

その前の、束の間の大学生時代は、歌詞にあるように「ふざけすぎた」時代です。遊ぶ覚悟、仕事をする覚悟、そういう事をしなければならなかった気がします。

偶然が重なる季節

年度末で外勤が増えております。

すると偶然、数年ぶりに路上で、ある方にお会いしてビックリ。
その次は新宿駅で、これまた数年ぶりに別の方にお会いしてビックリ。
それから、とあるビルのエレベータの中ですよ、さらに別の方にバッタリお会いしてビックリ。

私も外を出歩いていますが、皆様も歩いていらっしゃるのでしょうね。
不景気の中、経営者は本日も歩いております!

こんなに曲がるなんて

そういえば、土曜日に会社の近くを歩いていると、あれれ、交通標識がこんな風に曲がっていた。これほどまでに曲がるというのは、どれほどの衝撃だろうか?

車がぶつかったのか? それともバイクか?
2401.jpg

その翌日、少し直ってた(^ー^)
2402.jpg

時間はある!

先日のTチャン食事会にいらしていた上場企業の女性経営者はシングルマザーとして男の子を育てた。秋から息子さんはスタンフォード大学に留学し、一人暮らしになって数ヶ月。

感想をたずねると、
「一人暮らしって、こんなに時間があるとは思わなかった!」

会社の近くのマンションに住み、朝昼晩の食事には家に帰って息子さんと一緒にとるという暮らしを続けていた。母として、料理のほかに掃除や洗濯もする。その一方で会社を上場させる。スーパーウーマンです。それなのに謙虚。

私なぞ、ずっと「時間があった!」ことに気づかされる。

「時間」は、あると思えばある。ないと思えばない。

彼女は頭の回転が早いが、それもまた「時間がない」から、今ここにある問題をすぐに解決しないと先に進まない。持ち前の頭の良さに加えて、常に「脳」がトレーニングされているのだと思う。

時間があると呑気になる。そうすると、どこかが、何かが、錆びていく。イザという時に、錆び付いた脳が動いてくれない。

私は「時間がある」のに、勝手に「忙しい」と思っていなかったか?
もっとやりくりをすると、時間はたくさんある。

Tチャン食事会

Tチャン主催の食事会が「リーダーズサロンなみへい」で開催された。IT関係の仕事の方が多いが、ちょっとした異業種交流会のような感じです。

最初に「モデル駆動型アジャイル開発」のデモを、社会人1年生の女性がデモしてくださいました。学生さんの時から存じ上げている。当時はPHPで開発していて、就職してからはJavaでの開発を手がけ、まだ1年未満なのに、実に立派に成長されていて驚くばかり。彼女の努力もさることながら、指導者の質が高いと感じます。

また、「この仕事を楽しい!」と話す彼女に、会社のあり方、開発の進め方など、企業としての取り組み方は勉強になることが多いです。彼女の会社のトップもこの会の常連さんで、本日もいらしてます。わずか数年で成長されている企業です。工夫とやり方次第で会社は伸びるのですね。反省したり学んだり。

喜多方大使をされているという方が、「七転び八起き人形」をおみやげにくださいました。
1601.jpg

喜多方の「ゆず酒」も頂きました。おいしゅうございます。
1602.jpg

今日は自由に立ち歩いて情報交換をいたしました。
1603.jpg

お料理は工夫をこらしてあり、
1604.jpg

おいしゅうございます。
1605.jpg

Tチャン主催の食事会は触発される会です。
日本経済は低迷していますが、この席は熱い!
サ、明日も頑張るゾ!

それもまた運命か

やっぱりたまに、、、なぜ男に生まれて来なかったんだろう、と恨むことがあります。

私の実家は商売をしており、第一子に跡取りの男の子を望んでいました。
生まれてきたのは私、女子であります。

そのことをプレッシャーに感じてしまった母は、数回だけ出たお乳が出なくなりました。母がどれほどにプレッシャーに思ったのかは知りませんが、私の3歳年下には(学年では4学年下に)弟が生まれ、オヤマ家は跡取りが出来たと安堵し、我が家の人気は弟に集中しました。そして、第3子にも男の子が生まれ、大人たちは大変に安堵しました。

