おだTの今後を考える会

恵比寿の「亀戸ホルモン」というお店で「おだTの今後を考える会」という名の飲み会をいたしました。

被災地・気仙沼をなんとかしたいという気持ちからネットで受け付けて販売をしてきた「おだづなよTシャツ」ですが、仕事の合間に作業をしておりました。が、それでは間にあわず、仕事時間も対応するという状態になっていました。

そのため、次第に手がまわらなくなり、夏が終わるこの時期に、半袖シャツのニーズを考え、今年バージョンはいったん終了とさせて頂きました。

しかし、しかし、それを惜しむ声が多いことは事実です。
そこで、「今後」を考えました。

公式ページに掲載している通り、来年春には、ボランティアチームをパワーアップして、2012年バージョンをボランティアで販売したいという意見で一致しました。人数を増強することで、一人一人の負担を減らすことを検討しています。

ってな話を4人でワイワイと。
ホルモンを選んだのは、気仙沼ホルモン大好きなTKのセレクトです。
美味しうございます。
ホルモンのお店について、ホント詳しいっすね。

来年もおだづなよTシャツは、頑張ります!

気仙沼の真っ赤なコーヒーショップ

気仙沼「アンカーコーヒー」のプレミアム店が、明日(8/24)解体されるそうです。

アンカーコーヒーは、気仙沼でシアトルコーヒーが飲めるコーヒーショップです。
その真っ赤な建物が、意外にも港町・気仙沼には良く似合っていました。
それが、あの大津波で被災し、建物は全壊です。

こちらは被災前のプレミアム店です。ステキでしょ。
元々あった倉庫を改装してショップにしたのです。
店内の隅々までセンスが良いです。

ずいぶん長い間、あったものと思っていましたら、2年8ヶ月という短い命だったのですね。
アンカーコーヒー クルー日記」に記載があります。

一人で本を片手に入って、ゆっくり読書したり、家族や友人とお茶したり、朝も行ったのに夕方も行ったりと、頻繁に利用させて頂きました。

気仙沼に、こういうお店を創る人がいる!と驚いて、専務のヤッチさんやノリコさんとお話をさせて頂いたのもプレミアム店でした。

私が、「こういうお店があるよ!」と母に教えてあげたら、すでに母は足しげく通っていたことも驚きでした。

店内のお客さんを見てみると、母のような中年を越えたシニア世代も、結構、来店しています。それは東京のスタバの光景とも異なると思います。

母に、「セルフサービスなのに、大丈夫なの?」とサービスを重視する、結構、厳しい目を持つ母にたずねると、「2階に自分で持って行くから、「まだいだの」と思われないのがいいのっサ」って。ヘェー。そんなものですか。

ここは居心地が良くて、ついつい、のんびり長居しちゃうんですね。
その居心地の良さが、ファンを増やします。
それが、あの大津波で被災してしまった。

ヤッチさんのブログを見ると、新しい何かが始まりそうです。
それもまた楽しみです。

今まで店舗探しを控えていた様子には、何という心配りでしょうと、頭が下がりました。
それにしても、なんだろう、気仙沼の人は前向きだなぁー。

さんまのオブジェ製作

気仙沼中学校29回生の東京在住組は、「目黒のさんま祭り」に毎年参加しています。

「今年はどうなるんだろうね?」と心配していましたが、「今年も目黒のさんま祭りは開催する!」ことが決まったのであります。

そこで、私達・関気会(気中29回生の関東在住の会)は、被災してしまったふるさとを思い、さんまのオブジェを製作して販売しようということになりました。

これまでジュンちゃんが作ってくれたオブジェの人気が高くて、「売ってください」と言われていたことに気を良くして、少しでも気仙沼のお役に立てればと思っております。

ジュンちゃんの指導のもと、皆で作りましょうね、と言っていたのに、私はいまだに製作に参加出来ていなかった。ごめんなさい、皆さん。

本日、とうとう参加して製作の一部を担当させて頂きました。

2つ後輩のMさんと待ち合わせて、真弓ちゃんに迎えに来てもらって、目黒区のスダが避難している場所に参りました。

こんな感じで、作業は進んでいます。

作業分担をしていて、私は初心者コースをw。

テニス部の後輩のMさん、魚町出身のマリコちゃん、真弓ちゃんの妹さんも参加してくださって、関気会メンバーと合わせると、総勢10名近いでしょうか。

最近の気仙沼情報を交換し合います。同級生はなぞしてっぺね?
そして、こちらが出来上がりの少し前。
これにもう少し手を加えて完成しますので、まだ道のりは長く。

8月の作業日は、8/27(土)
9月は、毎週、土日に行います。
9/18(日)が「目黒のさんま祭り」ですから、それまで頑張りましょう!

手伝ってくださる方は、私か関気会メンバーにご連絡ください。
お待ちしております!

