北海道フェア in 代々木2012

代々木公園で行われている「北海道フェア」は本日で終了になります。
北海道東京会議でお世話になっている皆様の応援に、代々木へゴー!

代々木駅でちょっと買い物をしてから、明治神宮の参道を抜けて原宿駅前へ。
エー、なんか混んでます。

現地に到着して驚いた。
すごい人が出ています。

人・人・人!

北海道東京会議でお世話になっているのは「東京栗山会」
ブースをたずねました。

いらっしゃいました〜!

やっとの思いで入手いたしました栗山町の「くりやまコロッケ」美味しい!!!
サックサク!
こんなに美味しいポテトコロッケは初めてです。すばらしい!

松尾ジンギスカン」のブースに行くと「売切」「売切」残念!

身動き出来ないほどの人です。
歩道橋の上から撮った写真。これはすごいわ。

中野にぎわいフェスタ2012

ダンナの地元・北海道の「名寄市(なよろ)」が「中野にぎわいフェスタ2012」に出店しているとのことで応援と賑やかしに行ってみました。

中野駅近く。

そうそう、中野区では駅前を再開発していて、数年の間に大学が3つもやってくるんです。
オー、中野駅周辺がきれいに整備されていてビックリ!

中野というと、ちょっとゴチャゴチャしたイメージだと思うんだけど、中野サンプラザの横というのか、そこに奇麗なスペースが出来ていました。

名寄は「なよろ煮込みジンギスカン」を出しています。

今年の7月の札幌ドームで行われた「第3回なまらうまいっしょ!」で第3位入賞したそうです。

食べてみると美味しい!
いいんでないの〜!
いけるんじゃないのー!

この後は、代々木公園で行われている「北海道フェア」に賑やかしに参ります。

えちご・くびき野ウルトラマラソンの反省

直江津から東京に戻りました。
内蔵が完全にやられていて、食欲がいまひとつです。
足は全く大丈夫で、多少の筋肉痛はあるものの、普通にスタスタ歩いてます。
もうちょっと行けたんじゃないの?と思うほど。

けれど内蔵疲労の方は初めての経験で、具合が悪くて横になりたいくらい。
今日は日曜日なので、すみませんが、ダラダラと過ごすことにしました。
寝たきりの病人みたいです。
ダンナさん、すみません。

頭も動いてないけれど、フレッシュなうちに反省をすることにしました。
反省点は多々あります。
(1)夏の走り込みが足りない
   7月はサロマの後ということで休んでいる
   8月はお盆があったりと休んでいる
   9月は連休があって遊びに行ったりしてる
   ダメじゃん。。。

(2)絶対に完走する!という意識が足りない
   第2関門を越えるのが目標になっていた
   絶対に完走する気持ちの準備が足りなかった

(3)食事を受け付けない時の対策が出来てなかった
   いつも食べれるので、イザ、食べれない時はどうしたらいいか
   スポーツジェルの携帯とか、工夫が必要

(4)やっぱり、フルマラソンでサブ4しておかないと
   今の遅いタイムでは、このコースは厳しいと思う
   もう少し速くならないと

(5)坂道に慣れる
   今年に入って、坂対策をしてきたが、不十分
   これから積極的な坂練が必要!

(6)前の晩に熟睡出来なかった
   完全に朝型になれなかった

(7)風邪をひいていた
   前回の「えちご・くびき野」の時も風邪で声が出なくなった
   この季節の変わり目、夏の疲れが出る時期、風邪対策は重要

まだまだあるだろうけれど、これらを反省しつつ、2年後には必ず、完走するゾー!

いくつか覚え書きを。

<服装について>
今回はこのような格好で出ました。

スタート:半袖シャツ(おだづなよTシャツ)、中に袖無しのアンダーシャツ、長タイツ、アームウォーマー。ウルトラ様の帽子

第1トランジット:アームウォーマーを取って預けた(暑かった)

第2トランジット:(汗が冷えて寒くて)アームウォーマーを付けて、手袋もした。帽子はウルトラ用から、普通のに変えた(頭にかいた汗が気持ち悪くて着替えた感じ)

後でミゾさんから聞いた話。
前回、前々回は雨だったので、シューズもトランジットに入れておいたそうです。
靴がビチャビチャになるとマメが出来たりしますもんね。なるほど〜。

<トイレ>
最初の方の仮設トイレは混んでいるようで、並んでいるのが見えた
途中の建物のトイレを利用すると、女性の方は並んでいなくてスムーズに使えた
トイレの回数は2回。
いずれも建物内を利用。洋式だった。

<エイド>
基本的にはスポーツドリンクと水、オレンジ、レモン、塩、うめぼし、こおり飴は必ずあった。

他にエイドステーションによっては、麦茶、麦茶は冷たいのも暖かいのあったし、コーラも時々あった。コーヒーも1箇所あって、ブラック or ミルク・砂糖入りという区分もされていて驚いた。

バナナ、あんぱん、おにぎり、笹団子は、何カ所にもお置いてあった。

おぼろ汁(おぼろ豆腐入りの汁)、甘酒、豚汁、そば、とにかく充実していた。
途中リタイアのために海賊汁は飲めず。

胃腸がすぐれなかった時は、塩をなめて、暖かい麦茶をもらって元気を付けた。
これがなかったらどうしていたでしょう?

