巨震激流 (3.11東日本大震災)

気仙沼の三陸新報さんが発売している「巨震激流 (3.11東日本大震災)」を母に頼んで、買っておいてもらいました。

初版はすぐに売り切れてしまったそうで、予約をして入手したと苦労話を聞きました。
現在は、気仙沼市内のコンビニにも置いているようですし、amazonでも入手可能です。

これは本当にすごい記録です。

その記事の中に、津波直後(3/11 4時頃)の実家周辺が写っていました。
45ページです。

三陸新報の中島さんという記者の方が地震直後におしめさん(神明崎)で撮影したそうです。
おしめさんは、まるで孤立状態だっと書いてあります。

記者だけではなく一般の人が書いた「その時」のことは、何度読んでも、引き込まれています。皆さんが「死を覚悟した」と書いています。

母の障害者の届け出

母は、昨年、目の手術をしていますが、いっこうに良くならず、特に今年の正月あたりからは、日に日に見えにくくなってしまいました。

私がネットで検索してみると「障害者」の適用が出来るようです。

1月に帰った時に、申請の方法や申請書を取り寄せ、それに従い、2月には病院にて検査などを行い、3/9に、病院にて医師に医師の診断書作成のお願いをしていました。

その後の震災で、すべてがストップです。

母の状況は良くなることはなく、むしろ悪化しているように思います。
そこで、再度、診断書を書いてもらうようお願いしていましたら、病院の方でも「保留」になってしまったことの詫びを頂き、診断書を受け取ることが出来ました。

それを持って、市役所の隣の社会福祉課に提出して参りました。

これから県に申請をして、結果が出るまで1ヶ月から1ヶ月半かかるのだそうです。

このような申請を、目の不自由な母が一人でこなすのは無理な話で、弟夫妻や私のサポートがあって、どうにかやっております。お一人で過ごされているご老人の皆さんはどうしているのでしょうね?

気仙沼「一杯屋 梟」にて

本町のアパートは「一杯屋 梟」に近いのです。
これは嬉しい。

同級生と「飲みに行きますか」

約束の時間よりちょっと早めに到着すると、あらまぁ、偶然、シゲさんが同級生とカウンターにいました。
どれどれと、厚かましくも隣の席に座ります。

シゲさん(@shigen_)は、気仙沼から「Macで音楽祭り2011」に参加してくださったのです。

「ありがとね」と礼を述べ、最近の気仙沼事情について教えて頂きました。
なかなか進まない復旧、復興。
このままでは、本当に、若い皆さんが離れてしまう。

という話をワイワイ・ガヤガヤ。そして美味しいお料理に舌鼓。

こちらはカツオです。
店主は、「気仙沼はカツオの水揚げ日本一で、家庭料理としても食べる。そんな土地で、わざわざ店に来てまで食べてもらうにはどうしたらいいのか」と研究に余念がありません。

今回は、「試しに食べてみて」と、カツオにニンニクをスライスしたものを乗せて、塩で頂きました。
「美味しいです!」

ニンニクをするよりも、スライスの方が合うと思って。
合います、合います。美味しいです。

サンマは北海道産だそうです。
脂が乗っていて、わざび醤油では足りないというので、こちらも研究されています。

気仙沼にお越しの皆様には、勧めたいお店です。

ところが、ところが、驚いたことに、従業員さんを募集しているのに、なぜか応募がないそうです。
こんなに職がないと言われているのに、どうしたことでしょうか?
単に募集している事をご存知ないのでしょうか?

私がもう少し若くて、気仙沼在住なら、応募したいわ〜なんて思っちゃいましたw。
まだ募集しているようですから、志のある方は是非ご連絡を。

内ノ脇から魚市場前を通って川口町へ

朝、ラン&ウォークで、内ノ脇から川口町方面に行ってみることにしました。
以前は通行禁止で入れませんでした。
今は「入れるよ」というので、本町を出て、幸町を通って、内ノ脇の弟の家の跡地に行ってみることに。

朝7時スタート。

本町を出て、幸町に入った途端に、こんな感じ。

内ノ脇の弟の家の跡地に向います。
まだ建ててから5年弱。
道路から、少し高く土を積んで、その上に建てました。
コンクリートの跡が残っています。

さらに家に入るところにも階段を付けて、津波に備えていました。

そのように津波対策をして建てた家は津波では流されずに済んだのに、火災で全焼です。何一つ残らなかった。火災は「不審火」ということで原因不明。津波後、4〜5日経ってからの謎の出火。ガレキで消防車が入れないから、せっかく残った家々を全て焼き尽くしてしまったため、直後は爆弾でも落とされたかのような様相でした。