櫻井音楽教室のこと

気仙沼の後輩からメールを頂きました。
ありがとうございます!
とても嬉しいです。

鼎が浦高校(現・気仙沼高校)の硬式テニス部では私の2つ下の後輩です。
それより以前に、櫻井音楽教室で一緒にピアノを習っていたので、小さい頃から存じています。

櫻井孝子先生は、この津波でお亡くなりになりました。
先生は、とても厳しくて、友達のスダなんか「首になったよ」なんて言ってるくらいで、小さな子供相手にやる気のない人は「来なくていい」という方針でした。

私は、物心ついた時には、もう教室に通っていたので、おそらくは3歳か4歳で習い始めたのだろうと思います。

母の実家が弁天町にあり、母方の祖母が送り迎えをしてくれたおかげで通い続けることが出来ました。

発表会の時には、ピアノの練習はもちろんですが、お辞儀を丁寧に指導されます。
名前を呼ばれて、ステージにあがって、ピアノにたどりつき、そしてキチンとお辞儀する。こういう事にも手を抜かない先生でした。そのおかげで、私は社会に出た後に、面接等で大変助かったわけですが。

その厳しさの中で指導を受けた門下生は、この津波で先生が亡くなったことに心を痛めています。

私は中学2年の秋にピアノ教室を辞めてしまいました。
バスケ部に入って、突き指がたえず、先生から「ピアノかバスケか」と言われた時に、おもしろくなってきたバスケを選択してしまったのです。

もっとも、その少し前から、先生から「音大に行くのか・行かないのか」と進路を聞かれていたし、私の手は小さくて、ピアノも上手くないし、ソルフェージュも苦手だった。音感が悪いんですね。だから、私なりに悩んでいたわけだ。

その決断をした夜を今もハッキリ覚えていて、私は泣きながら、その時の課題曲を弾いていました。このように、ただピアノを弾いていたいだけなのにと。

ピアノを選択していたら、もしかしたらピアノ科に進んだかもしれないけれど、私は内気でおとなしい子でしたから、その道を進んでいたら、とても会社経営にはたどり着かなかったろうと思います。

しかしながら、心のどこかでいつも、その選択があったかな?と思ったりして。

先生は、本当は声楽が専門でした。
先生が歌う「ペチカ」が好きです。

来年の、その日に、気仙沼のどこかで先生を偲ぶ会を開きたいなと、そっと思っています。
ともに教室に通っていたミキちゃんに連絡がつくかしら?

気仙沼商工会議所が銀座にお店?!

今朝のNHKニュースで「気仙沼市の水産業を支援するため、地元の気仙沼商工会議所と大手不動産会社が連携して、銀座のビルに気仙沼の水産加工品を販売する店を出す方向で調整を進めている」と報道していました。

そのビルは、来年8月に解体予定で、それまで支援として無料で貸してくださるような事を言っていました。

9月中頃?からオープンするようです。
これは、銀座に行かねば!

巨震激流 (3.11東日本大震災)

気仙沼の三陸新報さんが発売している「巨震激流 (3.11東日本大震災)」を母に頼んで、買っておいてもらいました。

初版はすぐに売り切れてしまったそうで、予約をして入手したと苦労話を聞きました。
現在は、気仙沼市内のコンビニにも置いているようですし、amazonでも入手可能です。

これは本当にすごい記録です。

その記事の中に、津波直後(3/11 4時頃)の実家周辺が写っていました。
45ページです。

三陸新報の中島さんという記者の方が地震直後におしめさん(神明崎)で撮影したそうです。
おしめさんは、まるで孤立状態だっと書いてあります。

記者だけではなく一般の人が書いた「その時」のことは、何度読んでも、引き込まれています。皆さんが「死を覚悟した」と書いています。

母の障害者の届け出

母は、昨年、目の手術をしていますが、いっこうに良くならず、特に今年の正月あたりからは、日に日に見えにくくなってしまいました。

私がネットで検索してみると「障害者」の適用が出来るようです。

1月に帰った時に、申請の方法や申請書を取り寄せ、それに従い、2月には病院にて検査などを行い、3/9に、病院にて医師に医師の診断書作成のお願いをしていました。

その後の震災で、すべてがストップです。

母の状況は良くなることはなく、むしろ悪化しているように思います。
そこで、再度、診断書を書いてもらうようお願いしていましたら、病院の方でも「保留」になってしまったことの詫びを頂き、診断書を受け取ることが出来ました。

それを持って、市役所の隣の社会福祉課に提出して参りました。

これから県に申請をして、結果が出るまで1ヶ月から1ヶ月半かかるのだそうです。

このような申請を、目の不自由な母が一人でこなすのは無理な話で、弟夫妻や私のサポートがあって、どうにかやっております。お一人で過ごされているご老人の皆さんはどうしているのでしょうね?