<沿道の声援そしてボランティアさん>
感謝、感謝、感謝です。
朝早くから沿道に出て頂いて、皆さんの応援がありがたかった。

途中にお目見えした「かかし」や「看板の文字」、それらお手製の応援もまた嬉しかったです。
暖かい大会です!

そして、中学生の皆さんが甲斐甲斐しく働いていて、オバちゃんはありがたかったですよ〜。

<また出たくなる大会>
2年後に、きっと帰ってくるゾー!
そして、次回は完走します!
新たな目標が出来ました。
ありがとう〜「えちご・くびき野」

えちご・くびき野ウルトラマラソン(100km)

いよいよ、やって参りました!
えちご・くびき野ウルトラマラソン」100kmの部に出場です!

この大会は2年に一度の開催。
峠が5つもある難コース。
5つで1500m以上の上りと下りがあります。
いまの私にはちょい無理だけど、今年諦めたら次は2年後になっちゃうから、思い切ってゴー!

朝3時に起きて、
4時に宿の前に大会のシャトルバスが来るので、それに乗って会場へ。
会場までは10分もかからないと思います。

夜明け前の会場はまだ暗い。
ここがスタートゲート。

体育館の中で着替えやストレッチ。
夜明け前の外は寒いけれど、中は暖かくて助かります。
トイレは体育館の中も使えたし、外に仮設もあります。混み合う前に行けたのでスムーズで助かりました。

3時におにぎりとカップのみそ汁を飲んでます。
5時半のスタートまでに時間があるので、もう一つおにぎりと、バームクーヘンも持ってきてます。
いつも食欲旺盛なのに、なぜか今日は食べられない。
実は1週間前から風邪で薬も飲んでいます。
熱はないけれど喉の痛みと咳と鼻水。そのせいなのか?

途中のエイドが充実していると聞いているので、無理して食べなくてもいいかな。
バームクーヘンをちょこっとつまんで、おしまい。
(それが後になって影響してしまうのですが・・・)

ゼッケン番号は「3011」
今日も「おだづなよTシャツ」です!

がんばるゾ!

開会式の後、皆さんといっせいにスタート地点に進みます。
夜明け前。薄暗い中に、男性1,434名、女性274名の参加者。
それぞれに、様々な思いを持って、100kmの難コースに挑みます。

マイクを持った女性の声「がんばるぞー」のかけ声に、皆さんで「オー!」と声を上げます。
そして...「1分前」ヒューヒュー!

本日、ここに立てたことに感謝します。
一昨年に50kmの出場した時は震災前だった。
この2年の間に、色々なことがあって、大きく変わってしまった。
それでも、今、私はここにいる。
皆さんのおかげで、私は生きています。
そして、また走り始めました。

10秒前!オー!
9・8・7(声がそろっていきます)
6・5・4(いよいよだわ)
3・2・1・ワー!!!!!!!!!!!!

長い長い旅に出ます。
ゴールまでたどり着けるでしょうか。
行けるところまで、諦めない。

ミゾさんと一緒に「スタートはゆっくり行きましょう」
最初の2kmはキロ7分ちょい。ちょっと遅い?
少しだけ上げましょう。

と思っていたら、「あれ、もう5km?」
涼しくて、薄暗くて、心地よい。
そのまま10kmまで進みます。途中でキロ6分くらいになったけど、私は6分半くらいに落とします。

次第にミゾさんとの距離が開いてきました。
そして、とうとうミゾさんは「先に行ってるねー」
「はーい、また会いましょう!」

10km少し過ぎまでは、とても調子が良かった。
これは行ける!

ところが、、、15kmになるかならないか、なんだか様子がおかしい。
6分半もやっと、こんなタイムで走っている。なんだろう?

沿道には、こんなに朝早くから応援の方がいらしていて嬉しいです。
ありがとうございます、ありがとうございます!
「気仙沼〜がんばれー」という声援をたくさん頂きました。ありがとうございます。

ところが・・・
エイドで、珍しく食べられない。
何かを食べようとすると、ゲっとなっちゃう。
美味しそうな「コシヒカリのおにぎり」とかあるのに。

どうにかオレンジを口に入れて、レモンを少しかじって、とにかくゴー。
私は、走りながら食べれるのが、ちょっとした自慢だったのが、今日はダメです。どうしたんだろう?

