わが実家がある気仙沼市魚町の「海岸通り」は数年前から「屋号通り」と呼ばれるようになった。
海に面したこの通りは、昔から漁業関係の商売をやっている家が多く、各家には目印として屋号が付いている。「屋号通り」の名をアピールするべく、今年からおそろいの紺ののれんを掛けることになった。私の家は「マルキ」なので、これ。
健康診断の結果
健康診断の結果が届いた。
2年前から急に中性脂肪が多くなってしまった。
検診の際に、「それ以前と比べても、それほど生活は変わってないと思うのですが、どうして中性脂肪が増えたのでしょうか?」と聞いてみた。
すると「40歳を過ぎると、女性は皆さんこうなりますよ」だって。
だから「それ以前と同じ生活ではダメだということです」そうでしたか。
この1年は、帰宅時に電車を使わずに歩くなど、すぐ出来そうなことはしてみた。すると(まだ標準値より多いものの)昨年よりは減った!
また1年、がんばろう。
同年代の女性の皆様、我々も20代の頃は、ピチピチしてたんですがねー。
中性脂肪以外は、すべて標準値内で、元気!(あとは老眼ね…)
昨日のつづき。
シェルスクリプト、出来た!
あーあ、あと1日早ければ、全部自動でいけたのに、残念。
ソースコードが煩雑になっちゃった。もっとシェイプアップ出来そうな気がしている。
昨日のつづき。
うん,うん、うなっていると、従業員達から「その種類のソフトはたくさんある」と教えてもらう。それはWindows版なのね~。あ!一つMacのソフトがあるではありませんか。
ドラッグ&ドロップするだけでよい。いいわ!これ。
しかーし、今回はクライアントからの依頼で「.html」ではなく「.htm」という拡張子にしている。残念ながら「MacNKF_OSX」は「.htm」には対応してない。
変換はファイル単位で行われるので、今回のようにディレクトリが多いと面倒。
ここはひとつ、全部自動化を目指して(というよりもシェルスクリプトの経験を積むべく)挑戦している。あと少しのような気がしているが、うまく動かない。
もう納品まで時間がないので、泣く泣く、半分手作業をして終わらせる。ふ~。
Macで作ったファイルをWindows用に「Shift-JIS」にして、「改行コードはCRLF」に変更する必要が生じた。ファイル数が多いので自動化したいな。
UNIXコマンドの「nkf」を使えばいいらしい。しかし、MacOS Xで「nkf」コマンドが使えない。
そこで、Finkプロジェクトのページから「fink」をダウンロードしてインストールした。
「fink」は「オープンソースソフトウェアを Darwin と Mac OS X で使えるようにするもの」で、手順は同ページを参考にする。
次に「nkf」をインストールする。
ターミナルで、「sudo apt-get install nkf」と入力する。
準備が整ったところで、動かしてみる。
最初は、ターミナルで、「man nkf」して、ヘルプ画面が出れば、OK。
いざ、「nkf -s -Lw file1 > file2」する。出来たっス。
ファイル数が多いので、「すべてのファイルを対称にする」という自動化をしたい。「UNIXシェルbash例文辞典(MacOS X)」を参考にして、シェルスクリプトにした。
#! /bin/sh
for i in `find ./ -type f `
do
#nkf -s -Lw $i > $i.aaa
done
同じファイル名で書き出したいのだが、そうすると、ファイルの中身が全部消えてしまうために、苦肉の策として拡張しのうしろに「.aaa」と付けた。ちょい苦しいのー。
一応出来るが、まだ要望を満たしていない。暗唱に乗り上げてしまった。うーむ。
著者の執念とも思える取材に頭が下がる。膨大で丁寧な取材の数々、登場人物の数を数えたら(数えないでしまったが)相当なものだろう。これから読まれる方は数えてみてはどうだろうか。
証拠の品々についての記述は、そこにそれがあるかのように詳細だ。
この本の出版を許した孫氏だが、このような内容になるだろうと予想しただろうか?
孫氏の立場にとって、いい話だけではなく、「え? こんなことまで書いていいの?」という箇所があってドキリとする。
IT企業の設立から数年での早すぎる上場については、私はあまり賛成出来ない。アメリカ型のこの方法を、日本でも成功の証として語られるが、それは本当に成功だろうか?