私は、第一子らしく周囲からは大切にかわいがられ、何不自由なく育ちましたから、なにも恨むこともないのだが、胎児の時から「男の子であってくれ」という周囲の期待がどこかに刻印されてしまったかもしれません。

女性は「仕事か結婚か」の二者択一しかないと思った時代に、周囲の予想を裏切り、私は仕事を選択してしまいました。

仕事を始めてからは女性であるというだけで、いろいろな問題を抱えます。
けれど逆に女だからと許されてきたこともあります。

プラスマイナスするとチャラか、もしかしたら優遇頂いたことの方が多かったかもしれません。

けれど、けれど、けれど、
やっぱり、やっぱり、やっぱり、
なぜ男に生まれなかったのだろうかと思う事態は時々やって来ます。

私の曾祖母という人は4姉妹の次女でした。
嫁に行くべきところを、なぜだかオヤマ姓を名乗り、男まさりであったと伝説にあります。
その人もまた「男でありたい」と思ったのでしょうね。

その人の娘(祖父の姉)という人も嫁いだ家を繁盛させた男まさりの人でしたから、そういう血が私にも流れているのか、それとも胎児の時からの「男であって欲しい」という願いが刻印されてしまうのか。

明治時代の先祖のことを思ってみますと、少し大げさですけど当人にとってハンディとなることを背負って生まれてきたことが、なにかの礎になっているとしたら、それもまた運命ということでしょうか。

すき焼きは家族団らんの味がする

昭和30年代、我が家は大所帯でした。

祖父母、両親、父の弟達と妹達、住み込みで働いてくださる方々、お手伝いさんが魚町と太田の2軒の家を使って住んでおりました。どちらも、さほど広くはないので、文字通りに川になって寝ていた記憶があります。

祖父は「さかなや」のだなはん育ちですから(注:気仙沼で「さかなや」と言うのは、町の魚屋さんの事ではなく、漁船のオーナーであったり、加工や卸売業などの経営者のことを言います)、食事は下々とは一緒にはとりません。

祖父母だけ別室で頂きます(なんだか時代がかっていますが、祖父は明治生まれですから、そういうものかと思っていました)。

昭和44年に祖父が亡くなった後も、祖母が私たちと同じ食卓を囲むことはありません。

祖父が亡くなる少し前から、父の弟や住み込みの皆さんが相次いで結婚して家を出ましたので、我が家は家族だけになりました。

それでも祖母は、私たちとは食卓を囲むことはありませんでした。

「あねはん(おかみさん)」としての習慣がしみついていたのか、せずねーわらすだぢ(うるさい子ら)と一緒では落ち着かないと思ったのか。

祖父母のお膳は5品か7品か、それとも9品か…、奇数と決まっていました。
ご飯とみそ汁と漬け物で3品、それにメインのおかずに小鉢が付くと5品。
デザートに果物などを付けると6品になるので、あと一つ小鉢を付けて7品にすることが多いのです。その1品が難しいと母がいつも悩みます。

そんな祖母ですが「すき焼き」の日は皆と一緒に一つの鍋をつつきます(後に、ホットプレートを入手してからは、これに鉄板焼きも加わりました)。

父の帰りが早い日はすき焼きでした。
父の帰りが早い日は年にいくらもなくて、クリスマスか、たまたま飲み会がキャンセルになったか….、そんな程度でした。

「すき焼き」には家族全員がそろいますから、幼い弟達は、大はしゃぎです。
「僕、お肉食べるー」と言ってるそばから、父がしずって(からかって)肉を箸でグイと寄せたりしては、祖母にしかられます。

それが楽しくて、またはしゃぎます。
父が「卵もう一つ」と言うと、弟らが「僕もー」と言います。
何というか、みんな嬉しくて、そしてガツガツ食べました。
祖母も観念してか、目を細めて見ていました。

昨日、ランチに入ったお店に「すき焼き定食」がありました。
0601.jpg

すき焼きを頂くのは、いつ以来でしょうか。
その鍋をつつきながら、家族で頂いた「すき焼き」を思い出しました。

昭和の時代は、きっと苦しい事も多かったのでしょうけれど、なんだか楽しい事ばかり思い出します。