そのツケが徐々にやって来ます。
あれれ、思いのほか汗もかいています。
顔から汗が流れ落ちる。これは・・・ちょっとした脱水症状。
屈伸をしたら、立ちくらみもひどい。ヤヤヤ、これはいけない。

しかし、エイドが充実していると思ったので、いつもなら持参するスポーツジェルを持ってなかったのです。スポーツジェルが必要になるのはラスト80km以降だろうと思って78.2kmのトランジット袋に入れてしまった。序盤はなるたけ「軽く」しようと持参しなかったのが裏目。

とにかく、前へ前へ。
まずい。平地で時間を稼げない。ギリギリだわ。

26.1kmの板倉区総合事務所のエイド、わー、充実している。
それでも、砂糖飴を口にポンと入れて水とスポーツドリンクでいっぱい。うーん、おかしい。

もしかしたら、今日はちょっと暑いの?
まわりの人も、みんな汗をかいています。
エイドでも「何も食べれない」と話している女性もいます。
気温が高めなのでしょうか?

40kmのちょっと手前だったか、建物の中のトイレが使えるので入っておくことにしました。
トイレの鏡で顔を見て驚いた。大汗かいてました。
Tシャツの下に着てるアンダーシャツもビチャビチャになるほどの汗。
これはまずいわ。とにかく水分、水分!

途中のエイドで紙コップが足りないところがありました。
きっと、皆さんも水分を補給しているのでしょう。
私のように遅いランナーにコップが残らないほど。ボランティアの皆さんが紙コップを洗って使い回してくださいました。あとで聞いたところ、例年よりも暑かったそうです。ここ3回ほどは雨が降ったそうです。

なんとか40kmまで行かなければウルトラに出た甲斐がない。
がんばれ、がんばれ。

40km手前から坂道が始まります。
その坂の手前におばさんが応援にいらして、
「ハイー、ここから峠のはじまり、はじまりー、がんばってー」
「ウィーッス、がんばりまーす」

やっと40kmの表示!
サ、ここからだ。

たぶん40.5kmのエイド「牧区総合事務所」だったと思うのですが、「おぼろ汁」があって、おぼろ豆腐入りの汁。
これで、やっと豆腐を胃に入れることが出来ました。美味しい。

第1関門は51km地点。12時20分までにたどり着かなければならない。
そこまでに峠2つがあります。

坂は、例えば箱根の5区とか、奥武蔵ウルトラや、伊豆大島のコースよりは、なだらかに入ったという印象です。それらの大会では走れたような道も、40km走った後では足にきてます。

上りは徐々に歩きになりました。無理をしないで歩きで行って、下りはダッタっと走っておりて、2つ目の峠。また徐々に走りから歩きに変わり、それでも頑張って早歩き、ハァーハァー、ゼーゼー、歩いていても呼吸が上がります。

そして、また、下りはダッタッタっと下って、第1関門の制限時間の5分前。ギリギリの通過。
うわっ、あと5分だったよー。

そこでいただいたのが「豚汁」
その器を持って座るところを探すと、オー、ミゾさん!
ミゾさんは着替えのために、「50番会のTシャツ」から「おだづなよTシャツ」にゼッケン番号を変えていました。着替えをするとゼッケンを張り直さないといけないのです。

セッセとゼッケン番号をはるミゾさんの隣に座って豚汁を食べるワタクシでございます。
これが美味しい!
これまで食べ物を受け付けなかったのが、ウソのように食べます。生き返ったわー。
急いで食べると、「ミゾさん、ごめん、私は遅いから先に行きます」「また会いましょう」

先を急ぎます。
ミゾさんは速いので、あとから追い越されることでしょう。
とにかく、先へ、先へ。

これからあと2つの峠を越えると第2関門。
全部で5つの峠がありますが「4つ目が一番きつい」と様々なブログに書いてあります。

もう上りは、最初っから歩きになりました。
それでも出来る限りの早歩き。ハーハーゼーゼー。

山の上の方がいくらか涼しくて、それで、徐々に食べ物を口に出来るようになりました。バナナを少し食べて、あとはオレンジにレモン。美味しそうなおにぎりには手が伸びません。残念。

いつも苦手な下り坂。
それでも奥武蔵や箱根を走った経験が生きたのでしょうか。
少しはまともに降りてます。
膝に痛みもありません。下り坂で時間を稼いで、今回の目標である第2関門をどうにかクリアしたい。

景色を見る余裕がないのですが、時々は「そうそう、景色を楽しみましょう」とまわりを見ます。よくブログに写真を掲載されている方がいるけれど、私は景色を見る余裕すらないから、写真は到底無理です。その景色を目に焼き付けます。