その地に、なんと雑草が生えていました。
生命力の強さというのか、焼けただれた地に雑草が生えてる。
少し勇気を頂いた気がします。

もう少し先まで行って、気仙沼高校の先輩の工場「IMPLEX」さんの工場跡地。
東京から、気仙沼に進出して工場を作ったのに、わずか数年での被災。そして気仙沼からの撤退。
なんて辛い出来事でしょうか。

そこで冠水のために引き返します。
近道をしようとしたら、冠水にはばまれ、線路を上を行きます。

宮脇書店さんも湖の中に建っている感じ。
道路はかさ上げされているので通れますが、元のままでは、辺り一帯が海の中です。

弟が助かった「ヨシダビル」の周辺は今も冠水で近寄ることが出来ません。

弁天町の母の実家近くです。
母の実家は、亡くなった叔父さんが立派に建てましたのに、取り壊されていました。

遠くに玉ちゃんの家が、ガワだけ残っています。
右手に見える建物は、ホテル一景閣。
多くの人が避難して助かった建物ですが、いまはガラーンとしてます。
あとは湖のよう。

魚市場前には車が停まっています。
水揚げがあるようです。

市場に活気が。良いですね〜。
といっても、もちろん、全盛時とは比べ物になりませんけど。

もう少し行きますと、「マルキ小山平八商店」の魚市場前工場です。
痛ましい姿になってしまいました。胸が痛みます。

川口町に向かって進みます。
川口町はこんな感じで冠水がひどいです。
道路はかさ上げで何とか通れるものの、水産加工の拠点がこのような有様ですか。

まだ朝の7時台というのに、いたるところが冠水しています。

そして、さらに胸が痛みますのは、このような水産加工の拠点のはずの川口町に、ガレキの山を見た時です。ここに集められているのですね。

被災地はどこでもそうだろうと思いますが、土地、それも平地が少ないのです。

さらに進みます。
冠水のため、地面はグチャグチャです。
どちらの工場の被害も大きくて言葉も出ません。

そして、ありました!
右手に見えるのが「マルキ小山平八商店」の川口町工場です。
ここが、冷凍工場の出発点。

昭和43年頃に祖父が建てて、その後すぐに祖父が亡くなってからは、父と叔父が従業員の皆さんと一緒に築き上げた場所。

もっと近寄って見たいのに、水が引かないので近寄れません。
2軒ほど手前から写真撮影だけでも。

しばらく眺めていましたが、これより先には進めないので、引き返すことにしました。
ここで営業を再開するためには、一日も早いインフラ整備です。
このままでは営業再開出来ません。

きっと、当事者の皆様には様々なアイディアがあるのだろうと思います。
あとは資金繰りをどうするのか、
水産加工業が市の基盤産業でありますのに、いまだに、この状況では、地元の皆さんの不安はつのりましょう。

叔父の家は、もっと先の潮見町にありますが、今回もそちらに行くことは出来ませんでした。

まだまだ、被災地はこんな状況にあります。

母の誕生日・75歳

12日、母の誕生日です。
今回の帰省は、母の誕生日を祝うというのも目的の一つです。

母は75歳になりました。おめでとう、お母さん。
後期高齢者だそうです。
「とうとう、後期だわ」なんて言ってます。

やっぱり、このネーミング良くないですよね。
たしか、当時の福田首相が別の名前を言った気がしますけれど、この名前のままなんですかね。

それはさておき、家族が集まりまして「義山亭(ぎやまんてい)」で食事をしました。
お刺身も頂きました。

みんなで写真を撮ろう。
「エー、全員入るのすか?」ってな話をしているうちに、パチリ☆

オヤマ家は、何もなくなってしまったけれど、全員無事でした。

何もないけれど笑顔があります。
ここから、一歩、一歩、進みましょうね。

甥っこ達は、真っ黒に日焼けして部活動を頑張っています!

港けせんぬま復活祭

気仙沼小学校や、他の各地で「港けせんぬま復活祭」が開催されています。
病院から帰って来た母と、気仙沼小学校で待ち合わせることに。

全国各地から、ボランティアの皆さんがいらしてくださっています。ありがたいです。

慶応大学の学生さんは「サカナモニュメントの作製」をしています。
お魚の一つ一つにメッセージが書かれていました。

キャンドルアートの準備が進んでいます。

こちらも、キャンドルの一つ一つにメッセージが書かれています。

ステージでは、「復興・復活ライヴ」です。
ちょうど、中西圭三さんのステージに間に合いました。
これを無料で見せて頂くなんて、なんてラッキーでしょう。

私は、震災以後、音楽が出来なくなってしまった。
聞くのも辛い時期がありました。今は聞けるようにはなっています。
でも、どうにも、ダメなんです。
以前、父が亡くなった時は1年ダメだった。
今回は5ヶ月になりますが、そろそろ、気持ちを前に持っていきたい。