このことに孫氏の存在は大きい。孫氏はこの時代の最大の成功者だ。
私もADSLの安さの恩恵に預かっていて、孫氏の登場によって、ADSLは急速に普及したとも思っている。日本のブロードバンド化が進むきっかけになった。
それはそうだと思うが、2000年9月「新日債銀」の本間社長が就任2週間で自殺した話など、闇の世界の余韻を残しつつ、この本は終わる。
「孫氏はどこに向かって突き進むのだろうか?」と想像を膨らますことにもなる。
タイトルの「幻想曲」とはうまいこと付けたなぁ。本当は「蜃気楼」と付けたいと申し出たところ、孫氏がそれに猛反対をし、タイトルを変えたらしい。
任期満了に伴う宮城県知事選があり、新しい県知事は45歳の村井氏に決まった。
同い年。民主党の前原代表は、私よりも年下ではあるが、ほぼ同世代。
なんと言いますか、私らの世代がそういう立場になってるって複雑な気持ち。
昨晩は気仙沼から東京に戻り、「湘南国際村」で開催されたMOSAの「湘南ミーティング」に参加した。
「CoreData」や「CoreImage」のセッションを受講するも難しく、少し読んだことのある「CoreFoundationの入門」もまた難しく、Macのアプリケーション開発への道は険しいのー。
新しいiPodを見せてもらった。
「iPodで動画を見て楽しいかな?」と正直、思っていたが、画面は従来のiPodより少し大きいだけなのに、想像したよりも画面が美しく、「これもアリ」だわん。
その方は、職場と自宅が2分の距離だそうで、「皆さん、iPodはどういう時に利用するんですかね?」って。やっぱ通勤時間に見る(聴く)ことが多いよね。
あ、でも自動車通勤の方は聴けるけど、見るのはちょいと出来ないね。私は当分はシャッフルとnanoで充分かな。とりあえず今は(笑)
叔父(母の弟)の葬儀のために昨日から気仙沼にいる。享年60歳は早かったなーと、若々しい同級生の皆様を見て思う。同級生のお話から、私どもが知らない叔父の顔を知る。
叔父は気仙沼中学校から仙台一高へ進学して気仙沼を離れた。中学では陸上部の短距離走で記録を残しつつ生徒会長を務め、仙台一高では応援団長を務めるなど、リーダー的存在だったようだ。
一浪の後、獨協大学に進学して間もなく、叔父の父親(私の祖父)を癌で亡くす。大学を中退。簿記一級の資格を2ヶ月で取得し、祖父の家業を継ぐが、技術のない20歳前の若者と職人さん達とではうまくいくはずもなく、家業をたたむことになる。
叔父は一部上場企業の若干名の募集に応募し、200倍とも言われた試験になぜか合格し、秋田に勤務。新婚生活を送る。仙台に転勤する頃には1男1女の子供に恵まれ、いろいろな資格試験に合格し、順調な人生に見えた。
ところが、何を思ったか子供が小学校に入学する年の3月に突然、退職して気仙沼に戻った。私の勝手な想像だが、高卒という学歴は、一部上場企業における自分の将来が見えてしまって、つまらなく感じたのではないだろうか?
気仙沼では簿記学校を作り、教え子達をみな簿記試験に合格させるなど良い成績をおさめたようだが、自分が教育者に向いているかどうか悩むこともあったのかもしれない。
そうこうするうちに、縁あって気仙沼の足利本店に入社し(簿記学校はたたんだ)、 退職する頃には取締役常務を務めた。田舎の同族企業において、外部の者が取締役になることは異例のことだと思う。
6年前の平成11年、家を建て直すことが決まり、母親(私の祖母)の部屋を一番いい場所にこしらえた。「ばあちゃん、良かったね」と周囲の皆さんから祝福されると祖母から満面の笑みがこぼれた。
その工事が始まった頃、癌という病気が発覚する。家族から「病気はあまり良くない」と聞いた。本人には伝えていないことも聞いた。叔父の父と弟、そして叔父の従姉妹が癌で亡くなっている。だから自分も癌になるのではないか?と気にしていたし、人一倍、健康に気を配っていたにも関わらず、癌になってしまった。数回にわたる手術。そして入退院を繰り返し、そのたびに、少しずつ痩せていく。
叔父が入退院を繰り返すたびに祖母は「これ以上、長生きしたくない」と言うようになった。そして、昨年、私の父の死から祖母は鬱病になったか?と思うほどガッカリし、その3ヶ月後にあっけなく亡くなってしまった。今年の6月末には、祖母の一周忌の法要を済ませたばかりである。叔父は最後まで親孝行だったなぁ。
入退院を繰り返す叔父は、3年前に自分の仕事を後輩にゆだねて足利本店を退職した後、「人生応援団」というキャッチコピーを付けて「行政書士事務所」を設立した。
真面目な仕事ぶりに少しずつ顧客がついて軌道に乗り始めたのに、病気は容赦なく悪化する。これから、という時に、これから奥さんと2人で第2の人生を歩くという時に。
亡くなる2週間ほど前、気仙沼に叔父を見舞った。点滴用のスタンドを引っ張ってスタスタとトイレに歩く叔父に、「前(その2週間前に肺炎を併発してしまった時)より良いように見える」と言うと、「そんなことはない。前とは全然違うんだ」と冷静に言った。そして私達はいつものように、「税金のこと」「最近、株価が上がってること」などを話した。
「さ、ではそろそろ帰ります」という私に「○○(自分の息子)をよろしく頼む」とそれを2度繰り返して言い、私が「わかりました」と言うと、安心して目をつぶった。その姿が今も目に焼き付いている。
叔父は、数日前から意識が朦朧とし、そのまま眠るように亡くなったと聞いた。
ご冥福をお祈りします。