たくさんの「かかし」がある地区がありました。
ユニークなかかしがたくさんあって、微笑ましいです。

「声援メッセージ」が書かれた立て看板も多数ありました。
そして、沿道の声援、お年寄りの方が多いですが、その声援はとてもとても励みになります。

「あら、あの人は気仙沼だって」
「ほう、気仙沼ってどこ?」
「宮城県」
「あらー!」と背中に聞きながら走ります。ありがとうございます。

第2関門(69.4km地点に14時50分)に間に合うかどうか。
ボランティアさんが誘導しています。
「あの角を曲がるとすぐですよー」

「すぐ」って言っても全然すぐじゃない時もあるよねー、なんて思いながら、その角を曲がると、「あ!」そこが関門でした。
中学生がたくさん待っていてくれて、ハイタッチ、ハイタッチ、ハイタッチ。
私も笑顔、笑顔、笑顔。

ここまで来たんだなぁー。
関門を越えると、アイシングのサービスがありました。
私は椅子に座って、両足をアイシングして頂き、肩に冷たいタオルで冷やしてもらって生き返りました。
まだ行ける!

ありがとうございます。
関門を後にして進みます。
両足のふくらはぎがパンパンに張っていたのが、少し和らぎました。

次は、78.8kmのトランジットを目指しましょうぞ!
そこまでに、最後の峠があります。
最後の峠は、4つ目までより低いはず。

ほどなくして、その最後の峠がやって来ました。
低いと思った峠は、いまの足にはぜんぜん低くない。
またまた辛い上り坂。歩きですけど、精一杯。ハーハーヒーヒー。汗かきながら上ります。

「おだづなよ」ってどういう意味ですか?
たくさんの方から聞かれました。

気仙沼ではよく使われる言葉です。
「ふざけるなよー」とかそういう意味というと、皆さん、なぜかニヤリとされます。
「海とか津波に向かってね、ふざけるなー・みたいな気持ち」

最初は「気仙沼からですか?」という問いかけに、「実家が気仙沼で被災して、私は東京に住んでいて」と応えていたのですが、そのうちに、疲労状態から「ハイ、気仙沼から来ました」と言ってしまいました。ごめんなさい。

でも、気持ちは「気仙沼から来ています!」

沿道には、昔ながらの建物が多くありました。
きっと、震災にあわずに住める良い土地なんでしょうね、と何もなくなった気仙沼と照らし合わせています。

こんなに良いところで、代々、農業を続けて来て、それが昭和から平成になって、農業を継ぐ者が少なくなって、時代の流れとはいえ、数十年の間にこんなに変化してしまって、どうにかならないのだろうか。

ふくらはぎの張りは、徐々にひどくなりました。
エイドの間隔は2.5km程度ごとにあります。そのたびに立ち止まって水分補給とストレッチ。

78.8kmにトランジットのエイドがあるのですが、なぜか76.8km地点だと勘違いしていて、そのエイドを目指していたのに、あー、違ったのねー、そこで心がちょっと折れてしまい、おまけに一つしかない椅子に女性が座っちゃって、あー、あの椅子に座りたいけど、空くのを待つ時間もない。ストレッチもそこそこに走り出したら、両足のふくらはぎが、ピクーン。なんだかもう一歩も足が出ない。

ちょっと走っては立ち止まり、しまいに歩き出し、ボランティアさんに「大丈夫ですか?」と聞かれる始末。
「まだ間に合いますから、がんばってください」「ハイ」トホホ。

それまで、抜きつ抜かれつしていた男性2人組に、「おだづなよ」の意味を聞かれたり、「気仙沼さん」などと呼ばれていた方達から、激励の「飴」を頂きました。「気仙沼さーん、まだ大丈夫だから走ろう!」と。

ありがとうございます。その飴を口にポンと入れたら、不思議な力が出て、もう少し行ける!
最後の力を出して、やっと78.8kmのエイドステーション。

トランジット受け取りますか?」と中学生さん。
「受け取ります」と私。

汗が冷えて寒いのです。
本当は着替えたいけれど、時間はない。

預けていた荷物から「アームウォーマー」と「手袋」と「スポーツジェル」を取り出して、後はすぐに預けます。

ここにおそばがあります。
食べていたら時間が足りない。
ふくらはぎが限界で走れそうにない。

どうしよう?と思いながら、おそばを見たら、美味しそう☆
とりあえず、食べるとしますか。
椅子に座っておそば食べて、

「やっぱ、行けるところまで行くのだ!」
また走り出しました。
アームウォーマーが暖かい。

沿道の若いお母さんとお嬢ちゃん。がんばれーの声援に「ハイ!」
なんとしても80kmまでは行こう!

小さな角の信号につかまりました。
小さな道に車は来ないけれど、交通ルールは守ります。
そして、先を急ぎます。
不思議とふくらはぎが少し回復。

もしかしたら、今日のふくらはぎは、脱水症状も原因していたのかな?
すると、後ろから飴をくださった2人組の男性が、ものすごい勢いで私を抜去りました。キロ6分か、それより速いか?最後の力を振り絞っている姿は、ちょっと感動ものです。

私もがんばる!
走る、走る、走る。

80kmの表示!ヤッタ!
あと1km行きましょう!

