ボニート物語 —12

西新宿はボニートのクライアントに近い。仕事上なにかと楽だし、パソコンとその周辺機器を買うにあたっては、量販店が林立するので便利だ。地下鉄・大江戸線が開通し、交通の便はさらに良くなり、申し分ない。

ボニートの事業については、毎年悩みながらもなんとかやって来れた。しかし、待てよ。このまま「パソコンメンテナンス業」1本でいいのだろうか? パソコンは年々、使いやすくなっている。これまでのやり方で、次の10年を乗り越えられるだろうか? 答えはNOだ。

平成14年(2002年)1月、ボニートは開発をメイン業務にするべく一新することを社員通達した。通達を出す前の年、平成13年(2001年)秋から具体案を考え、変革には2002年から2004年までの3カ年を当てることにした。私自身が勉強しなければならないことが山ほどある。何をどうすればいいのか手探りで出口が見つからない。私は、とにかくC言語の勉強を開始した。変革に向けて、とにかく一歩を踏み出した瞬間である。

ボニートは平成14年(2002年)6月1日、創立10周年を迎えた。

ボニート物語 —11

(有)テレパスの創立は平成4年(1992年)5月22日。
(有)ボニートの創立は平成4年(1992年)6月1日。

わずか10日の違いを知って、お互いに「へぇ~~~!」と驚いたものだ。話を聞けば創立の経緯も似ている。なにか不思議な縁を感じた。

偶然は重なるもので、平成10年(1998年)私が西新宿・青梅街道沿いに事務所を探していると、秋山氏も「その辺にいい物件を見つけた」という話になる。

「KFビルの701と702の2部屋が空いているから、隣合わせで借りないか?」と誘われた。当時高額の「光ファイバー」をシェアする案も可能になりそうだ。しかしながらKFビルは、ボニートの事務所経費の予定額を10万円ほど上回っているので「無理だ」と伝えると、(有)キャップの永山氏から「事務所をシェアしないか?」と誘われた。

KFビルの7階はメゾネットタイプで、1階・2階それぞれにトイレが付いているから、半分ずつ分けて使うことが出来る。おおいに迷ったが、ボニートには喫煙者がいて「社内禁煙」が絶対条件のテレパスやキャップとやっていけそうにない為、断念した。

断念しながらも、せっかくだからと、すぐ隣の建物(アルテール新宿)を事務所に決めた。それが現ボニートの所在地である。

早いもので、あれからもう5年の月日が経過した。

ボニート物語 —10

そうこうするうちに、NTTは平成8年(1996年)12月からOCNエコノミーサービスを神奈川県藤沢市と岐阜県大垣市で開始した。常時接続で月々38,000円の定額。しかもIPアドレスを16個取得出来る。

SIGの会の皆さんも検討を始めた。SIGではアナログ回線を利用しているので常時接続ではあるが速度的には遅い。OCNエコノミーの128kbpsは魅力的な速度だ。

ボニートは、平成9年(1997年)秋にOCNエコノミーの申し込みをするとともに「bonito.co.jp」ドメインの取得をした。JPNICに受理されたのは年が明けた平成10年(1998年)1月5日。サーバはUNIXベースではなく、得意のMacintoshを使うことにした。

田中求之さんの「Web Scripter’s Meeting」ページを参考にしてLC475でサーバ構築する。GoLive社のCyberStudio(現在のAdobeGoLive)というソフトが気に入り、自分でページを作ってみた。それが「あぽ~日記」のはじまりである。外向けに公開したのは平成10年(1998年)7月のことだ。

それから4年半、細々とページを更新している。

ボニート物語 —9

初めて「SIGの会」のMeetingに参加した日のテーマは、「会員が増えすぎたことの問題点と、今後は新規会員を増やさない方針にしないか?」ということだった。

この会に入ることでボニートに専用線が引けると思ったら、「会員は増やさない方向で考えている」ことを聞き、タイミングの悪さをのろった。その日はハッキリした今後の方針は決まらなかったが「とりあえずホームページの募集案内を削除する」ことになった。見学という形で参加した私への配慮もあったのではないか。

予想以上に会員が増えた事の問題点としては、NOCにサーバが増えすぎた事が上げられた。NOCは(株)エミックの会社スペースを間借りしている。別の場所に別のNOCを用意することで問題は解決されるかもしれない。「別の場所、そんな場所があるのだろうか?」というところでその日のMeetingは終了した。

「SIGの会」では、サーバの設定とメンテナンスは自分でやるのがきまりだ。Linuxのうち「RedHat」を利用している人が多いという。私はUNIXは知らないから「SINGの会」に入れてもらえたとして、サーバを設定・メンテナンス出来るのだろうかという心配もある。私自身の結論も出ないまま、その日は帰った。

それから数回、SIGの会のMeetingに非会員のまま「見学」という事で参加させてもらった。「SIGの会」には私と同じように小さな会社を経営する若い社長が多い。インターネットの事、経営の事、話は多岐にわたり、楽しい時間が流れた。

今も「SIG(シグ)つながり」で話が盛り上がることがある。

ボニート物語 —8

テレパスの社長・秋山氏と出会ったのは、平成8年(1996年)・「セシオン杉並」で行われた「SIG(シグ)の会」のMeeting だった。

「杉並インターネット互助会(通称SIG)」という怪しい名前のこの会は、「インターネットの専用回線を安く引こう」という画期的な試みをする会だった。

当時は専用線を引くと月々数十万円かかるので、ボニートはISDN回線でダイヤルアップ接続をしていた。大企業や大学などの研究機関には専用線が引かれ、常時接続出来る連中が増えた頃で、ボニートごとき零細企業でも常時接続出来ないかと思案した。ISDNで長い時間接続していたので、電話代もバカにはならない。

