解約手続きや変更手続き作業を毎日やっている。机等の引っ越しは2月上旬になりそう。いずれにしても2月いっぱいで西新宿の事務所は撤退でござる。くは~ぁ。パタッ(倒れてド~する)。
ボニート物語 —8
テレパスの社長・秋山氏と出会ったのは、平成8年(1996年)・「セシオン杉並」で行われた「SIG(シグ)の会」のMeeting だった。
「杉並インターネット互助会(通称SIG)」という怪しい名前のこの会は、「インターネットの専用回線を安く引こう」という画期的な試みをする会だった。
当時は専用線を引くと月々数十万円かかるので、ボニートはISDN回線でダイヤルアップ接続をしていた。大企業や大学などの研究機関には専用線が引かれ、常時接続出来る連中が増えた頃で、ボニートごとき零細企業でも常時接続出来ないかと思案した。ISDNで長い時間接続していたので、電話代もバカにはならない。
TMUGの永山氏が経営する会社(有限会社キャップ)が常時接続をしていることを聞いた。どのように工面しているのだろうか?「うちの事務所に専用線を引きたいんだけど…」と相談すると、「こういう会がある」と紹介してくれた。
SIGの始まりは、平成7年(1995年)永山氏が「10kmのアナログ専用線は月々12,000円で引けるという価格表を目にした」ことから始まった。しかしながら専用線のプロバイダ契約が高いことから、NTT料金+プロバイダ料金で月々10万円はかかる。
そこで、仲間を集めて共用することを思いついた。専用線はNOC(Network Operating Center)で分配して接続する。ただし、距離の問題がある。たまたま近くに知り合いがいたことで、杉並区でこの会が立ち上がった。それでも知り合いだけでは足りずにホームページで会員を集めたところ、そこに集まった会員の一人が(当時は有限会社)テレパスの秋山氏だった。
ARENAで「@mac.com」送信
公私とわずに全てのメールをoyama@bonito.co.jp で受けていたが、会社名も変わることだし、公私を分けるンだ。プライベート用は、oyamatv@mac.com を使うことに決めた。
ところが受信は出来るが送信ではエラーになってしまう。ヒョエ~ン。なして~? それはですね~(って教えてもらったばかり>永山さん・ありがとうございます)
.macは、SMTP AUTHを使う。
「環境設定…」を選び、「アカウント」の「送信サーバ」を選択。
「ユーザ認証を使う」にチェックをつけ、
「SMTP AUTHで認証」にチェックをつけ、
ユーザー名とパスワードを入れる。
これでOK! のはずだが、まだエラー。どうして???
実は4つもアカウントを設定している。そういうのが関係しているのだろうか? 試しに新規ユーザを作って上記の設定をしたら送信が出来た!ので、そういうの関係アリ? それとも単に私の設定ミス?(or マシンが変?) 対処法をご存じの方は教えて下さい。
昨日はTMUG 新年会
久々にTMUGの例会に最初から参加し新年会も参加。何ヶ月ぶりだろ? 楽しかったっス♪ 初めてお会いした皆さん、よろしゅう~お願いします。合併に向けて仕事が山積で、二次会は遠慮して帰ったが、ホントは最後までトコトンいたかったなぁ。
● keynote
SF Expo帰りの会員の河野さんがアップルの新しいプレゼソフト「keynote」を見せてくださった。いやぁ~~~・いいっス。用もないのにプレゼしたくなっちゃう。これを使って営業しちゃおっかな。ネタ探さなくちゃ。
AppPowerBook G4 17インチ~
17インチいいな~。画面ひろび~ろ。でも来月から満員電車で通勤する。あれを持っての満員電車はやっぱ辛いだろうなぁ。もうしばらく、PowerBook G4初代でがんばる。12インチ? それはいらない。だって、画面が狭いんだモン。でも通勤電車に乗ったら、考え変わっちゃうかも~(-_-;
やっと・・・.Mac