時計を見ると、もう第3関門には間に合いそうにありません。
それでも、少しでも距離を延ばそうと走ります。
前後の人もそうです。

みんな、もうダメかもしれないのに、最後の最後まで諦めない。
「走る女」のTシャツの女性もダットのごとく走っています。懸命に。

82kmの表示!
その辺りで、審判というゼッケンを付けたからから、指で「バツ」を書かれました。
「もう間に合いませんよ」
「行けるところまで行っていいですか?」と私。
「いいですよ。次のエイドで終わってください」
「ハイ」

もうダメなんだろうか。望みはないのだろうか?
次のエイド。
「もうダメですか?」と私。
「行けるところまで行っていいよー」とボランティアさん。
「ハイ」と私。

後ろを振り返ると黄色いTシャツの人が、足をひきずりながら歩き走りしています。
負けじと私も歩き走り。

時計を見ると、あー、もうすぐ17時5分になっちゃう。
と思っていたら、「審判車」と書かれて車が目の前で止まり、中から「審判」のゼッケンを付けた方々が降りていらして、

「ハイ、お疲れさまでした。ここで終了です」
「お世話になりました、ありがとうございました」と私。

後ろから来た黄色いTシャツの方、そしてその後ろの方も止められ、3人のゼッケンをはずされました。
もうすぐ収容バスが来るからそれに乗ってください。
「ハイ」

そうして、審判車は走り去りました。
終わった・・・。

立ち止まったら、汗が冷えて寒い。
ガタガタ震えながら、話をしながら収容バスを待ちます。
30分ほど待った頃でしょうか、上越市と書かれた車が停まって「乗ってくださーい」

そして、第3関門である柿崎区総合事務所まで乗せて頂きました。
乗ってすぐに84kmの表示がありました。わずか数十メール先。
ほぼ84km走ったということになります。

あと1.4kmで第3関門だったのになぁ。
でも、もうキロ8分が精一杯だったから、12分ぐらいかかったでしょうか。
逆に言うと、あと12分あれば、越えられたのでしょうか。

その関門をギリギリに通過したとしても、残りをキロ7分以内で行かなければ完走は出来ません。
結果的に無理だったと思います。

柿崎区総合事務所のエイドでは毛布を借りました。寒さでガタガタ震えていたので、とても暖かく感じました。そうして「おかゆ」を頂きました。他にもおにぎりや笹団子や、様々なものを持ってきてくださいましたが、食べ物を受け付けないのです。「おかゆ」を美味しく頂いて、収容バスを待ちます。

その間にも、リタイアした人達が続々と連れて来られていました。
そうして、収容バスに乗ると、先に行ったと思った「走る女」さんもバスにいました。あの速さでも無理だったのか。男性2人組は乗ってないから、無事に関門突破したんですね。

ウルトラマラソンは不思議な連帯感が出てくるものです。

収容バスに座った途端に熟睡してしまいました。
前の晩に、あまり眠れなかったのです。

バスから降りて、そういえば、ミゾさんが私を追い越していなかった。
ミゾさんもダメだったのかしらん?
メール、そして電話。
「ミゾさーん、ダメでした」

ダンナにも電話。
「ダメだった」とひとこと。
急に残念な気持ちがドワーっと湧いて来た。

収容バスはゴール地点に運んでくれるのです。
そこでみる、感動のゴール。
そこにいない私。

ゴールした人には、中学生が甲斐甲斐しいお世話をします。
私も2年前の50km完走の時はそうでした。
毛布を持ってきてくれて、「何か食べますか?」とか、荷物を取りに行ってくれたり、とにかく至れり尽くせり。

それがリタイアの私は全部、自分でします。
自分で荷物を受け取り、トイレで、さくっと着替えて、「ミゾさん、ホテルに帰りましょう」

その直前に撮った写真。
残念だけれど、今日、自分に出来ることは全てやったという満足感は出てるような表情でした。

宿で風呂に入り、2人で反省会。
内蔵が弱ってしまって、何も受け付けない。
こんな事はサロマでもなかったわ。

「冷や奴くださいー」

タイムは手元の時計で次の通りです。
スタート地点まで:35秒
5km:33:45
10km:31:40
15km:32:27
20km:32:34
25km:35:43
30km:44:13
35km:38:33
40km:49:46
45km:43:44
50km:52:34
55km:42:43
60km:38:14
65km:40:42
70km:55:17
75km:36:10
80km:36:58
84km:(時計を止め忘れ、そのままリタイア)
——————-
合計:11:35

2年後にリベンジしますよー!
完走したいぞー>えちご・くびき野〜〜〜。

参加賞のTシャツはこちら。
今年のキャッチコピーは、「この挑戦は孤独ではない」でした。

えちご・くびき野ウルトラ/直江津に向かってGoー!