TMUGの永山氏が経営する会社(有限会社キャップ)が常時接続をしていることを聞いた。どのように工面しているのだろうか?「うちの事務所に専用線を引きたいんだけど…」と相談すると、「こういう会がある」と紹介してくれた。

SIGの始まりは、平成7年(1995年)永山氏が「10kmのアナログ専用線は月々12,000円で引けるという価格表を目にした」ことから始まった。しかしながら専用線のプロバイダ契約が高いことから、NTT料金+プロバイダ料金で月々10万円はかかる。

そこで、仲間を集めて共用することを思いついた。専用線はNOC(Network Operating Center)で分配して接続する。ただし、距離の問題がある。たまたま近くに知り合いがいたことで、杉並区でこの会が立ち上がった。それでも知り合いだけでは足りずにホームページで会員を集めたところ、そこに集まった会員の一人が(当時は有限会社)テレパスの秋山氏だった。

ボニート物語 —7

小さい会社で社員を採用するのは、大変なことだ。私が採用される側だったら、やっぱり小さなところにはリスクがあるので、遠慮したいだろうなぁ(^-^)。それでも知り合いを通じるなどして社員が入ってくれた。1人から2人になり、そうするうちに3人になり、4人、5人と、、、ある年、順調に仕事が増え、社員やアルバイトが増えた。

10年営業してみると、そういう調子のいい年もあるし、サッパリうまくまわらない年もある。今はそういう「波」というものを少しは感じることが出来るが、当時は有頂天になり、あっという間にスタッフは9名に増えた。

仕事の内容も変化し、「こういう仕事があるけどヤル?」というお話には、二つ返事で「やります!」と答えた。

しかし、ある時スタッフから「実はこういう仕事はやりたくないんです」という相談がきっかけで、「ボニートがやるべき仕事は何だろうか?」と考えるようになった。私はその答え探しをしているようなものだ。

なにはともあれ、スタッフが「夢」を語れる会社にしたいと願っている。

ボニート物語 —6

たった一人で創ってしまった「菩丹絃(ボニート)」に社員を入れたのは会社設立から4年目、平成8年の春のこと。

女性が経営する会社(しかも、たった一人の会社)に入ってくれる人はない。いろいろと声をかけ、従姉妹の友人という女性に来てもらった。従姉妹とよく似た感じの穏やかそうなその人は、不安もいろいろあっただろうが、兎にも角にもボニートに入ってくれた。 私と彼女の2人でのスタートが今日のボニートの基礎を創った。

私は社員を採用したことで、経営ということを考えるようになったと思う。一人で会社を創った時は、ただ登記したに過ぎず、経営などは考えていなかったと、振り返るとそう思う。

会社のルールを作る。従業員が働きやすい環境を考える。会社の在り方を考える。ボーっとしているように見えるかもしれないが、実はいろいろと考えごとをしていたわけだ(^-^)

私と従業員の考え方にはズレがある。年齢も立場も社会経験も違うから、それは当然の事だ。そのズレを確認しあいながら、納得できる妥協点を見つけて次に向かう作業は、私には案外と合ってることに気づいた。

ボニートの歴史の中で特筆すべきは彼女が入社してくれたことだ。それがなかったら、今日のボニートはなかった。

社員第一号の女性はその後ボニートを辞め、幸せな家庭を築いていている。

ボニート物語 —5

「菩丹絃(ボニート)」は「音楽制作業」として設立した。音楽制作の仕事のあても少しはあったし、ニーズもあるはずだと信じた。しかし「菩丹絃」を設立した平成4年は、バブルがはじけ、日本中に暗い空気が漂っていた。広告費は削減されてしまった。

「菩丹絃」の収入源はMacのメンテナンス業務になった。当時主流だったNEC98はスタンドアローンで使う。そこに出現したMacはネットワーク化に対応し、プリンターを共用し、社内メールを簡単に使える画期的なものだった。それを大手企業が導入したので、導入の際のインストラクター業務とよろず相談がメイン業務になった。

それでも目白の事務所には、しこたま金をつぎこんだ音楽機材一式を置いて夢を見ていた。昔の機材は大きくて場所を取る。それが次第に邪魔になり、西池袋に移転する時に、とうとう音楽制作業をメイン業務にすることは諦め、機材のほとんどを売り払った。

あれだけ金をかけた機材類は、二束三文になった。最初に買ったフェンダー・ローズ・ステージ、YAMAHAのDX7(初代)、KORG M1などの名機を次々にワゴン車に積まれた時には、思わず、目頭が熱くなったことを覚えている。ワゴン車の後ろを呆然と見送りながら、「ボニートをちゃんとした会社にするゾ」、などと誓った。

ボニート物語 —4

「どうして会社を創ったのか?」と聞かれることが多い。「どこにも入れなかったから」と答えている。「Macと出会ったから」と答えることもある。

その2つは確かに後押しにはなったが、もしも、まともな会社に就職したとしても、もしもMacと出会わなかったとしても、私は会社を創っていたのではないかと思う。

私の実家は何代か続いた商家で、事業を起こすことを考えるのは、皆さんが高校を出た後は大学に行こうかなと考えることと同じくらい、ごく自然のことだ(ただし、女性は、「商家の嫁になる」ということだったが)。

そういう環境で育つと、仕事するなら、いずれは起業しようという意識が私のDNAに染みこんでいるようだ。企業家などと、たいそうなことではなく、商人として物事を考えていることに気づいた。

折良く、平成2年の法改正(平成3年4月1日施行)により、有限会社は一人役員(社員)での設立が可能になったことと、Macを使って何か出来るかもしれないという大ざっぱな見通しで会社設立に踏み切った。

今にして思えば、なんとも世間知らずな話ではある。