第2回:Aさんを囲む会(Tチャン食事会)

NYから帰ってらしたAさんを囲む会が丸ビル「ななは」で開催された。
AさんとTチャン以外は全員女性という華やかな会、2回目。

Aさんは60歳代になっても、果敢にチャレンジを続けていて、そのエネルギーはいったいどこから来るのでしょうか?

アメリカの「最新・入れ歯事情」を教えて頂いたり、かと思えば「男ってものはねー」と本音トークが始まり、かと思えば「日本の文化を我々はもっと知るべきだ」と真面目な話になり、「世界のIT事情」については、自分の目で見て聞いてくるわけだから、本などの知識とは違って、説得力が大きい。こちらの脳を柔軟にしておかなければ、話には付いてゆけぬ。

私はおおいに刺激を受けて、帰りの電車も興奮しまくりでした。ありがとうございます。

日本女性技術者フォーラム(JWEF)例例会

日本女性技術者フォーラム(JWEF)」の6月の定例会(パネルディスカッション)に参加。テーマは「女性エンジニアの過去・現在・未来」

尊敬する女性経営者のAさんもパネラーのお一人。
この会も、Aさんに誘って頂いて「私・技術者ではないのですが…」参加させてもらっている。

会場には若い女性技術者が多数いて熱気がある。
パネルディスカッションには資料として(なかなか明確に出てこない→)「企業における女性技術者の諸々の統計」が提示され、本音トークでヒートアップ。おもしろい。

例えば、女性管理職の割合、そのうち技術者の割合などは、公にされてないようだ。そんな状況の中、かき集めたデータを見せてもらうと、その数(女性管理職の数)の少なさに唖然とする。まだこの程度だったのかー。

司会を含めた6人のうち、お2人は東大卒だが、残りの4人は、お茶の水女子大、東京女子大という女子大出身という点は興味深い。

一人のパネラーの方が「以前、アメリカに視察に行った時に」という話の中で「アメリカの女子大では、女性がいかにリーダーシップをとっていくか」という気風がある。

日本の女子大の多くがが「良妻賢母」といってる点とは大きな違いがあると感じたとのこと。
そういえば、ヒラリー・クリントンも女子大出身である。ちなみに私も女子大(短大)出身で、学校も家庭も「良妻賢母」と言われて育った。

パネラーの方は、私よりも年齢が少し上で、その方々の努力があって今日がある。昔と大きく異なるのは、産休、育児休暇の制度であろう。私の後の世代からは「男女雇用機会均等法」が施行され、雇用は大きく変わった。まだまだ変われる!

諸外国では「育児」に父親も参加しているのに、日本ではいまだに母親の役割とされている点、日本がグローバル化していく上で早くに変えていくべき悪しき慣習と思う。

質疑応答:「女性技術者には管理職になりたがらない人が多い。管理職になってしまったら自分が第一線で活躍するために要する時間が減ってしまうと思っている人が多い。その事をどう思うか?」という質問が出た。

「女性に限らず、技術者には管理者になりたがらない人は多いのではないか」と前置きされた後、「日本企業では、いわゆるデータを集めて論文を書く研究者と、技術者とが混同されているケースが多い。研究者という観点はちょっと置いておいて、技術者としてはコミュニケーションも大切な事。管理職は時間の使い方、やるべき方向を決められる分だけ、よりハッピーになる。キラキラ輝く技術者の管理職が増えれば、きっと、そうなりたいという人が続くでしょう」

そうかもしれない。
私が思うこと。(男女問わず)技術者はコミュニケーションが下手でもイイといった甘え(諦め?)があると思う。コミュニケーションは、仕事をするうえでの大事なツール。それはやっぱり(技術者においても)大切なのねー。

「仕事がんばるゾ!」とモチベーションが上がった会でありました。

送別会そして○○記念日

昨日付けで退社した社員の送別会。
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幹事さんが考えて「感謝状」を送った。
この紙には書き尽くせない感謝の気持ちでいっぱいだ。

今日6/1は、私が作った会社の創立記念日でもある。
その会社は現テレパスと合併して、今はない。

たった一人で創った会社なので、毎年、一人でそっと祝うことにしているが、今年は、たまたま送別会と一緒になったので、元ボニートらと昔の事を少しだけ思い出してみた。

運命のように、この日が、また新たなスタートを切ることになったなー。

ところで、社員の皆が、私(ちっとも特徴のないと思っている私)の口癖をとらえていて、「オヤマさんって、いつもこう言うよね」

あっ、、、そうなの?
私、そんな事を言ってるの?
自分では、自分の事が全然見えてないのねー。あー驚いた。

今日は朝までやってるんだろうなー(小太郎がいるので、お先に失礼さして頂きました。スマンのー)