明日、えちご・くびき野ウルトラマラソンに出場するために、直江津に参ります。
昼過ぎに東京を出ます。
東京駅の駅弁売り場は、美味しそうなものが増えましたねー。

越後湯沢駅で「はくたか14号」に乗り換えて直江津駅で下車。

この大会は2年に一度の開催で、一昨年は50kmの部に出場しました。
今回は100kmの部に出ます。

戻ってきましたぞよ>直江津ー!
今回は一人旅です。

駅から受付会場の「リージョンプラザ上越」行きの無料シャトルバスが出ます。

駅で、この大会の初回から連続出場しているというミゾさんと待ち合わせて一緒に会場へ。

上杉謙信の里ですので、このような仮装をした人が応援してくださいます。
明日はがんばるゾ!エイエイオー!

今年も宿は「漢方の湯 元気人」です。
この宿には、当日朝も会場への無料シャトルバスが停まってくれるので便利。

宿に帰ってからも忙しいです。
明日の朝食を買いにコンビニへ。朝が早すぎるので宿の朝食は食べられないのです。

それからゼッケン番号を胸に貼ったり、シューズにチップを付けて、

明日の荷物は3つに分けます。
50.4km地点用、78.2km地点用、そしてゴールへ。
ゼッケン番号を書いた色違いの袋に入れて準備。中には着替えなどを入れてます。
万が一、雨が降ったりしたら着替えることもありますから。
でも、私には着替える時間はないと思われるのだがね。

今回は100kmの部に出るので、気合いが入っておりまする。
なので、前夜祭には出ないで、宿で「日替わり定食」を申し込んでいて、宿で風呂に入ってご飯を済ませて、9時前には横になりましょう。明日は早いぞ。

気仙沼・羽田神社のお山がけ

今年も、気仙沼市羽田神社では「お山がけ」が行われたそうです。

「お山がけ」は、数え年、七歳の男の子(小学校に入る前の年にあたります)が、羽田神社の奥の院に参拝するという行事です。この奥の院が、急な坂道を上って行きますので、何といいますか「男になる」的な、気仙沼らしい風習です。

私は女子なので上ることが許されず、それゆえ、その急な道のりの詳細はわからないのです。
弟達が行くのを羨ましく見ていたものです。

男の子に付き添いの男性が付きます。
この男性には、父親が付いていってはいけないのです。
甘えてしまうから?理由はわかりませんが、とにかく父親ではダメなのです。

父親以外の親戚が付いていきます。
叔父さんに当る人が担当することが多いのですが、最近は叔父さんがいないケースもあり、その場合は親戚で上れそうな人を探して付いて行ってもらいます。

甥っこのヨシキの時には、嫁側のおじいちゃんが付いていってくださいました。
子供の方はスイスイ上がるけれど、おじいちゃんは大変〜、なんて話もあるようです。

横浜に住む弟の息子も「お山がけ」をさせたいと、父親(私の弟)が連れて行き、気仙沼に住む弟が叔父さんとして付いて行ったというわけでして。

この時期には雨が多いため、たしか弟の時には雨が降っていたと思います。
もしくは雨上がりで、ツルツルすべって難儀したという話も聞きます。

詳細は、「羽田のお山がけ」をご覧ください。

今年も元気に「お山がけ」が行われ、7歳の男子が立派な男になっていったのでしょう。
「お山がけ」の後には、男の子は「よくやった」「がんばったなぁ」と、たいそう褒められ、ちょっと大人な気分☆
そして、家族や親戚とともに食事をして労をねぎらうといったもの。

これ、女子は禁止なんですよねー。
でもまぁ、男子だけの、こういったものがあるのもまた良いのかな。

こういった行事はずっと残しておきたいものですね。

ゆるキャラグランプリ2012

「ゆるキャラグランプリ2012」に気仙沼のゆるキャラ「ホヤぼーや」がエントリーしました。

みんなで盛り上げましょう!と、
メール、Facebook、ツイッター、色々な情報が届きました。

どれどれ、私も投票を。
こちらは、メールアドレスごとに、1日1票を投じることが出来ます。

ぜひ、ホヤぼーやにも一票をどうぞ、宜しくお願いします!
出来れば、毎日、一票、お願いいたしま〜す!

ダンスパーティ2012@つくば

今日は、義姉夫妻が講師を務めております「ホワイトダンス教室」の「ダンスパーティ」です。
社交ダンスですぞ!

夫婦で共通の趣味があるっていいですよね。

会場は、昨年と同じ「オークラフロンティアホテルつくば」です。

天気予報では、あいにくの「台風!」
遅くなると、帰れない可能生もありますが、まぁ、その時はその時ですね。

こちらのダンス教室では、ご年配の方が多いのです。
最年長は、91歳のおばあちゃまだそうです。

皆さん、お若いですねー。
音楽に合わせて、身体を動かして、他人とふれあって、それが若さの秘訣でしょうか。

発表の合間に「ダンスタイム」があって、自由に踊ることが出来ます。
せめて、ダンスタイムの時に踊ってみたい。ワルツぐらいは踊れるようになりたいものです。

今日はすっかり見とれてしまって、写真を撮らないでしまいました。
義姉が美しかったですよ〜。

その姿を見てますと、ダンスしてみたいという衝動にかられるほどでした。

内藤新宿300RC:第14回・新宿ー高遠駅伝

「内藤新宿300RC」という仲間での最大イベント「新宿ー高遠駅伝」でございます!