欲しい名前がなくてずっと取得してなかった.Macだが、やっと決めた(お金も払った)。oyamatv でゴジャル。前に書いたように、とりあえず「oyama.tvドメイン」を取得した(けど、まだサーバ立ててない)。.Macもそれにあわせて、oyamatvにしてみたわけ。
ってことで、これからはMLなどは、oyamatv@mac.comに変更しまスンで、よろしゅう、お願いしますダ。さてっと、変更願いメール出しまくらなくっちゃ。
Apple新製品いろいろ
ボニート物語 —7
小さい会社で社員を採用するのは、大変なことだ。私が採用される側だったら、やっぱり小さなところにはリスクがあるので、遠慮したいだろうなぁ(^-^)。それでも知り合いを通じるなどして社員が入ってくれた。1人から2人になり、そうするうちに3人になり、4人、5人と、、、ある年、順調に仕事が増え、社員やアルバイトが増えた。
10年営業してみると、そういう調子のいい年もあるし、サッパリうまくまわらない年もある。今はそういう「波」というものを少しは感じることが出来るが、当時は有頂天になり、あっという間にスタッフは9名に増えた。
仕事の内容も変化し、「こういう仕事があるけどヤル?」というお話には、二つ返事で「やります!」と答えた。
しかし、ある時スタッフから「実はこういう仕事はやりたくないんです」という相談がきっかけで、「ボニートがやるべき仕事は何だろうか?」と考えるようになった。私はその答え探しをしているようなものだ。
なにはともあれ、スタッフが「夢」を語れる会社にしたいと願っている。
ボニート物語 —6
たった一人で創ってしまった「菩丹絃(ボニート)」に社員を入れたのは会社設立から4年目、平成8年の春のこと。
女性が経営する会社(しかも、たった一人の会社)に入ってくれる人はない。いろいろと声をかけ、従姉妹の友人という女性に来てもらった。従姉妹とよく似た感じの穏やかそうなその人は、不安もいろいろあっただろうが、兎にも角にもボニートに入ってくれた。 私と彼女の2人でのスタートが今日のボニートの基礎を創った。
私は社員を採用したことで、経営ということを考えるようになったと思う。一人で会社を創った時は、ただ登記したに過ぎず、経営などは考えていなかったと、振り返るとそう思う。
会社のルールを作る。従業員が働きやすい環境を考える。会社の在り方を考える。ボーっとしているように見えるかもしれないが、実はいろいろと考えごとをしていたわけだ(^-^)
私と従業員の考え方にはズレがある。年齢も立場も社会経験も違うから、それは当然の事だ。そのズレを確認しあいながら、納得できる妥協点を見つけて次に向かう作業は、私には案外と合ってることに気づいた。
ボニートの歴史の中で特筆すべきは彼女が入社してくれたことだ。それがなかったら、今日のボニートはなかった。
社員第一号の女性はその後ボニートを辞め、幸せな家庭を築いていている。
ボニート物語 —5
「菩丹絃(ボニート)」は「音楽制作業」として設立した。音楽制作の仕事のあても少しはあったし、ニーズもあるはずだと信じた。しかし「菩丹絃」を設立した平成4年は、バブルがはじけ、日本中に暗い空気が漂っていた。広告費は削減されてしまった。
「菩丹絃」の収入源はMacのメンテナンス業務になった。当時主流だったNEC98はスタンドアローンで使う。そこに出現したMacはネットワーク化に対応し、プリンターを共用し、社内メールを簡単に使える画期的なものだった。それを大手企業が導入したので、導入の際のインストラクター業務とよろず相談がメイン業務になった。
それでも目白の事務所には、しこたま金をつぎこんだ音楽機材一式を置いて夢を見ていた。昔の機材は大きくて場所を取る。それが次第に邪魔になり、西池袋に移転する時に、とうとう音楽制作業をメイン業務にすることは諦め、機材のほとんどを売り払った。
あれだけ金をかけた機材類は、二束三文になった。最初に買ったフェンダー・ローズ・ステージ、YAMAHAのDX7(初代)、KORG M1などの名機を次々にワゴン車に積まれた時には、思わず、目頭が熱くなったことを覚えている。ワゴン車の後ろを呆然と見送りながら、「ボニートをちゃんとした会社にするゾ」、などと誓った。