ありがとうー4年と4ヶ月

本日付けで一人の社員が退社した。
私が創業した会社(有限会社ボニート)が、現テレパスと合併をするきっかけになったような社員であった。彼は、次のステージに向かって進むことに決めたんだ。

テレパスよりも大きな会社に果敢に挑戦し、上場している会社(IT業界では有名な革新的な会社)の技術部門のマネージャという立場で採用された。そのことは私にとっても嬉しいことだ。

彼が、「オヤマさん、いろいろな会社を受けてみると、テレパスが良い会社だってことに気付きます」と言ってくれたことが、大変ありがたい。

「テレパスは居心地が良くて、つい、このまま居てしまいそうになる」と何度も言っていた。
「いてくれていいんだけど…」と私が言うと、
「ここにいた方がいいのかもしれないけれど、どうしても、出てみたいのだ」と言った。

その気持ちはわからなくもない。
彼は若い。可能性がたくさんある。
合併前のテレパスから数えて、7年間在籍。区切りの時であろう。
それで私は(寂しい気持ちを押さえつつ)気持ち良く送ることにした。

でも、なんでしょうかね。不思議なことに、また一緒に仕事をするような気がしてならない。いつの日か、私も成長して、良い仕事が出来るといいな。

新宿2丁目のお神輿

ビルの空調点検に立ち会うため休日出社。
社員には休んでもらって(月曜から働いてもらわにゃいかんですから)、アタシが出社してるわけ。

今日は新宿3丁目の「花園神社」でお祭りがあると、地下鉄のポスターで見た。するってーと、なにやら下で「ワッショイ」の掛け声!

あわててベランダへ。
オー、お神輿だわん。
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デジカメを取りに机に戻っていると、掛け声が止み、ちょうどビルの下あたりで休憩に入ったらしい。
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いそいそと外へ。お祭り大好き!
オー、お神輿!おみこし〜〜〜!
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あ、大勢の人!
新宿2丁目はオフィスが多いのに、こんなにお神輿をかつぐ人がいるんだー。
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そろいの半纏には「新二」の文字。老いも若きも活き活きしている!
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100円ショップの靴下

100円ショップで買った靴下をはいた。
これが100円かー。結構イイじゃん。
尊敬するIT系の女性経営者さんが mixi に書いた日記に触発されて買ってみたンだ。こういうものの品質が上がっているんだなー。

今の日本は、贅沢しなければ案外と安く生活出来るのかもしれない。

近頃、老眼が進んでいて弱る。
通勤電車で本を読む時にも老眼鏡が欲しくなってきた。混んだ電車で老眼鏡を取り出してかけるのは面倒に思う。今はなるたけ手を伸ばして読んでいるが、ダンダン不便になっていく。

ご同輩の皆様、いかがなんでしょ?
私は(それまで視力は良かったから)特別・早い方なのかしらん?

中学の修学旅行

中学校の修学旅行も様変わりしたよね。
私達の頃は…。

私は気仙沼出身で、中学の修学旅行は「日光と東京」だった。
当時は、気仙沼から一ノ関まで大船渡船に乗り、そこから東京には(新幹線はないので)特急「はつかり」とかに乗って、全部で8〜9時間以上かかった。

私の「初めて東京」は、この修学旅行。
私以外にも「初めての東京組」は多くて、テレビで見る東京に、妙な期待を持っていた。

日光東照宮を見た後は、東京にバスで向かい、上野動物園(バンダが珍しい時代)、東京タワー、国会議事堂、羽田空港、迎賓館(の前をバスが通るだけ)、銀座のデパートで買い物、という予定だったかと思う。

当時の気仙沼中学校は11クラスもあり、たしか2班に分かれて行動した。
それでも、泊まる宿は一つだったように思うがどうだったのだろう?
仮に1つだとしたら、500名近い人が泊まれる宿はあったのだろうか?

卒業アルバムを開くと、我々が泊まったらしき「日本学生会館」の写真がある。所在地はどこだろう?ネットを検索したがヒットしない。ご存知の方がいらしたら教えてください。

その頃の修学旅行の、唯一の自由時間は、「上野動物園内」と「銀座のデパート内」だけだったように思う。あとは、旗を持つ先生の後をセッセと付いて歩いたっけ。

弟が言うには「これって普段はなかなか行かない場所だよね」
オー、そうね。
東京出身者が案外と東京タワーに登ったことがなかったりする。

良い思い出です。

午後は晴れたよ

東京は朝から雨。
西山中学校の皆さんは、雨の修学旅行で大変だなーと思っていたら、雨は上がり、午後は晴れた。わずかな時間しか会ってないのに、なんだか母心だわ。

そこに西山中学校の先生が、わざわざ挨拶にお見えになった。
ご丁寧にありがとうございます。

こういった先生のご指導があって、生徒さんがキチンとしているんだなーと感心。
マスコミなどが先生の事を取り上げる時は「良くない時」と決まっているが、実はこのように熱心な先生は多いんだろうね。西山中の皆さん、楽しい思い出がいっぱい出来るといいね。