今年は14回目!
14年も続いていることは本当にすばらしい。

新宿駅南口を出発し、タスキをつないで長野県伊那市高遠町役場前までランをします。一日では辿り着けないため、A班とB班に分かれます。

 A班:新宿駅南口から勝沼まで(その後は車で高遠まで)
 B班:車で勝沼まで行き、勝沼から高遠町役場まで

私は今年もA班で走ります。
といいますのも、明日、用事があって、宿泊が出来ないのです。
なので、A班を走った後に、電車で東京に戻らなければなりません。

いつものスタート地点で記念撮影!

そして1区の方がスタート!
我々は、車で並走です。

今年はまずは3区を走ります。
初めての一人旅で不安がいっぱい。無事にタスキをつなぐことは出来るのでしょうか?

3区は、11.6kmあります。
途中で、一カ所、大きく左に曲がるところがあるが、それ以外はまっすぐ道なりに進んでくださいとのこと。
2区の人からタスキを受け取りました。

思いのほか、暑いです。
この数日は涼しい日が続いていたので、暑さはこたえます。

そして、「秋の交通安全」期間中ですから、信号のたびにキッチリと止まって待たなければなりません。
とかなんとか、思っていたら、道を誤りました。

甲州街道は20号をまっすぐ行くのですが、途中で旧道を走ります。
その道は256号となるのです。
そこで、誤ってしまいました。

曲がり角には、ガイドの人が立って待ってるからというのに、その角には人がいなかったから、おかしいなぁと思ったら、ヤッパリ!
不安な気持ちを押さえつつ戻って、本来の道を参りました。

私のタスキはダンナにつなぎます。
伸び盛りのダンナでございます。
足取りも軽やか(^ー^)。

タスキはつながります。
私はもう1区間を走ります。
6区。

今回の3区、6区ともに初めてのコースです。
思いのほか6区は坂道がありました。なだらかに上ったり、下がったり。
気温も高くなり、なかなか辛いコース。10.2km。

皆さんがエイドをしてくださったり、応援してくださるので、タスキはつながりました。

またまた、私のタスキはダンナにつなぎます。
ダンナのコースは13km以上もあります。
加えて、アップダウンのコース。

一緒に走るのは会長さん。
会長さんは御年68歳というのに、とても速いんです。
キロ4分台でタスキをつなぎます。
ダンナは、それに比べると遅いけれど、キロ5分強という好成績でタスキがつながりました。

今年も「笹子峠」は工事のため、車の通行は出来ません。
この峠を走るのは、大変な坂道の連続です。

A班のゴールを見届けることは出来ずに、甲斐大和駅から中央本線にて東京に戻ります。
今夜は高遠で打ち上げがありますのに、後ろ髪を引かれつつ、帰る電車では爆睡(^ー^)。

皆様、今年もありがとうございます。

私の成績は、3区が1:05:23、6区が57:23。
どうにかキロ6分は切りましたが、あと少し、あと少し速くなりたいものですね。

第3回KSBフォーラム「津波のまちに生きて」

KSB(気仙沼サポートビューロー)では、
第3回KSBフォーラム「津波のまちに生きて ~歴史・民俗からみる気仙沼とその復興」を開催いたしました。

場所は、飯田橋の「東京しごとセンター」の会議室。
時間は、19時〜21時。
会費は、1,000円(学生500円)

本日の講師にお招きしましたのは、川島秀一先生。
震災前までは、気仙沼の「リアスアーク美術館」の副館長を務められていました。
今年の春からは気仙沼を離れて、神奈川大学日本常民文化研究所研究員を務められています。

「三陸の歴史を知らずして、真の復興はない」と明快に話されます。

川島先生のお宅は、私の実家から近いところにありました。魚町。
先生のお宅は跡形もなくなり、お母様であった京子先生(私達の高校の恩師です)は、津波の犠牲になってしまいました。

「この地に住む者は、いつも津波を意識している」
特に魚町は、気仙沼の中でも、海に面している土地ですから、これまでも津波による小さな被害はしょっちゅうありました。

「いざという時の準備というのか、そういうことはしているんですね」と話されます。

「写真はネガを、紙の資料は全て複製をとって仕事場にも置いていた」そうで、そのおかげで資料は無事だったそうです。

しかしながら、録音テープは全て流されてしまい、惜しい事をしたと話されていました。

冒頭に、とあるお宅の写真が映し出されました。

そのお宅は、只越にあって、津波対策のために1階部分は駐車場のようでした。震災前のものです。高床式とでもいいますか、2階以上に人が暮らしていたのですが、次の写真に言葉を失いました。
同じアングルから撮った写真は、2階に上がる階段を残しただけで、全て流されてしまっている。