気仙沼「一杯屋 梟」にて

本町のアパートは「一杯屋 梟」に近いのです。
これは嬉しい。

同級生と「飲みに行きますか」

約束の時間よりちょっと早めに到着すると、あらまぁ、偶然、シゲさんが同級生とカウンターにいました。
どれどれと、厚かましくも隣の席に座ります。

シゲさん(@shigen_)は、気仙沼から「Macで音楽祭り2011」に参加してくださったのです。

「ありがとね」と礼を述べ、最近の気仙沼事情について教えて頂きました。
なかなか進まない復旧、復興。
このままでは、本当に、若い皆さんが離れてしまう。

という話をワイワイ・ガヤガヤ。そして美味しいお料理に舌鼓。

こちらはカツオです。
店主は、「気仙沼はカツオの水揚げ日本一で、家庭料理としても食べる。そんな土地で、わざわざ店に来てまで食べてもらうにはどうしたらいいのか」と研究に余念がありません。

今回は、「試しに食べてみて」と、カツオにニンニクをスライスしたものを乗せて、塩で頂きました。
「美味しいです!」

ニンニクをするよりも、スライスの方が合うと思って。
合います、合います。美味しいです。

サンマは北海道産だそうです。
脂が乗っていて、わざび醤油では足りないというので、こちらも研究されています。

気仙沼にお越しの皆様には、勧めたいお店です。

ところが、ところが、驚いたことに、従業員さんを募集しているのに、なぜか応募がないそうです。
こんなに職がないと言われているのに、どうしたことでしょうか?
単に募集している事をご存知ないのでしょうか?

私がもう少し若くて、気仙沼在住なら、応募したいわ〜なんて思っちゃいましたw。
まだ募集しているようですから、志のある方は是非ご連絡を。

内ノ脇から魚市場前を通って川口町へ

朝、ラン&ウォークで、内ノ脇から川口町方面に行ってみることにしました。
以前は通行禁止で入れませんでした。
今は「入れるよ」というので、本町を出て、幸町を通って、内ノ脇の弟の家の跡地に行ってみることに。

朝7時スタート。

本町を出て、幸町に入った途端に、こんな感じ。

内ノ脇の弟の家の跡地に向います。
まだ建ててから5年弱。
道路から、少し高く土を積んで、その上に建てました。
コンクリートの跡が残っています。

さらに家に入るところにも階段を付けて、津波に備えていました。

そのように津波対策をして建てた家は津波では流されずに済んだのに、火災で全焼です。何一つ残らなかった。火災は「不審火」ということで原因不明。津波後、4〜5日経ってからの謎の出火。ガレキで消防車が入れないから、せっかく残った家々を全て焼き尽くしてしまったため、直後は爆弾でも落とされたかのような様相でした。

その地に、なんと雑草が生えていました。
生命力の強さというのか、焼けただれた地に雑草が生えてる。
少し勇気を頂いた気がします。

もう少し先まで行って、気仙沼高校の先輩の工場「IMPLEX」さんの工場跡地。
東京から、気仙沼に進出して工場を作ったのに、わずか数年での被災。そして気仙沼からの撤退。
なんて辛い出来事でしょうか。

そこで冠水のために引き返します。
近道をしようとしたら、冠水にはばまれ、線路を上を行きます。

宮脇書店さんも湖の中に建っている感じ。
道路はかさ上げされているので通れますが、元のままでは、辺り一帯が海の中です。

弟が助かった「ヨシダビル」の周辺は今も冠水で近寄ることが出来ません。

弁天町の母の実家近くです。
母の実家は、亡くなった叔父さんが立派に建てましたのに、取り壊されていました。

遠くに玉ちゃんの家が、ガワだけ残っています。
右手に見える建物は、ホテル一景閣。
多くの人が避難して助かった建物ですが、いまはガラーンとしてます。
あとは湖のよう。

魚市場前には車が停まっています。
水揚げがあるようです。

市場に活気が。良いですね〜。
といっても、もちろん、全盛時とは比べ物になりませんけど。

もう少し行きますと、「マルキ小山平八商店」の魚市場前工場です。
痛ましい姿になってしまいました。胸が痛みます。

川口町に向かって進みます。
川口町はこんな感じで冠水がひどいです。
道路はかさ上げで何とか通れるものの、水産加工の拠点がこのような有様ですか。

まだ朝の7時台というのに、いたるところが冠水しています。

そして、さらに胸が痛みますのは、このような水産加工の拠点のはずの川口町に、ガレキの山を見た時です。ここに集められているのですね。

被災地はどこでもそうだろうと思いますが、土地、それも平地が少ないのです。

さらに進みます。
冠水のため、地面はグチャグチャです。
どちらの工場の被害も大きくて言葉も出ません。

そして、ありました!
右手に見えるのが「マルキ小山平八商店」の川口町工場です。
ここが、冷凍工場の出発点。

昭和43年頃に祖父が建てて、その後すぐに祖父が亡くなってからは、父と叔父が従業員の皆さんと一緒に築き上げた場所。

もっと近寄って見たいのに、水が引かないので近寄れません。
2軒ほど手前から写真撮影だけでも。

しばらく眺めていましたが、これより先には進めないので、引き返すことにしました。
ここで営業を再開するためには、一日も早いインフラ整備です。
このままでは営業再開出来ません。

きっと、当事者の皆様には様々なアイディアがあるのだろうと思います。
あとは資金繰りをどうするのか、
水産加工業が市の基盤産業でありますのに、いまだに、この状況では、地元の皆さんの不安はつのりましょう。

叔父の家は、もっと先の潮見町にありますが、今回もそちらに行くことは出来ませんでした。

まだまだ、被災地はこんな状況にあります。