そんな時に、このステージを拝見しました。
心にジワーっと来ます。
プロですね。ハートをギュっとつかまれました。
なんだろう、気持ちがね、す〜っとね。

中西さんは「ぼよよん共和国Project」を展開しているそうです。

太田の家はこんな感じに…

魚町の近くの太田1丁目にも、家があります。
そちらも行ってみることにしました。

途中の「亀の湯」さんが再開していました。
大阪府池田市から支援だそうです。ありがたいです。

太田の家が建ったのは、昭和何年でしょうか。
津波がなければ、シッカリと建っていましたのにね。

取り壊しのお願いを出しているので、ここも、いつ見納めになってもおかしくない。

魚町の家とほぼ同じ造りです。
玄関を入るとすぐにコンクリートの作業場があって、天井が高くて、上に作り付けの棚がある。
表階段と裏階段があって、神棚があって、その下には茶箪笥というのか、箪笥が作り付けになっている。

気仙沼の町場の家のスタンダードだったのではないでしょうか。

魚町の冠水状況

やっぱり、魚町の実家跡に足が向きます。
とにかく、また行ってみましょう。

15時頃の魚町海岸通りは、こんな感じ。
ご近所の、藤田屋さんと川印さんの間の道路から撮影しました。

裏側からなんとか自宅跡に辿り着くと、

自宅の海側は、海と化してました。
隣に、大島電気さんの建物が見えてますでしょう。
ここが我が家なんです。これは結構、ショック。

大きな建物は、勝倉さん宅。
道路全体が冠水していて、これは、とても住める状態ではありません。

それでも、やっぱり海が見える魚町がイイとおっしゃる数軒の方が、戻って暮らしています。
ここで暮らすのは、本当にご苦労が多いでしょうね。

どのように復興していったらいいのか、気が遠くなる思いです。

宮登さん田中前でオープンしてます

南町で被災した「宮登」さんは田中前に移転して営業しています。

という情報をネットで収集していたので、
「へー!ホントすか?」と半信半疑の母を連れて行ってみることにしました。

お店が減少してしまった気仙沼では「予約してないと入れないよ」と弟夫妻から聞いておりましたので、予約を入れます。

住所から確認するとパルポーさんの2軒隣です。

オー、あったあった、ありました!

こんばんは〜!
あらぁ〜、お久しぶりです、母と宮登の奥さんが挨拶をかわします。

あの大震災の前、3/9に母と食事に伺っておりました。
そうでした、そうでした。
あの入り口近くの、父が好きだった席に通して頂いて、美味しく頂きましたっけ。

母とダンナと私の3人はカウンターに通して頂きました。

3代目のご主人と会話をしながら頂きます。

今日は、「おまかせ」をお願いしました。
彩りも美しく、

本当に美味しくて、

気仙沼に帰ってキターという感じがいたします。
お刺身や、本当に美味しい鶏のからあげ、川魚、柳川なべなど、おまかせでは美味しいお料理が並びますからお勧めです。

いつの日か、南町に再開する日が来ますように。
私どもも、魚町に復活出来ますように。

皆さん、お身体に気をつけて、進みましょうね。

灯籠流しと花火

灯籠流しと花火があるらしい、けれど、案外と地元に住む母には情報がない。

ネットで探すと灯籠流しは「内湾」とあります。
とにかく、実家の方に行ってみましょう。

ヴァンガードを出て、南町、魚町を歩きますと、暗い。
あぁあ、懐中電灯を持参するのを忘れました。

暗いねぇ〜と言いながら、エースポートに行ってみようということになりました。

エースポートにたどり着くと、人が増えています。
やっぱり、この辺りでしょうか?

目をこらして内湾を見てみると、オオオ!船が灯籠を一つ一つ、海に浮かべていました。
暗い夜道を、そろりそろりと、自宅の方向に向います。

内湾に灯籠が浮かんでいました。

思わず、手を合わせます。

さらに進みますと、ご町内の方に会いました。
思いのほか、人が出ています。
実行委員の皆さんが、暗い足下をライトで照らしてくださっています。
ありがたいです。ありがとうございます。

ご町内の皆さんとお互いの無事を確かめ合います。

母は皆さんから「今、どごに居るの?」と聞かれていました。
そのたびに「早く帰りたい」と言う母に、なんだか胸がグっと来ます。
もう住む家がないのにね。

海には灯籠がいくつもいくつも。
海に向って合掌。
いまは、こんなに穏やかな海。

気仙沼プラザホテルの後ろの方に花火が上がりました。
ホテルの影で、半分しか見れなかったけれど、その花火にしばし見入ります。

花火は松岩の方であがっているそうで、そちらでは、さぞや美しく見えた事でしょう。
「高台(ホテルとか)に移動してみる?」と母に聞くと、
「こご(魚町)でいい」って。

例年と違って、静かに花火を眺めました。
そして、灯籠は、少しずつ、少しずつ、沖に向って流れています。