あの津波が、どれだけ想定外だったか。

しかしながら先生は「歴史を知ることで、これを防ぐことが出来たはずなんだ」と力説されます。

スライドでは、気仙沼の地図が映し出されました。
その地図を使って、江戸時代中期に埋め立てられた場所を指し示してくださいました。

気仙沼は「自然の良港」などと言われるが、実は「緻密に計算された人工の良港である」と言います。
気仙沼が良い港といえる2つの条件は、
・風をよける港
・風を待つ港

気仙沼には「室根おろし」といって、風が吹き、それが船を押し出してもいるそうです。

江戸時代の人の知恵がなし得た技。
先生は、たまたま工事の際に立ち会い、その深く掘ったところから、江戸時代の埋め立ての技術を見る機会があったそうです。その技術力の高さ、仕事の丁寧さには驚かれたそうです。

数ある地震や津波によって被害を受けていたのは、昭和・平成に埋め立てたエースポート辺りであり、江戸時代の埋め立ては、時間をかけてシッカリと作業したのでしょうか、しっかりしたものであることに、什器の乏しい時代の丁寧な仕事がわかります。

今回の大津波は、気仙沼の、江戸中期の埋め立てたところ全てを飲み込んでしまいました。

特に被害がひどかった内ノ脇地区は、昭和の始めの頃までは「海苔の養殖場」、鹿折地区は「塩田」があったそうです。

先生のお宅があった辺りは、江戸時代には何もなかった土地。

昭和の「埋め立て工事」は、発展の象徴だったと先生は言います。
私も覚えています。
家から見える港町地区は、ドンドン埋め立てて拡張していました。
そこに広い道路が出来て、広がっていく様を見るのは嬉しいものでした。

気仙沼にも「防潮堤」を作る話が上がり、反対意見も多いのです。
このお話を聞いていると、果たして「防潮堤」を作るというよりも、根本的に「住んではいけない地域」として、高台への移転を急ぐべきではないかと思います。

気仙沼は4回の大津波にあっています。
・明治29年
・昭和8年
・昭和35年
・平成23年

120年に4回の大津波は「津波が多い」と言える土地です。

そしてまた、津波の他にも「大火災」が町を焼きつくしました。
大正4年、昭和4年の大火。
昭和4年の大火後の魚町の写真を見せて頂きました。

私の祖先が暮らした辺りも、何一つなかった。
今回以上ではないかと言えるほどの「火災での壊滅的な被害」
そんな中から立ち上がって今日があるのが気仙沼なんですね。

その大火の後、岩手県から気仙大工が来て「あっという間に作った」というほど、当時は財力もあったようです。

昭和6年に高村光太郎が気仙沼に来ますが、そこがあまりにも(復興のために)騒々しいので(東北のひなびた静かなところを目指していた光太郎は)幻滅して一泊もしないで、気仙沼を後にしたほどだそうです。

それにしても、埋め立てたところが、ことごとく被害を受ける様に先生は「すべてを否定されたような感じ」と言いました。
私も同じ印象を持っています。

気仙沼、そして三陸地方には、たくさんの記念碑が立っています。
明治の碑は漢文で難しく、村人が読んでいるようには見えない碑であるのに対して、昭和の碑は標語になっていて、誰にでもわかりやすいものになっているのが特徴です。

また、明治は供養費が多く、昭和は記念碑が多いのですが、昭和では朝日新聞が寄付を募り、そのお金を利用して建ててくださったことにもよるようです。

岩手県では「ここまで津波がきたよ」という場所に建てているが、宮城県はそういうきまりはないようです。

「津波石」というのが残っています。
あえて残そうとしたことにもよるそうですが、これは三陸に限ったことではなく、沖縄、宮古島、いらぶ島などには有名な場所があるそうです。

海で暮らす人達に共通するのは、津波さえもが「海からの贈り物」という考え方もあるということ。

例えば、大漁と津波の関わりということがあり、
津波の前年:いわしが大漁
後:いかが大漁

そういうことから「いわしで殺され、いかで生かされた」などといった言い伝えもあるとか。

また、三陸地方では、「水死者、魚介類を同時に拝んでいる」という点も興味深いそうです。
気仙沼では「早稲(地名)の踊り」の中に「かつお釣り」という踊りがある。
かつおの供養と、来年の祈願をする踊りだそうです。

そうやって、海に暮らす人達は、海からも恩恵を受け、そうして海によって被害ももたらされ、その中で折り合いを付けて生きているのだなと改めて思いました。

気仙沼の人達にも、川島先生のお話を聞いて頂く機会を持てたら、、、と思った次第です。

川島先生、貴重なお話をありがとうございました。