歓迎:西山中学校3年の皆様

宮城県仙台市立「西山中学校」3年1組の7名の皆様が、テレパスにお越しになった。

「訪問学習」といって修学旅行を利用して、職場を訪問して話を聞くというもの。

上野駅から自力で、テレパスまで訪ねて来てくださった。迷わずに来たとのこと。すごいねー。

皆さんは、挨拶はきちんとしていて、おみやげまで頂いて、驚きました。
私への質問項目も事前によく考えられていて、私からの逆質問にもきちんと答えています。我々、大人の方が、ちゃんとしていないかもしれないと、教わった感じ。
西山中学校の皆さん

私から中学生の皆さんに伝えたいのは次の通りです。
(これは毎年、新入社員の皆さんに話している私の考えです)

質問:起業家になるために必要な事はどういうことだと思いますか?

「そうぞう力」です。
「そうぞう」は、「想像」であり、「創造」でもあります。

頭の中は、無限に「自由」です。
それは、どんな権力を持ってきても、制限することの出来ない場所なんです。
その自由な場所で「想像」を繰り返し行うことで、「創造力」が増し、豊かな人生を送ることが出来るでしょう。

ちゃんと伝わったかな?

皆さんの「学生時代の思い出」はすばらしい財産です。大切にして下さい。

振り返れば、私が中学生の頃には、こんなにちゃんとしていなかったように思う。今日、お越しくださった皆様、来て頂いてありがとう。
西山中学校の皆さんと私

昭和の歌を口ずさみながら…

事務所のラジオから山口百恵の「としごろ」が流れた。一緒に口ずさんだ。
良き昭和の時代。気仙沼は元気だった。私も若かった。グスン。

キーチ君のmixi で「イコーレ気仙沼」が閉店した事を知った。
時の流れとはいえ、切ない。

「イコーレ気仙沼」は、1966年にオープンした「丸光(まるみつ)」デパートが前身である。気仙沼に最初にエスカレータが登場したのは「丸光」だ。私が小学校1年生に入学する年に祖父とエスカレータに乗って、私の「鉛筆けずり」を買いに行った。

私の祖父は、その時代に、すでに珍しくなった「和服」を通した人で、エスカレータに下駄で乗った。その途端に、足を取られた祖父がひっくり返ってしまった。

先に「初めてのエスカレータ」にチョコンと乗った私は、すぐ後ろでドテっという音と「イデデ」という祖父の声、係の人があわててやってきて、エスカレータが停まった事が鮮やかに蘇る。祖父は明治生まれには珍しく身長が180cmほどある大男で、そのうえ和服だから、ただ居るだけで目立つ人だ。エスカレータのまわりは多くの人が集まって注目を浴びた。その時買った「鉛筆けずり」は、まだ実家で母が使っている。

そんな「丸光デパート」は、高度成長とともに潤った。屋上には子供の遊び場があり、乗り物には子供達が列をなした。とにかく日曜日には大勢の人が繰り出した。

ところが、郊外に大型スーパー・ジャスコが出来て、その巨大駐車場に若い人達がいってしまい、旧市街地はスッカリなりを潜めた。

私の家は「丸光」に5分とかからぬところにあるから、それでも、何かと買い物に行った。「丸光」は「ビブレ」と名前を変え、「ビブレ」が撤退する時には従業員らがお金を出し合い、「イコーレ」として再スタートしたがままならず、帰省するたびに「がんばってください」となにがしかの買い物をしたが、その度に縮小されていくのが痛々しかった。

キーチ君が言うように「ノスタルジーでは語れない」そこには現実がある。旧市街地には年寄りばかりが残った。年寄りは車の運転が出来なくなる。足が弱る。近くの店で買い物をしたいと、口をそろえて言う。それでも購買力が足りない。60歳以上がいなくなったら、本格的なゴーストタウンになってしまうのだろうか? 若者が住まなくなってしまった原因を探し出し、改善していくほかはないのだ。

仮に気仙沼の旧市街地だけが、このようなシャッター通りであるならば、気仙沼の問題とも言えようが、日本全国でこのような事態になっているということは、もっと大きな考えでもって、地域を再生しなければならぬ。

私の家の2階から眺める気仙沼湾は、穏やかでキラキラしている。
その2階の応接間の椅子に座り、海を眺めた祖父を思い出す。
このきらめきをもう一度、なんとかならないだろうか?>全国に住む気仙沼出身の皆さま。